Prologue


 頭痛がしそうなほどの書類の山と、最強人物と陰で噂されているらしい副官から逃走している最中に、ロイは彼を見つけた。
 自分で推薦し、焚き付けておきながら驚くものあれだが、史上最年少の十二歳で国家錬金術師になった天才児、エドワード・エルリックを。
 東方司令部の裏側に位置する場所。演習場へと続く途中の道に、子供はぼんやりとした様子で佇んでいた。
 殺伐とした軍内を取り囲む塀を隠すように植えられている、常緑樹。
 その中の一本の樹の幹に背中を預けて、金色の瞳を空に向けている。
 逃走の足を止めたロイは、エドワードの視線を追うように空を見上げた。
 見上げた先には、雲ひとつない青空。
 思わず見入ってしまいそうなその色から、ロイは視線を外す。
 そして、すっかりトレードマークとなりつつある赤いコートへと、視線を移した。
 ぴくりとも身じろぎもしないで、鋼の二つ名を頂いた少年は空を見続けたままだ。
 なにかあるのだろうかと気になって、ロイはもう一度視線を空へと向けようとしたところで、すい、と、エドワードの右腕が上げられた。
 空に向かって伸ばされた手。
 なにかを掴むように。
 求めるように。
 痛みを堪えるように、歪められた顔。
 それを、ロイは無表情に見つめる。
 弟のために捧げられた、右腕。
 布地の下に隠された、機械鎧。
 その右手が求め、望むものは、元の体に戻るための手がかりだ。
 手っ取り早く伝説級の代物を探すことに決めたと、生意気な表情の子供から報告を受けたのは、あれはいつだったろうか。
 そんなに前のことではないような気がするけれど、ずいぶん前のような気もした。
「賢者の石……か」
 本当にあるのかないのかも判らない、途方もない探し物。
 紛い物なら、噂も物も掃いて捨てるほどあるようだが。
 ぎゅっと、エドワードが伸ばしていた手を握りこんだ。
 機械とは思えないしなやかな動きに、ロイは我に返ったような顔をした。
 妥協を許さない決意が、エドワードの横顔には浮かんでいる。
 再会したときの金色の瞳の輝きを、ロイは思い出す。
 灯った、焔。
 その、強い輝き。
 ふっと、口元に淡い笑みを刷いて、ロイは気配と足音を殺したまま、エドワードが凭れている樹の傍に寄った。
 至近距離にいるにもかかわらず、空を見つめたままのエドワードは、ロイの存在に気づいていないようだった。
 それを残念に思いながら、そっと、エドワードの気配に同化させるように呼吸を合わせて、反対側の幹に背中を預ける。
 樹の幹を挟んで、背中合わせに立った。
 国家錬金術師になれ、と、焚きつけたのはロイだ。
 まだ年端も行かない、犯した罪の大きさに自我を閉ざしかけていた子供に、軍に首を垂れることを唆した。
 思い出すだけで畏怖と戦慄、感動を同時に抱かせる錬成陣。
 あれに魅せられたと言っても過言ではないほど、興味をそそられた。
 禁忌の術。その錬成理論と陣を、わずか十一歳の少年が完成させたのだ。
 同じ錬金術師として、興味を抱かないほうがおかしいだろう。
 そして、その興味が別のものへと変化を遂げてしまってもおかしくない……はずだ、と、ロイはそっと苦笑した。
 強い瞳。その輝き。絶望の淵を覗き込み、這い上がった者だけが有することのできる純然たる輝きに、惹かれない人間がいるのなら会ってみたいと思う。
「必ず……」
 誓うというよりは確認するように呟かれた言葉の続きは、音にはされないまま、エドワードの心の中で呟かれたようだった。
 最愛の弟のために自我を取り戻した彼は、必ず目的を遂げるだろう。
 そして。
 ロイは瞑目した。
 そして、本来送るはずだった日常を弟と共に取り戻し、呆気なく、いっそ清々しいほどあっさりとロイたちの許から……ロイの許から去って行くだろう。
 簡単に想像がつく未来に、眉根を寄せた。
 それを許容できるほど、自分の心は広くない。
 吐息をついて、ロイは目を開いた。
 彼が願いを果たすまで、どれだけの時間があるのか判らないけれど。知らないけれど。
「賭けをしようか、鋼の」
 背中合わせにいる子供には、知らせない賭け。
「キミの願いが果たされるのが先か、私がキミの心を手に入れるのが先か……賭けをしよう」
 エドワードの望みが先に叶ったときは、潔く、その背中を送り出そう。けれど、もし、ロイがエドワードを掴まえるのが早かったときは。
 そのときは、神様とやらが見放し、荒廃した園、魂がその場所に行き着くまでの束縛を。
「さて――、賭けを開始するための言葉を、いつ、キミに告げようか?」
 エドワードが見上げている空と反対の空を見上げ、ロイは楽しげに呟いた。


                                  END