One Day コツ、と靴音が鳴った気がして、エドワードは顔を上げた。 やっとかと思いながら音がしたらしい方向へと首を巡らせたけれど、予想に反して、視線の先には誰もいなかった。 期待を裏切られた気分で視線を落とし、エドワードは無意識に溜息を零していた。 自分の零した吐息に紛れて、文献に夢中になっていたときには気づかなかった、密やかな音が聞こえて、エドワードは耳をすませた。 じっと聴き入ってみると、それは雨音のようだった。 「…雨?」 いつの間に降りだしたのだろう。 雨が降り出しそうな空ではなかったのに。 エドワードは首を傾げながら、机の上に置いた時計で時間を確認する。 約束の時間は、ずいぶん前に過ぎていた。 いつものことだと思う傍ら、これ以上は我慢の限界だと、手元の資料を閉じた。 エドワードにも予定と言うものはあるのだ。 それに、雨が降るなんて思っていなかったから、傘の用意などしてきていない。 今頃、宿にいるあの優しい弟が、「どうしよう」などと呟きつつ、迎えに行くべきかどうかを悩んで、部屋の中を行き来しているかもしれない。 無用な心配はかけさせたくない。 連絡を入れて、迎えに来てもらおうか。 そんなことを考えながら、エドワードは苛立つままに口を開いた。 「あの嘘つき野郎」 なにがすぐに終わらせる、だ。 口汚く罵りながら、未練たらしく出入り口へと視線を向ける。 古めかしい色合いの扉は、しかし、まったく開かれる様子がない。 「まったく」 クソ大佐、と毒づきながら、エドワードが立ち上がったときだった。 包み込むように、背後から抱きしめられたのは。 気配などしないまま、不意の拘束に体が強張ったのは、一瞬。 いつの間にかすっかり体に馴染んだ体温に、マズイくらい安堵していることに改めて気づいて、エドワードはこっそりと顔を顰めた。 安堵していることを感づかれないうちに、文句の言葉を口にする。 「三時間の遅刻だぜ、大佐」 抱きしめてくる腕をやんわりと押しのけ、温かな檻から抜け出しながらそう言った。 「すまない、待たせてしまったな」 「まったくだ。待ちくたびれた」 くるりと背後を振り向いて、エドワードは「もう帰ろうかと思ったところだ」と、嘆息混じりに言う。 とたんに、ロイがくくくっと、楽しそうに喉を鳴らした。 なんだよと文句言うより先に、 「キミは本当につれないな」 面白がるような口調で言われ、エドワードはおどけた仕草で肩を竦めた。 「あんたはいつもそれを言うけど、これ以上、あんたになにを差し出せって言うんだよ?」 「おや、まるですべてを私に捧げているかのように言うね?」 器用に片眉だけを跳ね上げたロイが、面白くなさそうに反論してきた。 ロイの反論に、エドワードは一度だけ目を瞬いて、心外だと嘯く。 「このオレが三時間も待ったんだぜ。あんたに何もかも捧げてると思わないのか?」 「?」 意味が解らないと、そう言いたげに首を傾げた恋人に、エドワードは不機嫌な顔つきになった。 「このオレが三時間も待ったんだぜ」 エドワードは、同じ言葉をもう一度口にした。 心持ち胸を反らし、威張って言ったそれに、エドワードの言葉を理解したらしいロイが、胡乱な眼差しを向けてくる。 「鋼の。威張ることじゃないだろう……」 「威張って何が悪いんだよ。三時間だぜ、三時間。普通でも待たない時間だろ。それを我慢強く待ったんだぜ。普段から短気だ、我慢がきかないと評されているこのオレが!」 「だから、威張ることじゃない……」 「自分から約束をしておいて、人を三時間も待たせたあんたに言われたくねぇな」 「――待たせて悪かった」 辟易したような態度で謝ったロイに、少々どころかかなりムッとしたものの、しかし、普段から大人げない大人が珍しく―不承不承と言えども―謝罪したので、それ以上文句は言わずに、エドワードはさきほどまで座っていた椅子に腰掛けた。 「大佐も座れば?」 隣の椅子を勧めると、静かに椅子を引いて、ロイが座った。 室内には、ふたり分の息遣いと、静寂。 横顔に感じる、視線。 少し居心地が悪い気分を味わいながら、エドワードはなにか話をしようと口を開きかけたところで、それを遮られた。 「鋼の」 特別な響きで呼ばれる銘。エドワードを示す、もうひとつの名前。 大人の節くれだった指に前髪がかき上げられて、不覚にも、エドワードの心臓が跳ね上がった。 どきどきと速いペースで鳴る心臓の音。 奪われる平常心。 けれどそれを知られたくなくて、エドワードは邪険に指を振り払う。 くつりと、また、恋人の喉がおかしそうに鳴った。 「私に心を明け渡しているという割に、つれないね?」 エドワードが拒絶した指をおとなしく引っ込め、ロイが言った。 「べたべたするのは嫌いなんだよ。だいたい、べたべたするのと、あんたに心を明け渡していることは別物だろうが」 気安く触るな。顔を顰めてそう言えば、ロイの顔に、楽しそうな笑顔が広がった。 「キミは本当に面白いな」 「趣味が悪い。面白がるな」 「そうは言うけれどね」 最期まで言わずに途中で言葉を切って、ロイが苦笑を零した。 顔を顰めたまま見つめ返し、エドワードは言葉の続きを待つ。 なにを言われるのだろう。 ロイの言葉は予想がつかない。 どきどきと跳ね上がったままの心臓に、負担がかかりそうだ。 「キミの反応は、いつだって私を楽しませるものばかりで。面白がるなというほうが無理だろう? 恋人に向かって『気安く触るな』と言うのは、きっと、キミくらいだ」 「……不満なら不満だってはっきり言えよ」 遠まわしの嫌味だろうか。そう思いながら言ったエドワードに、ロイは首を振った。 やはり楽しげに口端を上げて、 「嫌味を言っているんじゃないよ、鋼の。新鮮で、楽しいと言っているんだ。曲解して受け止めるのはやめたまえ。天邪鬼が過ぎれば、ただの卑屈にも思える」 「……ほんっと、趣味悪ぃな、あんた。楽しいとか言うなよ」 溜息をついて、がっくりと肩を落としたエドワードの耳に、楽しくて仕方がないらしい笑い声が届く。 本当にどうしようもない大人だ。 同性のエドワードを好きだと言った時点で、かなりどうしようもないやつだと思っていたが―しかし、それを言うならロイの告白を受け入れたエドワード自身もどうしようもないが―、エドワードの憎まれ口を楽しんでいるあたり、本当に、救い難い。いや、性質が悪いのか。 「――で?」 「うん? なんだ?」 「なんだ、じゃねぇよ。溜めに溜めた仕事は全部終わったのか?」 「もちろん」 「ま、そうでなきゃ許さないけどな。三時間も待たされたし」 「……いやに拘るな」 「拘ってなんかいねぇよ」 ロイの言葉にむっとしつつ、エドワードは反論した。が、その反論は無視されてしまった。 「ああ、拘るのは、ずっとひとりで放って置かれて、拗ねているからか。案外、可愛いところがあるな」 「……突っ走りすぎの、その逞しい想像力には感心するぜ」 反論をする気も失せて、天井を仰ぐ。 くつくつと低く笑う声に、最早怒る気にもなれない。 どういう人間か解っていながら、うかつにも目の前の男の手を取った自分を呪うしかないな、と、盛大な溜息をつきながら思っていると、目の端に伸ばされる指先が見えた。 「気安く触るなって、言った」 「却下だよ、鋼の。久しぶりに会えた恋人に触れないなんて、そんなことできるわけがないだろう」 満面の笑顔で即答されて、溜息。それから、苦笑。 確かに、ロイの言うとおりだと思った。 触れたいと思う。 馴染んだ体温。 聞きなれた声。 ずっと、ずっと、本当に心から求めていたそれら。 触れたいな、と素直に思った。 調子付かせることがわかっているから、言葉にしたりはしないけれど、きっと目の前の恋人は、エドワードの心の中などお見通しなのだろう。 その証拠に、少し乾燥気味の指先が、躊躇うことなくエドワードの頬を撫でた。 これ見よがしに、けれど、ポーズ以外のなんでもない溜息をつくと同時に、了承の合図のつもりで、エドワードは瞳を閉じた。 大きな掌に頬が包まれる。 それに頬を預けるように寄せると、かすかに笑った気配。 きっと、エドワードの天邪鬼に苦笑を零したのだ。 相変わらずの余裕ぶりにむかつく。 そう思ったけれど、間近に迫った吐息と、閉じた瞼に落ちた影に、反論をやめた。 触れたい。 触れて欲しい。 三時間も、待ったのだ。 待ち焦がれて、待ち焦がれて、気持ちは暴走する一歩手前だ。 素直に「好きだ」とは言わないけれど。 それだけは、絶対、相手よりも先に言うものかと心に決めているけれど。 掠めるような熱が唇に触れて、すぐに離れた。 一瞬の、キス。 きっと、挑発だ。 それは解っていたけれど、触れるだけの口づけは、エドワードの気持ちを暴走させた。 瞳を開いて、睨み付けるようにロイを見つめる。 うっすらと微笑んでいるロイに気づいたけれど、気づかなかった振りをして、エドワードはロイの軍服の襟元を乱暴に掴んだ。 ぐい、と、皺の寄った服を引き寄せて、満足そうな笑顔を浮かべた恋人の唇に、噛み付くようなキスを、した。 END |