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 遠ざかったはずの気配が立ち止まった気がして、ロイは、書面に落としていた視線を上げた。
 視線を上げたとたん、きれいな琥珀の瞳と、まともに視線が合う。
 視線が合ったことに驚いて、ロイは、瞬きを数回繰り返した。
 それはエドワードも同じだったようで、軽く目を見張っている。
 ロイがじっと見つめていると、視線の先で、エドワードが逡巡するように視線を外した。
 珍しいなと思う。
「鋼の?」
 どことなくいつもと様子が違う気がして、ロイは怪訝そうに小首を傾げる。
 いつもであれば生意気さと気の強さを湛えている瞳が、頼りなさそうに揺れた。
「鋼の?」
 もう一度呼びかけると、エドワードの形の良い唇が、なにかを言いかけるようにかすかに動く。が、言葉が紡がれることなく、変わりに小さな吐息がひとつ零された。
「悪ぃ、なんでもない」
 緩く頭を振って、自嘲混じりの笑みを口端にのせたエドワードはそう言った。
 そしてくるりと向きを変え、当初の予定通り、ロイの執務室を出て行こうとする。
 まだ頼りないばかりの印象が強い背中を見つめていたロイは、ノブが回される音に我に返り、慌ててエドワードを呼びとめた。
「待て、鋼の」
 ロイは勢い良く椅子から立ち上がり、足早にエドワードの傍に近づくと、自分の行動を後悔しているような顔をしている子供を、見下ろした。
 エドワードが吐息に変えてしまった言葉を探すように、じっと、琥珀の瞳を見つめる。
 ロイに見つめられて居心地が悪いのか、エドワードの瞳が落ち着きなくさ迷った。
「鋼の。まだ、時間はあるのか?」
 ロイがそう言うと、隙を見て逃げ出してやろうと思ったらしい。エドワードがロイの様子を窺っていることに気づいて、内心で溜息をつきつつ、こちらは逃がす気はまったくないんだと暗に含めてもう一度同じ言葉で問いかけると、目に見えてエドワードが渋面を作った。
「鋼の?」
 返事を要求するように呼ぶと、エドワードの渋面が深くなる。
 自らの失態を、彼が心の底から後悔しているのが手に取るように判って、ロイは思わず吹き出しそうになった。
 こんな顔をする彼を見るたびに、どれだけ大人顔負けの錬成理論を組み立てても、やはり子供は子供だと思う。
 喜怒哀楽が、はっきりと表情に表れている。本人は隠しきっているつもりのようだけれど、完全に隠しきれていない。
 その素直さと未熟さは、愛すべき一面だ。
 感情のすべてを隠すことができない幼さ、素直さを、どうかそのまま失わないでくれといったなら、きっと彼は「子供扱いをするなよ!」と怒鳴り散らすことだろう。
 大人と子供の境界にいる誰もが、一度は必ず起こす錯覚。
 もう自分は「子供」じゃない、一人前の「大人」だと。
 そして、勘違いをするのだ。
 なにかをすべて飲み込むことが『大人』であると。
 確かに飲み込むこともあるにはあるけれど、本心を晒さないのは、それだけじゃない。
 奔放さをどこかに置き去りに――いや、押し込めてしまい、純粋なままであることに怯えているからだ。
 無防備で柔らかな心の部分を、他者から傷つけられてしまうことに、臆病になるからだ。
 だから、したたかなフリをする。
 虚勢を張ってしまう。
 そういった窮屈な大人の精神を、エドワードはまだ知らなくて良いとロイは思う。
 がむしゃらに、自由に、いてくれればいい。いまは、まだ。不自由な大人の枠の中に、閉じ込められないうちは。
「鋼の」
 ロイはエドワードの前髪に指を絡めた。
 軽く、痛みを与えない程度の力加減で指に絡めたそれを引くと、エドワードの眉間に皺が刻まれる。
「さて、どうやってとぼけてやろう」小さな頭をフル回転させて、エドワードはロイの追及を逃れる方法を考えているのだろう。
 わずかな仕草から、ロイはそれを読み取って小さく笑う。
 表情だけでなく、瞳にも演技力は必要だと教えてやったほうがいいだろうか。
 目は口ほどにものを言う。その言葉を知らないわけじゃないだろう、と。
 言い訳を、逃げる方法を考える合間、合間に、浮かんでは消されるシグナルに、こちらは気づいているのだと。エドワードからのシグナルを見落とすはずがないだろうと言ってやったら、エドワードは悪足掻きをやめるだろか。
 それとも、喚き出すだろうか? 「煩い、関係ない!」そう言って?
 どんな反応を返されたとしても、ロイはエドワードを放っておく気はさらさらないけれど。
 そう思いながら、ロイはもう片方の手でエドワードの体を抱き寄せた。
「大佐!?」
 焦った声と同時に、ロイの体を押し返そうとエドワードが身を捩り、腕を突っ張る。
 拒絶満載の抵抗を、ロイは片手で難なく封じ込めて――それなりにちょっと傷ついたりしつつ――、エドワードの二つ名を呼んだ。
 エドワードの耳元で、囁くように。
「鋼の」
 ロイの声に、ぴたりとエドワードの動きが止まる。
 それに満足して、ロイは囁く声音のまま言った。
「なにか言いたいことがあるのなら、ちゃんと、言えばいい」
「な、に……? 言いたいことなんて、別に……」
「いくらキミが強がって、虚勢と意地を張っても、私は見落としたりしない。それがどんなに些細なサインでも、だ。見くびらないでもらおうか。なんでもないなんて。大丈夫なんて逃げ口上を信じて、素知らぬフリをしてやるほど、私はお人好しじゃない」
 エドワードの言葉を封じるように言って、立ち尽くしているままの小さな体を抱きしめる。
 労わるように肩から背中へと掌を滑らせ、宥めるように撫でてやると、おずおずとエドワードの両手がロイの背中に回された。
 縋るような仕草に、ロイは僅かに目を細める。
 よほど疲れているんだろうと思った。
 精神が限界を超えかけているんだろう。
 誰もが当たり前に口にする「疲れた」と言う言葉を、あるいはそれに近い言葉をロイに吐き出そうとしたエドワードは、しかし、それは口に出してはいけない言葉だと、自らを律して飲み込んだのだろうと、推察する。
 彼はもう少し、自分を甘やかせばいいのに。
「どうした、鋼の。アルフォンスと喧嘩でもしたか? それとも、さすがのキミも少しばかり疲れたか?」
 自分からは口火を切らないだろうと思ったロイは、茶化すような口調で切り出した。
 ロイの腕の中で、エドワードの体がびくりと跳ね上がった。
 ロイの問いかけに返事はない。
 図星を指されて返事ができないのか、素直に頷くか頷かないかで葛藤しているのか。
 どんな理由にしろ、無言の肯定だと決め付けて、ロイはエドワードの背中を宥めるように撫で続けた。
 しばらくそうしていると、腕の中で強張っていたからだが、徐々に緊張を解き始める。
 体重を預けるように、ロイの胸に凭れかかってくる体を、そっと抱きとめた。
 そうすると、ほぅ、と、エドワードの唇から、安堵の吐息が零れたようだった。
「大佐」
 まだ硬さの残る声に呼ばれて、ロイは視線を落とす。
 まばゆい光を連想させる金色の頭部が目に映り、自然と目を細めた。
「どうした?」
 柔らかく問いかけると、ロイの背中に回された手の力が、少しだけ、強くなった。
「大佐」
「うん?」
「大佐、ごめん」
 突然謝られてロイは面食らう。
 いったいなんだと疑問で頭の中をいっぱいにしながら、エドワードの金色の頭部を見つめ続けた。
「ごめん。いまだけでいいから……。もうちょっとだけ、こうしてて」
 か細く、少し恥じ入るように続けられた言葉に、ロイは目元を緩ませる。
 辛いこと、疲れていることははっきりと言葉にはしないで、けれど、追い詰められている心を休ませて欲しいと匂わせる。
 不器用なエドワードらしい心の預け方だ。
 了承の意は言葉ではなく、あやすように背中を一度叩いて、伝える。
 小刻みに震える体を、ロイは抱きしめ続けた。
 自分という存在が、エドワードにとって、彼の最愛の弟にも言えない弱音を吐き出せる場所であればいい。
 唯一の、なんて、そんな贅沢なことは言わないから。
 気まぐれに思い出す。そんな存在でもいいから。
 言葉に出せないSOSのサインを見逃したりしない存在がいるのだと、心の片隅にとどめておいてくれたらいい。
 どうしようもなく疲れて。疲れきってしまったときに。利用するみたいに、一方的に、唐突に、全部を預けてくれればいい。
 家族とは違う、無条件な愛情を注ぐ存在があるのだとわかってくれていればいいから。
 子供の無邪気さそのままに、本音を言葉にできないときに。
 大人のように巧く本音を隠しきれないときに。
 黙ったまま、静寂の中で、ロイはエドワードの体を抱きしめていた。
 どれくらいそうしていたのかは、わからない。
 エドワードの精神が落ち着きを取り戻すまで。虚勢を張り続けられるようになるくらいまで、抱きしめ続けた。
 長かったのか短かったのか判らない時間が経過し、エドワードが照れくさそうにロイの体を押した。
 俯いたまま、呟くように「ありがと」と言って、エドワードがロイから離れる。
 名残惜しいと思いながら、ロイはゆっくりと消えて行く温もりの残滓を思う。
 腕の中に抱きしめたのは、いったい、いつ振りくらいだったろうか。
 もう、何ヶ月も前の話だ。きっと、半年近く時間が流れている。
 それを思い出すと、離れてしまった温もりへの名残惜しさが増した。
「残念だな」
 もう一度抱きしめたくて本心を口にすると、怪訝そうにエドワードが顔を上げた。
 照れくささが残っている目に、警戒するような色が浮かぶ。
 そんなに身構えなくてもいいのに、と、溜息をつきたい気分のまま、ロイは眼差しだけで問いかけるエドワードに言った。
「久しぶりにキミを抱きしめられたのに、あっさり離してしまった自分の迂闊さを悔いているんだよ」
 道化っぽく肩を竦めると、エドワードが呆れたように溜息をついた。
 そして、なにか難しいことを考え込むような顔で眉間に皺を寄せて、黙り込む。
 そんなエドワードの反応に、ロイは苦笑する。
 予想通りの反応だ。
「ばかか、あんたは!」と罵られなかったのは、意外ではあったけれど。
 ああ、もしかしたら、どんな悪態をついてやろうかと考え込んでいるだけなのかもしれないけれど。
 黙ったままエドワードの反応を待っていると、少しずつ、彼の表情が変化をはじめた。
 困ったように眉根が八の字に寄せられる。
 そわそわと落ち着かなさげにくり返される、瞬き。
 ためらい。
 変化と共に、ロイの予想外の反応をし始めたエドワード。
 なんだ? と思いながら「鋼の?」と問いかけようとしたロイは、しかし、思っても見なかった衝撃に言葉を失った。
 意表を突かれて、たたらを踏む。
 無様に倒れこまなかったのは、それなりに体を鍛えていた賜物かもしれないと、こっそりそんなことを思いつつ、耳まで真っ赤に染めながらロイに抱きついてきたエドワードの体を、抱きしめなおした。
「珍しいな、鋼の。キミから抱きついてくれるなんて……」
 純粋に驚きながら言うと、「だってさ」とぶっきらぼうな声が聞こえた。
「……たまには大佐にサービスしておかなきゃ駄目かなって思ったんだよ」
「どうして?」
 貸しを作るのは好きでも、借りを作るのは嫌いだろう? と、今度は茶化す気満々で言えば、案の定。むっとした顔でエドワードがロイを見上げた。
 唇を尖らせている仕草が、幼い子供のようで可愛かった。
「……礼の、つもりだよ」
「礼? 何の礼だ?」
 解らなくて問い返すと、エドワードが言いにくそうに唇を引き結んだ。
 促すように「鋼の」と呼べば、エドワードは仕方なさそうに溜息をついた。
「――さっき、大佐、オレを抱きしめてくれただろう? あれの礼、かな?」
 助かったから、と、エドワードが早口に付け足した。
「オレ、ちょっと疲れていたし、……落ち込んでいたんだ。で、甘えることになるのは解ってたけど、抱きしめて欲しいなって思ってた」
 そんな自分の発言を笑うように、エドワードは笑みを浮かべ、でも、と言った。
「でも、ここは大佐の執務室で、仕事場だろ。公私混同はさすがにマズイなって思ったんだ。だから、なにも言わないで出て行こうとしたんだけど、大佐、そんなこと気にしないで抱きしめてくれたから。オレの気持ち、言わなくてもわかってくれたから、嬉しかったんだ」
 だから、そのお礼。
 早口に告げられた言葉に、ロイは嬉しさを隠すことなく笑った。
 ぎゅうぎゅうと、エドワードを抱きしめる腕に力を込める。
「痛いって、大佐」
 呆れたような抗議の声が聞こえて、少しだけ腕の力を緩めたものの、しかしエドワードの体は抱きこんだまま、ロイは言った。
「ばかだな、鋼の。遠慮することなんてない。キミは、ここでは甘えていいんだ」
「ここ……つーと、大佐の執務室では甘えていいってことか?」
「もちろん。だが、それだけではまだ無欲すぎるな」
「は? 無欲って……意味が解らないんだけど?」
 不可解な顔で見上げてくるエドワードに、にこりと笑いかける。
「ここというのは、なにもこの場所に限定するわけではなくて。つまり、私がいる場所すべてだ」
「え?」
「私の前で。私の腕のなかでまで、虚勢や意地を張ることはないと言っているんだよ」
 きっぱりと言うと、呆気に取られていたエドワードが、おかしそうに吹き出した。
 笑いながら、
「ああ、もう、大佐は俺を甘やかしすぎなんだよ! でも、まあ、甘やかされてやるよ」
 嬉しそうに、けれど、仕方ない風を装ってエドワードがそう言った。
 ロイはエドワードらしい言い方に、軽く肩を竦める。
「甘やかしてやるから、覚悟したまえ」
 気障なウインクをおまけにつけて言うと、「了解。覚悟しておく」とおどけた調子でエドワードが笑った。
 部屋を辞そうとしていたときのような不安定さが消え去ったエドワードの笑顔を見つめ、ロイは安堵する。
 屈託ない笑顔を見つめていたロイは、その笑顔に引かれるままに、エドワードの唇に口づけた。


                                  END