「あんた……ここでなにをやってんだ!?」
 人を指差すのは失礼だと、誰も教えてくれなかったのか、鋼の。
 そう言おうとしたロイは、しかし、
「どうしてここにいるんだよ!?」
 エドワードの怒鳴り声とも、叫び声ともつかない声に邪魔をされて、何も言えず、ただ煩そうに顔を顰めた。


夢で逢えたら…


 怒ったように顔を顰めている目の前の青年に、ロイはどうしたものかと思いながら、視線を流した。
 知らない街並みを、ゆっくりと見回すように視線を巡らせ、案外、違和感などないものだと内心で思う。
「おい」
 ロイの態度に苛立たしさを隠さない声を上げたエドワードに、視線を戻した。
 出会ったときから、エドワードの顔は仏頂面のままだ。
 一度も笑わない。
 ロイに会ったことを喜んでもいない。
 それが気に入らなくて、ロイは呼びかける声を無視するように、スタンドで購入したコーヒーに口をつけた。
 隣のエドワードの機嫌がさらに降下した気配。だけど、やはりそれを無視する。
 睨みつけられているのはわかっていたけれど、素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいると、やがてエドワードが諦めたように溜息をついた。
 横目でそっと様子を窺うと、ロイから視線を外したエドワードは、自分用に買ったコーヒーに口をつけ、見るともなしに街並みを見つめているようだった。
 感情を排した横顔から、エドワードの心情を汲み取ることはできない。
 さて、本当にどうしようか。
 もう一度心の中で何度目かの呟きを零したときだった。
「――どうやってここに? 門は大佐が壊してくれたんだろう?」
 ロイを見ないままエドワードがそう言って、目を伏せた。
 無意識に眼差しに浮かんでしまった感情を、ロイから隠すような仕草だった。
 ロイに知られたくないのだなと思った。
 だからロイは気づかない振りをして、エドワードを振りかえらないまま、口を開いた。
「門は壊した。あんな厄介ごとは二度とごめんだからな」
 セントラルの街の惨状と混乱を思い出したロイの顔が、自然と歪んだ。
 復興まで、いったいどれだけの時間が必要だろうか。
 少しずつとはいえ、アメストリスも安定を取り戻していたというのに。
「だったら、どうして?」
 繰り返された疑問の声に、ロイは思考を中断した。
 ゆっくりとエドワードを振り返ると、エドワードもロイを見ていた。
 怒ったような顔で、まっすぐにロイを見つめてくるエドワードを見返しながら、口を開いた。
「本当に、門は壊したんだ。が、まあ、なんと言うか……私も錬金術師でね」
 苦笑を交えて言うと、ロイの言おうとしていることの見当がついたのだろう。エドワードの顔が顰められた。
「興味深い錬成陣を見ると、それが危険だと解っていても研究したくなる。錬金術師というものは、本当に救いがたいな」
「錬成陣を覚えて、研究を?」
「幸か不幸か、私はキミほどの記憶力を持ち合わせていない」
「書き取ったのか……?」
「キミのおかげで危険は去り、時間は十二分にあったからな」
「呆れた大人だな」
 顔を引き攣らせたエドワードが、心情を隠すことなく言った。
 相変わらずのストレートな感想に、ロイは軽く肩を竦める。
 危険なものだと承知していながら、それでも書き取ってしまわずにいられなかったロイの心情は、考慮してもらえないらしい。
 まあ、それも彼らしいといえば、彼らしいのだけれど、やはり淋しいと思う気持ちは拭えない。
「実にキミらしい感想だ」
「オレらしいもなにも、それ以外にどう言えばいいんだよ……」
「褒めてくれてもかまわないが?」
「わー、さすが大佐」
「……棒読みで言われると、心の底から馬鹿にされている気がするな」
「心の底から馬鹿にしてるんだよ!」
 まったく、どうしようもないな、あんたは。相変わらずだ。そう言いながら軽く睨みつけてくるエドワードに、「そうかい?」と嘯いて、ロイは残りのコーヒーを飲み干した。
 そして、喉を潤いした勢いを借りて、言った。
「キミを取り戻す方法を、手段を、どうしても見つけたかったんだよ、鋼の。だから、キミに詰られるのを覚悟で書き写した」
 そしてロイなりの理論と式と陣を完成させ、実験をしてみたんだというと、エドワードがなんとも言えない顔をした。
 瞬きも忘れたように、じっとロイを見上げてくる金色の瞳を、ロイは覗きこんだ。
 するとそれで我に返ったらしい。エドワードが慌てた様子でロイから視線を外し、責めるように言った。
「どうする気だ? ここじゃ錬金術は使えない。帰れないんだぜ?」
「ならば、ここでキミと生きて行くだけだ。―――と言いたいところなんだが」
「大佐?」
「今回の錬成陣は不完全でね」
 深々と溜息をつきながら言うと、エドワードが怪訝そうに眉根を寄せた。
「実は私の意識だけを、こちら側の世界に飛ばしているんだ」
「は?」
「つまり私の体は門を抜けていない、と言うことだよ」
 まだまだ未熟だな、と落胆混じりに呟くと、エドワードが小さな笑みを零した。
 それは安堵と落胆をミックスしたような笑みだった。
「てっきり大佐本人が来たのかと思ったら、意識だけ、か。こちら側のあんたの中に、大佐の意識が入り込んでいるってことなんだよな。でも、それって危険じゃないのか?」
「天才錬金術師の弟の手帳を入手してね。研究させてもらったよ」
 魂の一部を移す術を、と言うと、エドワードがなぜか肩を揺らして笑った。
 ここは笑うところじゃなく、純粋にすごいと感心するところじゃないだろうかと思いながら、ロイはエドワードの笑いがおさまるのを待った。
 数分間、思う存分笑い続けたエドワードが、目尻に滲んだ涙を拭いながら、
「アルの研究手帳をねぇ。ちゃっかりしてんなぁ。しかも実行するあたりが、あんたも、ある意味、並の錬金術師じゃないよな」
 と、今度は心の底からそう思っているらしい声音で言った。
 エドワードにそう言われて、ロイは少しくすぐったい気分になる。
 素直な賞賛を嬉しいと思う反面、なにか裏があるんじゃないのかと疑ってしまうのは、貸しだとか借りだとか、嫌味だとかで構成してきたコミュニケーションの取り方のせいだろうか。
 お互い様だが、少々、天邪鬼が過ぎていただろうか。
 ロイがそんなことを考えていると、
「あ、でも、危険なことに変わりはないだろう?」
 エドワードが不安そうな口調でそう言った。
「そんなに長く意識をこちら側に留めておけないし、なにより、錬金術が使えないのは同じだ。それに……」
 眉を顰めたエドワードが口を噤んだ。
 言いづらそうに視線をさ迷わせている。
「それに、大佐の意識はこちら側の世界のロイ・マスタングの中に入り込んでいる。オレが前に一度こちらに来たときは、こちら側のオレが死んで、門が開いた。だからその門を潜って帰ったんだ……」
 こちら側のロイ・マスタングが死んでしまうんじゃないのかと、不安そうに呟いたエドワードの肩を、ロイは安心させるように軽く叩いた。
 幼い子供のように不安げに瞳を揺らせて、エドワードがロイを見た。
 頼りない表情浮かべるときのエドワードは、相変わらず儚い空気を纏っていて、思わず強く抱きしめたくなるな、と、ロイは思う。
 抱きしめて、この腕の中に囲って、すべてから隠して守りたくなる。
 それをエドワードが望んでいなくても。
 自分でもどうしようもない独占欲を振り払うように、ロイは緩く頭を振った。
 じっとロイを見上げるエドワードに微笑み、少しだけ距離が縮んだ額に唇を落とした。
 怯えたようにエドワードの肩が揺れた。
「大丈夫だ、鋼の。ぬかりはないよ」
 怯えた肩を宥めるように叩いて、ロイは言った。
 瞬きを繰り返しながら、エドワードが小首を傾げる。
「どういう意味だよ?」
「保険をかけてあるんだ」
「保険?」
「錬成陣の傍にはアームストロングがいる」
「少佐が?」
「ああ。さすがにひとりでは不安だろう? だから、彼にサポートを頼んだ。それから、門を開くのに一番有効だったから少量の血液を用意してある。時間になったら、彼が錬成陣を発動させる手はずになっているんだ」
「少佐が……。でも、大佐、血って……」
 安心した顔をしたのは一瞬で、すぐに嫌悪に顔を歪ませたエドワードに、ロイは「大丈夫だよ」と囁くように返し、
「知り合いの医者に頼んで、少し血を抜いてもらったんだ。それを使った」
「なんで血……」
「自分なりに錬成陣を完成させたときに、たまたま、切り傷のついた手で触れてしまってね。錬成陣が発動した。うっすらと、この世界が見えて、ああ、これは使えるな、と」
 ロイがそう言うと、エドワードが大きな溜息をついた。
 そして、
「これだから優秀な国家錬金術師は……」
 と、苛立ったように呟いた。
「私が見つけた方法ではお気に召さないか、鋼の?」
「いや、上出来だと思う」
「でも、キミは喜んでいるようには見えない」
 喜ぶどころかむしろ迷惑そうに見えるな、と続けようとした言葉を、ロイは飲み込んだ。
 肯定されることが怖かったからだ。
 同じ世界に生きていないのだから、もうロイ・マスタングはいらないのだと。必要ないと言われてしまうことが怖くて。
「……確かに、素直には喜べないな」
 エドワードの唇からそんな言葉が零れて、ロイは一瞬、呼吸を止めた。
 大きく目を見開いて、エドワードを見つめる。
 固まってしまって、身じろぎもできないロイの傍らで、エドワードがぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「……オレ、吹っ切れなくなる。諦めきれなくなる。帰れる保障なんてないのに、可能性に縋ってしまうかもしれない。いま、オレの隣にロイ・マスタングがいる、それだけでどうしようもなく舞い上がってんのに。自分の気持ちが制御しきれないくらいなのに」
 会えて嬉しくて。
 話せて嬉しくて。
 触れて、触れられて、嬉しくて仕方がないんだと、泣き笑いのような表情で言われて、ロイの不安は簡単に消えた。
 愛しくて、愛しくて。
 愛しさのままに、そっとエドワードの肩を抱いた。
 とたんにロイを咎める声。
「大佐、コーヒーが零れちまうだろっ!?」
「ああ、すまない」
 謝りながらも、ロイはエドワードの体を離さなかった。
 それどころか、心密かにコーヒーが邪魔だなとさえ思っていた。
 エドワードの手の中のコーヒーさえなければ、もっと、ちゃんと抱きしめることができるのに。
 そんなことを思っていると「大佐」と、エドワードにして少し弱々しい声で呼ばれた。
 顔を覗き込むと、エドワードが自嘲の笑みを浮かべていた。
「大佐に、むちゃくちゃな我儘を言ってもいいか?」
 予想もしていなかったことを言われて、ロイは言われた言葉の意味を問い返すこともできなかった。
 じっと見つめているロイの視線の先で、エドワードの自嘲が深くなる。
 コーヒーを持っていない方のエドワードの手が、ロイの服の袖を掴んだ。
 ロイの記憶の中よりも、少し大きくなった手。
 温かな、左手だった。
 ロイはその手を見つめ、結局、エドワードの願いどおり、弟だけが元の体を取り戻したんだなと、いまさらながらに思った。
 エドワードの左足と右手は、機械鎧のままだ。
 彼の家族に捧げられ、もう、元にはもどらない。
 今、この時に関係のないことを頭の隅で考え、無茶苦茶なこととはなんだろう、と、エドワードの言いたいことを理解できないまま、ロイは頷いた。
 ロイが頷いたことで、エドワードの表情が安心に緩んだ。
「なぁ、大佐」
「うん?」
「大佐が、優秀な錬金術師でよかった」
「鋼の?」
 今まで一度だって褒めたことなどなかったくせに、今日のエドワードはどういうわけか、ロイの力量を認め、褒める。
 本当になにか裏があるんじゃないだろうな、とエドワードに知られたら大声で怒鳴られそうなことを考えていると、
「時々でいい。大佐の気が向いたときだけでいいから、オレに会いに来いよ――今日みたいに、会いに来い。
 夢の中で会うみたいな不安定な状況だけど、……会いに来てくれよ。本当に時々でいいから」
 呟くような音量で、ぽつりとそんな言葉が落とされた。
「鋼の……」
 弱々しい、まるで懇願めいたその科白に、ロイは驚きを隠せない。
 銘を口にしたものの、ロイは次の言葉をすぐには形にできなかった。
 なにを言えばいいのか、情けないことに思いつかなかったのだ。
 エドワードの緊張が、肩を抱いた掌を通して伝わってきた。
 すぐに答えなかったから、エドワードを不安にさせてしまったのだと思うと、すぐに意識は切り替わった。
 不安にさせてどうする。
「ああ、わかったよ」と頷くだけでいいことに、驚いてどうする。
 そもそも驚くようなことじゃないじゃないか。素直に喜べばいいだけじゃないか。
 こんなにも素直に、エドワードがロイを求めてくれているのだから。
「エドワード」
 驚きの硬直から解放されると、ロイは、そっと名前を呼んだ。
 滅多に呼ばない名前を呼ぶと、ロイの掌の中で怯えたように揺れる肩。
 ずいぶんと長い間、この肩を抱きしめていなかった。
 宥めるようにその肩を撫で、ロイは不安そうな顔をしているエドワードを見つめた。
「むちゃくちゃな我儘だとは思わないよ、鋼の。むしろ、そう言ってくれて私は嬉しい。――可能な限り、キミの願いを叶えたいと思う。私だってキミに会いたい。会いたいから、離れていられないから、諦めきれないから、危険を承知で錬成を試みたんだ。
 会いにくるよ。夢の中で会うような、頼りない存在だけれどね」
 こちら側の、自分にそっくりなこの人物に、媒体になってもらおう。ロイは言いながら、エドワードのこめかみに唇を落とした。
 利用できるのなら、利用する。――いや、利用しなければならない。
 そうしないと会えない。触れることもかなわない。
 世界を隔てて、自分たちは生きているのだから。
 生きて行くしかないのだから。
 いつか、また、もう一度同じ世界で生きる、そのときまでは。
「大佐…………」
 安堵の表情を浮かべて、エドワードがロイに寄り添うように体を預けてきた。
 それを受け止めながら、ロイは、ふと疑問を抱いた。
「鋼の」
 呼びかけて、そっとエドワードへ視線を移すと、昔と同じように幼い仕草で、きょとんとロイを見返す、金色の瞳。
 なにも疑問を抱いていない、その幼さが、少し腹立たしいとロイは思う。
「鋼の、聞いてもいいか」
「なんだよ?」
「……キミはこの世界の、私にそっくりなこの男の傍にいるつもりか?」
「そうしないとあんたに会えないだろう? 大佐の意識が、まったくの別人の中に入り込めると思えない」
 なにを言っているんだと言いたげなエドワードの口調と視線に、ロイは小さく唸った。
 確かに、ロイの意識が入り込んでいる人間も、ロイ・マスタングなのだろうけれど、やはり、抵抗を感じてしまう。
 いやだと思ってしまう。
 どんなにそっくりでも、ロイとは別人だ。
 そんな男の傍にエドワードを置いておくことなどできない。したくない。
 断言してもいい。エドワードが傍にいたら、間違いなくこの体の持ち主たるロイ・マスタングも、エドワードのことを好きになる。
 当たり前のように惹かれるだろう。
 そんなのは冗談じゃない!
「エドワード。鋼の」
「なんだよ?」
「この体の持ち主の近くにいてもいいけれど、間違っても知り合いになるような距離には近づくな。いいな?」
「は?」
 訳がわからないと、怪訝な顔をしたエドワードに、「いいな?」ともう一度念を押したロイの視線の先で、エドワードの顔が顰められた。
「訳がわかんねぇんだけど……。近寄るなって、なんでだ?」
「決まっているだろう! 危険だからだ!!」
「なにが?」
「この体の持ち主の傍が、だ!」
 怒鳴るように声を張り上げたロイの科白に、エドワードが呆気に取られたように、ぽかんと口を開けた。
 しばらくその顔でロイを見つめていたと思ったら、盛大に吹きだし、肩を揺すって笑いだす。
 何だ、なにが可笑しい!? どうして笑うんだ? と、ロイが憮然としていると、心の中の疑問を読んだように、エドワードが口を開いた。
「さすがに自分のことは良く判るってわけだな、大佐?」
「なんだって?」
「あんた、手が早いもんな? きっと、こっちの大佐も手が早いに決まってる――そういうことだろ?」
 そんなことはない! と否定しようとしたロイは、しかし、否定の言葉を飲み込んだ。
 エドワードの言っていることは、正しい。
 認めたくはないが、たぶん、そのとおりだ。
 だからこそ、近づくなと警告をしているわけである。
 自分で自分に嫉妬をするのも、危険だと断言しなくてはならないのも、実に奇妙というか、複雑なものを感じるのだけれど。
 苦虫を噛み潰した面持ちで立っていると、まだ、可笑しそうに喉を鳴らして笑っているエドワードが、ロイの袖をくいっと引いた。
「大佐」
 密やかな甘さを含んだ声が、ロイを呼ぶ。
 その甘い声に、簡単に気分を上昇させる自分は、実に単純だと思いながらも表情を緩ませたロイは、軽く目を見張った。
 唇を掠めた、一瞬の、温もり。
 かすかな吐息の、名残。
「エドワード……?」
 呆然と名を呟くと、照れくさそうな苦笑が、エドワードの面に浮かんだ。
「安心しろよ。近づかないから。大佐が中にいるとき以外は、絶対に、近づかない。約束する」
「……ああ、そうしてくれ」
「そうする。オレだって嫌だしな、あんた以外の誰かに触れられるのは――って、アルは別だけど!」
「……それは、妥協しよう……」
 したくはないのだけれど、とは、心の中だけで呟くに留め、ロイは頷いた。
「じゃあ、交渉成立な! ちゃんと……会いに来いよ、大佐。オレ……待っているからさ。あんたが、オレを待っていてくれたように、待っているからな!」
「ああ、今度は私からキミに会いに来るよ」
 夢よりも長く短い、不確かな時間をキミと過ごすために。
 いつでも。
 キミになんどでも触れたいから。
 会いたいから。
 夢も時間も越えて、キミと抱きしめあおう。


                                 END