七夕の夜の約束 天気はあいにく曇り空。 切れ端も見つからないくらいに空を覆っている雲を窓越しに睨みつけながら、ロイ・マスタングは不機嫌に溜息をもらした。 ロイのデスクの上から、決裁済みの書類を取り上げていた腹心の部下、紅一点であるリザ・ホークアイが、呆れた眼差しを隠しもしないでロイに視線を向けた。 「大佐」 感情を排した声で呼ばれて、ロイは、椅子ごと部下を振り返った。 「なんだね、中尉」 「仕事をなさってください。空を睨みつけていても書類は減りません。加えて言うなら、今日は夕方から雨です」 淡々とした部下の言葉に、ロイは眉を顰めた。 そして「わかっている」と不機嫌に答えて、無造作に放り出していたペンを取った。 積みあがった書類に目を通し、サインが必要なものには署名をする。 部下の視線を感じ取りつつ、ロイはのんびりとやる気のない動作で仕事をこなす。 くだらない苦情や、上官からの叱咤激励とやらを流し読みしつつ、 「なにもこんな日に悪天候になることもないじゃないか」 文句を口にした。とたんに容赦のなく「ただの伝承です」と、素っ気ない一言が返される。 ロイは苦情という名の書類から顔を上げ、凛々しく表情を引き締めている部下を見た。 「中尉、夢がないね」 「伝承よりも、天候よりも、大佐が仕事を終わらせてくださるほうが、わたしには大事ですので。はっきり申し上げますと、大佐に付き合って残業をするつもりは、ありません」 「……はっきり言いすぎじゃないか」 「仮にも私は上官だよ」とロイが言えば、「上官らしく仕事をしてくだされば、もう少し柔らかな言い方をするよう、考慮いたします」と、きっぱりとした返事が返された。 ホークアイらしい答えにロイは肩を竦めて、書類に手を伸ばす。 たいして重要でもない書類の何枚かに目を通したところで、ロイに直接繋がる電話が鳴った。 ロイとホークアイの視線が、同時に電話に注がれる。 電話の相手は娘自慢の親友からか、はたまた伝説の石を捜し求める恋人からか。 どちらにしても、今日の仕事が停滞するのは決定事項だ。 どんな予感を感じたのだろうか。口元を微笑ませたロイが受話器を持ち上げたところで、ホークアイの唇から諦めの溜息が零れた。 受話器が上がると同時に、機械を通して、それでもなお屈託なく明るく届く声が『大佐!』と男の階級を呼んだ声が、漏れ聞こえた。 ホークアイの目元が、かすかに緩む。 罪を背負いながら。罰を受けながらも、それでも、それに負けない道を選んだ少年の姿が脳裏に浮かんだ。 「やあ、鋼の」 受話器越しに届いた恋人の声に、ロイは相好を崩す。 上官の頭の中から仕事の二文字が吹き飛んだことに、もう一度溜息をつきつつ、けれど、今日は仕方がないと潔く諦めて、ホークアイは終わっている分の書類を小脇に抱えた。 椅子ごとホークアイに背中を向けた上官に敬礼をして、ホークアイはそっと踵を返すとロイの執務室を出た。 ぱたりと音らしい音もなく扉が閉まると、ロイは、恋人以外に向けたことのない甘い声で「鋼の」と呼びかけた。 「珍しいな、キミが電話をかけてくるなんて」 受話器の向こうでエドワードが、苦笑を零した気配が伝わってきた。 しばしば連絡を断絶してしまう悪癖を、自覚してはいるらしい。 『今日って、七月七日だろ』 「――おや、覚えていたのか?」 『覚えていたんだよ、珍しく、このオレが! だから、……まだ遠い場所にいるから、すぐに会いには行けないけど、電話くらいしておこうかなって思ってさ』 ぼそぼそと伝えられる内容に、ロイの顔が自然と笑んだ。 「嬉しいよ、鋼の」 軍で一番の知識人であるファルマンから教えられた、東の小国の伝承。 自業自得とはいえ、引き離された恋人たちが、一年に一度、天の河を越えて触れ合うことが許される日だという、今日。 ファルマンの話を聞いたのは、もうずっと以前だ。 一緒に聞いていたエドワードは、興味を持った様子ではなかったのに、覚えていたらしい。 「鋼の」 『なに?』 「会いにこられる距離なら、会いに来てくれたのかい?」 『大佐は会える距離にいて、オレに会いたいとは思わないのか?』 薄情者、と、拗ねた声が続けて言った。 それに「まさか!」と慌てて返して、ロイは 「すぐに会えない距離でも、会いたいよ。会いに行く手段があれば、今すぐにでもキミの傍に行きたいね」 囁いた。 受話器の向こう側で、エドワードは絶句したようだった。 いまごろ顔を真っ赤にしているだろう姿が、容易に想像できる。 しばらくして、聞こえるか聞こえないかの声で、『気障なやつだな』とエドワードが呟いたけれど、ロイはそれを聞き流した。 「鋼の」 『なんだよ?』 「彦星と織姫だったか? 彼らのように一年に一度というわけではないけれど、キミに会える回数が少ないのは寂しいね。……そろそろ一度、こちらにおいで。キミに会いたくてたまらない」 声を聞いてしまったらなおさらだ。 そう告げると、小さな声が『オレも大佐に会いたい』と言って返した。 『明日、今いる町を立つ予定だったんだ。たぶん数日のうちにそっちに着く』 「待っているよ」 『へまして、怪我なんかするなよ』 「了解した。キミこそ、無茶なことをして、怪我などしないようにしろ。――待っているよ」 『おう。っと、じゃあな、大佐! 数日後に会おうぜ』 久々の余韻も、甘い言葉もなく、素っ気なく通話は切られて、エドワードらしいそれに苦笑して、ロイは受話器を耳から離す。 ツー、ツー、と無機質な音が流れる受話器を見つめ、それから、ロイは窓の外を見上げた。 空に広がる雲は、いつのまにか灰色に染まっている。 「雨雲か……」 あの雨雲の彼方には青空が広がっているのだろう。 そして今年も恋人たちは、下界の天候に左右されることなく、逢瀬を果たすことだろう。 「さて、今宵一年ぶりの彼らに、鋼のとの無事な再会を願うとするかな」 それとも、自分たちの逢瀬に夢中で、下界の人間の身勝手な願いなどにかまう余裕はないだろうか。 そんなことを考えながら、ロイは受話器を戻すため、デスクの正面に向きなおった。 目に映ったのは、詰まれた未処理の書類。 「数ヶ月ぶりの逢瀬のために、仕方がない、仕事をしておくか」 その前に休日の申請書を書いておこうと、ロイはもう一度ペンを手に取った。 END |