――――そんな顔をするんだ。
見たこともない表情に見入りながら、軽い嫉妬が胸の中で渦巻いた。
「心ここにあらず、という感じだな、アンジェリーク?」
苦笑混じりにジュリアスがそう言うと、それまでぼんやりとしていたアンジェリークは、ハッとしたように我に返ってジュリアスを見つめた。
ぼんやりとしてしまったことを詫びるように、緑色の瞳が翳る。
「気になることがあるのであれば、今日は……」
帰るとしよう。そう続けるはずだった言葉は、しかし焦った声に遮られた。
「いいえ!! あの、ぼんやりしてしまってすみません、ジュリアス様」
「無理をすることはないのだぞ、アンジェリーク。試験も中盤にさしかかっている。疲れているのなら休むが良い」
「――――はい」
なにかを言いかけて、しかし、アンジェリークは口を閉じた。
言えばきっと叱責を受けてしまうだろう。
(言えるわけないわ、この時期になって迷っている、なんて)
女王候補としてこの飛空都市に召還されていながら、女王試験を辞退したいなんて……。
傍にいたい人がいるなんて、とても口にできない。
ジュリアスに知られないように、そっと吐息をつく。
「部屋まで送ろう」
「はい、ありがとうございます。ジュリアス様」
穏やかに微笑んだジュリアスに促され歩き出したアンジェリークは、再び吐息をついた。そのために、前を向いたジュリアスの唇から、同じように吐息が零れていることに気づかなかった……。
(今日も笑ってはくれなかったな)
寮のドアが閉じるのを見つめ、そっと目を伏せた。
――――笑ってはくれた。しかし、その笑顔はジュリアスの望むものではなく、まったくの別物だった。
緊張を隠しきれない、無防備ではないそれ。
いつだったかオスカーが言っていた、アンジェリークの笑顔は弾けるような笑顔だと。
見たことがない笑顔の話をされて、確かあのときも嫉妬をした記憶がある。
ジュリアスの前以外では、常にあのように楽しげな笑顔をしているのだろうか。
無意識に拳を握り込んだ。
思い出してしまった、苦い光景。
午後の公園で、本当に楽しそうに歩いていたアンジェリークとゼフェルの姿。
アンジェリークは飾らない笑顔で、無防備に笑っていた。
声を上げて、本当に楽しそうにはしゃいでいた。
ジュリアスの前では、絶対に上げない声のトーンで。
その光景にショックを受けた。
知らない少女が、そこにいた。
「なぁ、最近疲れた顔してるぜ、お前」
「えー? そんなことないですっ!」
口に運ぼうとしていたスプーンを一瞬止めて、きょとんとゼフェルを見返したアンジェリークは、ぶんぶんと首を振った。「元気ですよ? 育成も順調……とは言い切れないですけど、ちゃんと進んでるし」
「フェリシアほどじゃねーけどな、ま、ましにはなったか」
「もう、ひどーい!! ゼフェル様って、相変わらず意地悪ですよねっ!」
ぷい、っと横を向いてチョコレートサンデーを頬張る。
「何だよ、応援してやってるんだろ」
「言い方があるんですからねーっだ」
べー、っと可愛らしい仕草で舌を出して、アンジェリークは再びそっぽを向いた。
「なんだよ……」
少女の行動に途方に暮れた顔で、ゼフェルはミネラルウォーターを一口飲んだ。
ちらり、と横目で盗み見た表情は、良く知った顔。
喜怒哀楽が激しくて、手に負えない。
「なぁ、アンジェ、…………おめーさ」
視線をペットボトルに落とし、ゼフェルは言い淀む。
「ゼフェル様?」
謝ってでもくれるのかと思ったら、どうやら違うようで。
けれどなにか様子がおかしくて、アンジェリークは首を傾げた。
「わりぃ、なんでもねー。そろそろロザリアと約束してる時間だろ。送るぜ」
ひらひらと手を振って、ゼフェルは何でもなかったようにベンチから立ち上がった。
アンジェリークを置き去りにする速度で、寮へと続く道を歩きだした背中を、アンジェリークは慌てて追いかけた。
(やっぱ、煩い奴だよな)
寮からの帰り道、ゼフェルはアンジェリークとの会話を思い出していた。
大人しい、という言葉と縁遠い少女。
その少女の、知らない一面を思い出す。
ジュリアスと一緒にいた少女は、ゼフェルの知らない顔で歩いていた。
いつもみたいに大きな声で笑うのではなく、微笑んでいた。
ひどく大人びた笑顔だったから、知らない人間が視界に収まっているようで落ち着かなかったのを覚えている。
あんな風に笑うんだと、軽い苛立ちを覚えた。
知らない一面。
知らない笑顔。
表情一つでずいぶん印象が変わる。
「本当のあいつってどっちなんだ?」
ジュリアスに見せたような笑顔と、自分に見せている笑顔。
軽い苛立ちに、ゼフェルは唇を噛んだ。
お互い気まずい表情で対峙しているのは、アンジェリークの部屋の前。
「珍しいところで会うじゃん」
ゼフェルが言って、ジュリアスは言葉少なに頷く。
「そなたも」
「ああ、見舞いに来たんだよ」
「そうか」
「……よう、ジュリアス」
視線をさまよわせるように落ち着きなくきょろきょろしながら、ゼフェルは言った。
唐突な質問だと、自分でも思いながら。
「あいつ、いつもあんな顔して笑ってるんだな」
「あんな顔?」
「大人しい顔」
「――――ああ。しかしそれを言うのであれば、そなたといるときは、とても楽しそうだ」
自嘲の笑みを浮かべたジュリアスに、ゼフェルは何とも言い難い顔をする。
同じ、なのだろうか。
「なぁ」
「なんだ」
普段はジュリアスを避けているきらいのあるゼフェルが、珍しく積極的に話しかけてくることに驚きを感じつつも、それを押し隠してジュリアスは応じる。
「あいつ……アンジェリークの素顔、見たいのか、あんたも?」
「そなたも見たいのだろう。あのものは、まったく違う表情を、私たちに見せている」
翻弄されている。
二人同時に溜息をついた。
「困るんだろーな」
ぽつり、とゼフェルは呟いた。
「そうであろうな」
ジュリアスは苦笑する。
少女に惹かれている自分たちの同時の来訪を、少女はどのような顔で迎えてくれるのだろう。
…………どちらの来訪を、喜んでくれるのだろう。
不安と、期待と。
そのどちらをも胸に抱き、扉をノックしたのはゼフェルだった。
「はい?」
「見舞いに来たぜ」
「ゼフェル様!?」
「わたしも来たのだが」
ジュリアスが遠慮がちに声をかけると、扉のむこうでアンジェリークは絶句したようだった。
「あ、あの……いま開けますので」
慌てふためいた声が言うのと、扉の向こうで人の動く様子が窺えたのは同時だった。
「お待たせしました」
ゆっくりと開かれたドアの隙間から、おずおずと少女が顔を覗かせる。
はっきりとは判らないが、わずかな光でも少女の顔色が優れないのは見て取れた。
「あの、どうしてお二人で?」
二人を招き入れたアンジェリークが、不思議そうに首を傾げた。
「偶然部屋の前で一緒になったのだ」
「…………迷惑だなんて言わせねーぜ」
「そんなこと!」
ふるふると首を振って、少女は困惑した様子で顔を伏せた。
きっと困っているのだろう、どんな表情を二人に向ければ良いのか判らなくて。
「なぁ、アンジェ」
「はい、何ですか、ゼフェル様?」
「本当の笑顔、見せてくれよ」
「え? ……あの、ゼフェル様?」
言葉の意味が判らないと、助けを求めるようにジュリアスに視線を動かせば、ジュリアスもゼフェルと同じ意見なのか、ひとつ頷いた。
「本当の笑顔って、わたしいつも…………」
「ジュリアスに向ける笑顔なんて、俺見たことねーもん」
拗ねてゼフェルが言った。
「私も元気に笑い声を上げるそなたは知らぬ」
戸惑ったようにジュリアスも言った。
「だって、ジュリアス様はいつもわたしに『女王候補らしく』って仰るから」
途方に暮れたようにアンジェリークは呟いて、ゼフェルにも言った。
「ゼフェル様だって、大人しい女の子は好きじゃないって、すぐに言うし。――――応援してくださっているお二人に嫌われたくないから、あの」
笑顔も態度も作るしかないのだと、アンジェリークはそう言いたげで。
ジュリアスとゼフェルは呆然と顔を見合わせた。
自分たちの言葉が、少女から本来の姿を奪っていたのだと気づいて、愕然となる。
「我らに嫌われたくなくて」
「……俺らに合わせてたのか?」
呆然と二人が呟いた言葉に少女がこくんと頷いた。
「だって、大好きなお二人に嫌われるなんて、絶対嫌だったんです! 本当に大好きで……ディア様みたいに補佐官でもいいかなって、そんなこと考えていたくらいなんですからっ!!」
顔を真っ赤にさせてアンジェリークが叫ぶように言った。
「――――アンジェリーク」
少女の突拍子もない告白に、ジュリアスもゼフェルも顔を赤くして狼狽えてしまう。
「本当のおめーを見たいんだよ。……嫌うなんてありえねーよ、どんなおめーでもな」
「私もゼフェルと同じ意見だ」
「珍しいじゃねーか。明日は雨かもな?」
からかうように言ったゼフェルを睨みつつ、ジュリアスは「だから」と言葉を継いだ。
「本当の笑顔を見たいのだ。我らに合わせていたというのならば、これからはそのようなことをする必要はない」
「ジュリアス様」
「自然なそのままを、我らに見せてくれ」
「――はいっ!」
にっこりと笑みを浮かべた少女のそれは、今まで見たこともないくらい可愛い笑顔で、ジュリアスとゼフェルはしばらく見惚れてしまった。
が、ふと我に返ったゼフェルが眉を寄せた。
「なぁ、俺とジュリアスと…………」
「あ! だって、あの、――――決められないくらい、大好きなんです」
狡いんですけど、と少女が申し訳なさそうに言って、ジュリアスとゼフェルを絶句させた。それから苦笑。
「我ら二人の傍に居続けるためにも、試験を頑張って貰わねばな。補佐官も良いが、どうしてもどちらも選べぬ、というのであれば、見事女王になって我ら二人を手に入れるのも良かろう」
珍しく柔らかな意見を口にしたジュリアスに、呆気にとられたアンジェリークは会心の笑みを浮かべた。
ゼフェルは「ちっ」と舌打ちをして、けれど、仕方ないなと笑う。
共有ではあるけれど、特別な笑顔を手に入れたことに満足しながら、軽い風邪を引き込んだアンジェリークの部屋を、二人は後にした。
END
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