Kiss

 プロトファイバーの半月分の売り本数集計、卸した店舗、卸した店舗への発注と納品数、それからおおよその在庫数、新規店舗の展開、そこへの納品数、その他諸々の報告書のチェックを、自社のキクチではなく、MGNの御堂の執務室でしているときだった。
 ふと、急に集中力が途切れてしまい、克哉はわずかに眉根を寄せた。
 一瞬だけ瞼を下ろし、溜息をつく。それからノートパソコンのモニタに改めて向き直ったが、一度途切れてしまった集中力は、悲しいことに戻ってくれなかった。
 どうも気が散っていけない。
 それまで気にならなかったドアの外からの音や、パソコンの駆動音。そんな些細な音に気を取られてしまい、もう一度、眉根を寄せた。
 まあ、いいか、と、克哉は思う。
 もう二度目のチェックは終わった。あとはプリントアウトをしてしまうだけだ。
 克哉は思いながら、印刷のアイコンをクリックした。
 部屋の片隅で、複合機の稼動する音が聞こえた。
 克哉はデスクチェアの背凭れに体を預け、天井を仰ぐ。
 ずっとパソコンと睨みあいを続けていたせいで、目が乾いていた。
 酷使された眼球が、抗議するように痛む。
 指先で眉間を揉み解しながら、少し休憩でもしようかと、克哉が気分転換を決めたときだった。
 かちゃり、と、小さく、ドアが開く音が聞こえた気がした。
(戻ってきたのかな?)
 克哉には一生縁のなさそうな、いわゆる重役会議に出席している御堂が戻ってきたのだ。
 ぎこちない動きで克哉が振り返ろうとしたときだった。
(え?)
 オフィスに似合わない、濃厚で、甘ったるい匂いが鼻についた。
 知っている香りだ。どこかでこの香りを嗅いだことがある。香りだけではない。この香りをもつ果実を……ああ、あれはいつだっただろう? 頭の隅でそう思いながら振り返った克哉は、
「あれ?」
 振り返った先に誰もいなくて、きょとんと目をまたたかせた。
「ドア、開いたよな?」
 確かに一瞬、外のざわめきが強くなったのだ。
 ノブの回る音も、確かに聞いた。
 それなのに誰もいない。
 もちろん、ドアも閉まったままだ。
「気のせい……だったのか?」
 呟きながら首を傾げる。
 幻聴を聞いてしまうほど、疲れているのだろうか。
 プロトファイバーの売れ行きは順調で、忙しい。契約している店へ足を向ける回数も格段に増した。
 充実した毎日だ。
「……疲れているかもな」
 苦笑を零しながら、克哉はモニタへと視線を戻す。
 右肩上がりに伸びる数字。
 勢いづいた売り上げは、まだまだ留まるところを知らない。
 本格的なCMや広告宣伝も、まだ展開していないというのに、この分だと、業界内でも叩き出されたことのない数字が出るのも、時間の問題だ。
 同業者の間でもそう囁かれているし、取引先の店舗でも評判は良い。
 ふっと、克哉の頬に笑みが浮かんだ。
 純粋に、嬉しかった。
 克哉たちに任された商品が、たくさんの人に受け入れられて、売れる。
 地道に築き上げた信頼も損なわれない。それどころか次への仕事に繋がる。
 最近、八課のオフィスも明るくなった。
 窓際部署だからと腐っていた全員が、生き生きと仕事をしている。もちろん、克哉もその中の一人だ。
 店舗だけでなく、部署内の信頼も増した。表面的にじゃない絆が強くなっていくたびに、明るい笑顔が増えていく。
 軽口も増えた。
 そういえば、以前に比べて他愛ない会話が増えたように思う。
 誰かの冗談に、みんなが笑う。
 この一、二ヶ月の間に、ずいぶんと変わった。
 そう思いながら、克哉は右手で左胸をそっと抑えた。
 布越しに確かめた、固い感触。
 克哉の生活に一石を投じた、眼鏡。
 Mr.Rと名乗った謎の人物から預けられた、
「ラッキーアイテム……」
 克哉はぽつりと呟いた。
 確かに、ラッキーアイテムなのだろう。
 この眼鏡を無理やりに渡されて、半信半疑でかけたときから、なにもかもが、怖いほどに順風満帆だ。
「……順風満帆じゃない、よな」
 羅列されている数字を、克哉は昏い瞳で見つめる。
 暗い感情が、克哉の胸の中でまた積み重なった気がした。
 思い出さないようにしよう。せめて仕事をしている間だけでも。そう意識すればするほど、克哉の中に根を張る重い気持ち。忘れられない現実。
 ぎゅっと、克哉は強く目を瞑り、スーツの上から眼鏡を握り締めた。
 この眼鏡をかけたことで、確かに変わった日常。
 けれどこの眼鏡をかけてしまったがために、壊れてしまったものが、確かにあるのだ。
 週末ごとの、御堂への『接待』。
 その接待の場で行われる、恥辱と陵辱。
 教えられ、植えつけられた快楽……。
 思い出してしまったそれらに、克哉が吐息をついたときだった。
「ずいぶん悩ましげな溜息だな、<オレ>?」
 面白がるような囁きが、耳元でした。と同時に、肩を押さえつけるように、両肩を掴まれた。
「……え?」
 疑問の声を上げたつもりだったけれど、喉の奥で絡まった声は掠れた音にしかならなかった。
 視界の端に映る、自分と同じ顔。
 ぎこちなく首を動かし、克哉は背後から声をかけた人物の顔を目に映した。
 にやりと楽しげに吊り上げられた口元。
 同じように楽しげに細められた瞳と、その瞳を酷薄なものに演出するような、無機質なレンズ。
 オフィスの光源を冷たく弾く、細い、銀色のフレーム。
「<俺>? え、……なんで……?」
 握り締めたままの右手には、確かに眼鏡の感触。
 なんだ、これは? どうなっている?
 軽く目を見張り、克哉は眼鏡を確かめようと手を動かした。
 内ポケットに右手を滑り込ませようとして、けれど、それを阻まれる。
 背後から抱きすくめるようにして、眼鏡をかけた克哉が克哉の動きを封じた。
 眼鏡をかけた自分の腕の檻に、克哉は閉じ込められてしまう。
「離せよ」
 克哉は顔を顰め、抵抗を込めて身じろぐが、どういうわけか逃れられない。
 同じ体なのに、自分自身なのに、振り払えない。
 まるで、力の差があるようだと、顔を顰めたまま克哉は思う。
 間近にある自分の顔を、克哉は睨みつけた。
 とたんに、可笑しそうに、眼鏡をかけた自分がくつくつと喉を鳴らして笑った。
「そんなに露骨に嫌がるなよ。傷つくだろう?」
 そう嘯いた男に、克哉は呆れる。
 簡単に傷つくような心臓の持ち主には思えない。
 自分自身のことだけれど、自己主張するほど繊細な性質には見えないのだ、この目の前の男は。
 克哉の思考を正確に読み取ったように、喉を鳴らして男が笑う。
 克哉が不機嫌に目の前の自分を睨みつけると、
「そう煽るなよ」
 意地悪い口調で、男が囁いた。
 耳に唇が触れるか触れないか。そんなぎりぎりのところで流し込まれた囁き。
 ぞくり、と、克哉の背中が粟立った。
 無意識に首を竦めた克哉の耳に、低く笑う声が届く。
 抱きしめられた体に、男が笑った振動が伝わった。
「相変わらず感じやすいな、お前は」
 男がそう言いながら、しゅるりと克哉のネクタイを解いた。
「ちょ……、待て……なにを!?」
「なにを? そんなこと、決まっているだろう。無粋なことを訊くな」
 呆れた声音で問いかけに答えた眼鏡をかけた自分は、あっという間に克哉のシャツのボタンを、すべて外してしまった。
 克哉は、呆然とそれを見つめる。
 なにが起こっているのか、一瞬、理解ができなかったのだ。
 呆然としている克哉を置き去りに、眼鏡をかけた自分の指が不埒な動きをみせる。
「……ん」
 胸の突起に触れられて、克哉は我に返った。
 緩くなった拘束から逃げるように、慌てて男の腕を振り払う。
 面白そうに目を細めた男から離れようと、克哉は椅子から立ち上がった。
 デスクと椅子の隙間を縫って、後ずさる。
 克哉の警戒を面白がるように、眼鏡をかけた自分が口元を歪ませた。
「わざわざ退路から遠ざかるとは、本当に迂闊だな<オレ>」
「え? あ!」
 指摘されて、克哉は呆然と立ち尽くした。
 男の肩越しに、三歩分遠ざかったドアを見つめる。
 呆然と立ち尽くしている克哉の視界に、どこか憮然とした顔になった男が入り込んできた。
 唯一の逃げ道であるドアを隠すように、男が克哉の前に立つ。
 そして、忌々しそうに、男が言った。
「そんなふうに迂闊だから、御堂につけこまれるんだ」
 すっと、眼鏡の奥の瞳が冷たく細められた。
 伸ばされた指先が露わになった鎖骨を辿り、一点でその動きを止めた。
 苛立たしそうに、男が舌打ちをする。
「ずいぶんとご執心じゃないか」
「え?」
 いま、<俺>はなにを言った?
 不機嫌そうな口調だったが、早口に言われた言葉が聞き取れず、克哉は首を傾げた。
「今なんて?」
 問い返したけれど、男はなにも答えなかった。
 その答えを口にするのも忌々しい。そんな空気を纏った男は、答えないかわりに克哉を引き寄せる。
「ちょ、……んんんっ」
 抵抗も、抗議の声も封じられた。
 目を見開いて、克哉は視界がぶれるほど間近にある、眼鏡をかけたもうひとりの自分の顔を見つめた。
 攫うように腰を抱き寄せられ、深く、貪るように口づけられて。
 呆然と見つめている克哉の舌は、いつの間にか眼鏡をかけた克哉の舌に絡め取られていた。
 舌が絡み合うたびに、ぴちゃぴちゃと水音が耳に届く。
「ん……、ふ………」
 鼻にかかった吐息が零れるほど深い口づけを交わして、口腔内に溢れた唾液を飲み込んで、霞がかかったような思考の中で、やっと、克哉はキスをしているのだと思い至った。
 そのままぼんやりと、ああ、初めて<俺>とキスをした、と思う。
 断片的にフラッシュバックする記憶。
 思い出す先から、その記憶はあやふやに霞み、確かな記憶として掴み取るまえに霧散してしまうのだけれど。
 体が。皮膚や細胞が、眼鏡をかけた自分の体温を、熱を、覚えていた。
 ひくん、と、克哉の体が震える。
 奥底から這い上がってくる、もの。
<俺>に開かれた奥が。熱い楔を打ち込まれた箇所が、疼いた。
「……ぁ……」
 唇からこぼれた吐息は、けれど、確かな音になりきる前に男の唇の中に飲み込まれた。
 体から力が抜けてしまう。
 長いキスを受け止めながら、克哉は男のジャケットを握り締めた。
「皺になる」
 憮然とした面持ちでそう言われる気がしたけれど、なにかに縋りつかないと立っていられない気がした。
「……ふ……、ん、んん」
 克哉が縋りついたことに気づいた男に、抱き支えるように腰を引き寄せられた。
 口づけがさらに深くなり、布越しに熱を感じた。
「……あ」
 酸欠寸前の頭で、頭を擡げた欲望を強く意識する。
 克哉がそれに意識を向けたことを読んだように、男の片手がするりと動いた。
 かちゃ、かちゃと、ベルトの金属音が遠くから届く。
「……や、……だめ……だ」
 ベルトを外す音に、克哉は抵抗を思い出す。
 深い口づけから逃れるように、克哉は顔を背けた。
 それからジャケットを掴んでいた手で、眼鏡をかけた自分の胸を押し返す。が、力が完全に抜け切った状態では、意味のない抵抗にしかならなかった。
 くつ、と、<俺>が喉を鳴らした。
 可笑しくて仕方がないというように、<俺>が笑っていた。
「ここまで反応しておいて、今さら『ダメ』とは、ずいぶんつれないな、<オレ>? それとも、ここはもう、御堂しか受け入れられない、か?」
 眼鏡をかけた自分がそう言いながら、ズボンの布越し、隠された場所に指を這わした。
「あっ」
 疼き始めている奥に触れられて、克哉は鋭い声を上げる。
 触れられた瞬間、無意識に腰が揺れた。
 眼鏡をかけた自分は、無意識のそれにやはり笑って、呆然としている克哉のズボンを下着ごと引き下ろした。
 否定することも、隠すこともできない欲望の証が、空気に晒される。
 真っ赤になった顔を、克哉は背けた。
「気持ち良くなりたいだろう? なぁ、<オレ>?」
 耳元に落とされた低い囁きに、克哉はぞくりと体を震わせた。
 絡めとられてしまいそうなほど、艶めいた音。
 自分自身とは思えない声。
 それの誘惑に、克哉は、思わずごくりと喉を鳴らした。
 恐る恐る視線を戻すと、目に映ったのは、蠱惑的な笑みを浮かべた男の顔。
 それでいて、支配するものの持つ、力強い眼差し。
「お前はただ、頷けばいい」
 絶対的な支配力を持っている。
 そう思わせる声に、克哉は頷いた。
「いい子だ」
 満足そうな声が聞こえると同時に顎を取られ、ねっとりと口腔内を貪られた。


 長く、深い口づけに、克哉の眉根が切なく寄せられた。
 舌を絡めとられるたび、くちゅくちゅといやらしい水音が耳を打つ。
 熱い楔に最奥を穿たれるたび、克哉は切なく吐息を漏らしたが、その吐息も奪うように口づけは執拗だった。
 気まぐれに与えられる愛撫と、焦らすように緩慢になる動きと。
 眼鏡をかけた自分が動くたび、そして、克哉自身が腰を揺らめかせるたびに、デスクチェアがきしきしと音を立てた。
「んん……、ふぅ……ん、ん」
 もたらされ、与えられ、奪われるすべてに、克哉は翻弄されていた。
 何度目かの深い口づけが解かれて、克哉の唇から溜息のような深い吐息が零れる。
 酸素不足でぐったりと力の抜けた体に、熱い楔で刺激が与えられた。
「ああっ!」
 しなやかに背中を反らしながら、克哉は掠れた嬌声を零した。
 とたんに耳朶に吹き込まれる、意地悪な声。
「あまりイイ声を上げるな。外の人間に聞こえるぞ?」
「だっ……て、お前が……ぁ」
 克哉の弱いところばかりを狙って突き上げる目の前の男を、克哉は睨みつけた。
 克哉のその仕草が気に入ったのか、男が目を細めた。
 そして、
「誘うな」
 と、克哉には見当違いとしか思えないことを口にされる。
 克哉が不可解そうに眉根を寄せると、
「情事の最中に睨まれても、ただの媚態だな。強請られているようにしか思えんぞ?」
 くつり、と、喉を震わせた。
 そして狩る者の眼差しで克哉の瞳を捕らえ、快楽に喘ぐ克哉の耳元に唇を寄せた。
 男が動いたせいで、交わりが更に深くなる。
「……あ……や」
 与えられた突然の刺激に、克哉は腰を揺らして感じ入った。
 男の、熱く濡れた吐息が首筋にかかって、それだけで克哉の体が震える。
 無意識に、ナカのものを締めつけてしまう。
「貪欲だな」
 揶揄と感心の混じった声が、そう囁いた。
「快楽に素直で貪欲なお前は、充分、俺を煽って――そそられるな」
 その言葉が克哉の耳に流し込まれてすぐ、首筋に、ちりりとした痛みを感じた。
「ば……か、痕……つけるな……ぁ……ああ、ん、ん」
 シャツの襟では隠れない場所につけられた、痕跡。
 甘く喘ぎながらも抗議の声を上げた克哉だったが、突然激しく突き上げられて、切なく声をとぎれさせた。
 容赦のない律動に、翻弄される。
「もう少し楽しみたかったが、な」
 ギシギシと軋む椅子の音に混じって、熱く濡れた男の掠れた声が聞こえた。
「そろそろタイムリミットだ」
 舌打ちでもしそうな男の言葉に、克哉は「なんのタイムリミットだ?」と、快楽を追いかけながら思う。
 そんな疑問を見透かした男が、不機嫌そうに目を細めた。
「もうすぐ、御堂が戻ってくる時間だ」
 吐き捨てるように言った男は、苛立ちをぶつけるように克哉の奥を突き上げた。
 それまで以上の快楽に、克哉の声の甘さが増した。
 いまが昼間だとか、ここは取引先だとか、他人の執務室だとか。そんなことは、もう、考えられないほどの快感が克哉を支配していた。
 耳に届くのは、繋がりあった場所がたてる水音と、自分の嬌声。軋む椅子の音。それから、欲情を隠しもしない男の息遣い。
「おい、<オレ>」
 熱く掠れた声に呼ばれて、克哉は快楽に潤んだ瞳で、眼鏡をかけた自分の顔を見つめた。
 克哉の腰を抱いていた手が離されて、親指が、克哉の下唇をなぞった。
「キスを」
「え?」
 揺さぶられながら、克哉は小さく首を傾げた。
「お前がイく瞬間の声を他人に聞かせてやるほど、サービス精神に溢れていないからな、俺は」
 そう言い放った男の口元が、つりあがった。
 その言い方に眉を顰める間もなく、
「キスを」
 と、また言われて、克哉は言われるままに上体を屈めた。
 満足そうに男が瞳を閉じたのを数瞬見つめて、克哉も目を閉じた。
 それから男の肩を掴んでいた両手を、抱きつくように首に回した。
 深く、口づける。
 克哉の唇に触れていた手が、強く腰を引き寄せ、抱きしめた。それを合図に克哉の快楽のポイントすべてを知り尽くしているような、律動が与えられる。
 克哉の腰を抱き寄せていないもう片方の手が、雫で濡れそぼったそれに絡められた。
 律動にあわせるように。時には逆らうように扱かれて、刺激され、途方もない快楽を与えられた。
 克哉は抗わなかった。与えられる快楽に身を委ねた。
 身を委ね、のまれた先で、真っ白にスパークする思考。意識。
「んんっ、んー、ん、ん」
 自身の解放と、奥深くに放たれた飛沫を受け止める嬌声は、深い口づけに飲み込まれた。
 意識を手放そうとした瞬間に聞こえた、
「迷うな。惑うな。怯えるな。お前は他の誰でもない、俺だけの手を取れ。それだけでいいんだ」
 男のその言葉の意味を、真意を。いつか聞かせてくれるだろうか。聞いてみたい、と、休息を求めて沈み込もうとする意識の片隅で思いながら、克哉は意識を手放した。


 盛大な溜息が聞こえた気がして、克哉の意識は浮上を始めた。
 浮上し始めた意識とともに、瞼越しに感じる白い光。
 克哉は重い瞼を、無理矢理、開いた。
 とたんに飛び込んできた光に顔を顰め、その刺激から逃れるようにいま一度、瞼を閉じた。
「……起きたのか?」
 眩しい、と、そう呟きそうになった克哉の声は、無感情な問いかけの声に押しとどめられた。
 はっ、と目を見開いて、克哉は慌てて起き上がる。
 鉛のように体は重く、腰に走った痛みは、本当なら無視できないくらいだったが、聴覚が拾った音に、それらは無視せざるを得なかった。
「……御、堂……部長」
 克哉は呆然と、自分を見下ろす相手を見上げた。
 不機嫌に顰められた顔に、どんな嫌味を投げつけられるのだろうかと、克哉の体が竦む。
 やはり、なんとなく冷たい眼差しから逃れるように、克哉はそっと視線を外した。
 正視するには、御堂の眼差しは厳しすぎて、強すぎるのだ。
 なによりも、『接待』の件が、克哉に御堂を正視することを拒ませる。
 行為の最中に見せられる、冷たい眼差し。その空気。
 体で、肌で覚えてしまった空気に、自然と萎縮してしまう。
 御堂の肩口に視線を固定した克哉の視界の端で、苦々しそうに眉根を寄せていた御堂が、その表情を緩め、小さく息をついた。
 その音に克哉はまた体を竦めた。
 冷たい温度で吐き出される叱責を覚悟したが、克哉の予想を裏切って、叱責の声は上げられなかった。
「半月分の売り上げ本数の報告書は、見せてもらった」
 抑揚を欠いた御堂の言葉に、克哉は視線を戻して、御堂を見た。
 それから、次に御堂の手の中にある白い紙を見る。
 御堂の言葉に、それがさきほどプリントアウトした報告書だと気づき、克哉は慌てて立ち上がろうとして、失敗する。
 腰どころか、脚にも力が入らなかった。
 そして、やっと、自分が来客用のソファに寝ていたのだと気づく。
 それから、御堂には気づかれないよう、ざっと全身に視線を走らせた。
 夢でも見ていたのだろうかと疑いたくなるほど、身なりは整えられていた。
 受け止めただろう欲望の残滓も、自らが放った欲望の残滓も、なにも残っていないようだった。
 克哉の体に残された痛みと気だるさ以外の、すべての痕跡が、きれいに拭われていた。
 ああ、本当に要領が良くて、抜かりがないな。
 眼鏡をかけた自分に対して、克哉は苦笑を交えた評価を胸のうちで呟いた。
 夢の中でのできごとだったような気もするけれど、あれは夢ではなかった、と克哉は確信している。
 夢の中でのできごとだったのなら、全身に残る気だるさや、男を迎え入れた体の奥の痛み、それの説明がつかない。
 そんなことに思いをはせていると、
「佐伯くん」
 と、不審そうな声の御堂に呼ばれ、克哉は慌てて顔を上げる。
「あ、は、はい。……あの、なんでしょう?」
「気分でも悪いのか? ふん、少し、顔色が悪いか?」
 そう言いながら伸ばされる御堂の手に、克哉の体が無意識に強張った。
 伸ばされる指先から逃れるように、克哉の体は逃げ場のないソファの上でわずかに仰け反った。
 御堂から逃げるような仕草をした瞬間、どこかで「それでいい」と、満足そうに誰か――眼鏡をかけた自分――が満足そうに笑ったような気がした。
 克哉の緊張に気づいたのか、伸ばされようとしていた手が止まる。
 鼻白んだように克哉を一瞥し、御堂はなにもなかったかのように報告書にまた目を落とした。
「予想以上の売れ行きだな」
 淡々と。けれど、満足そうに御堂が言った。
「このままの調子でいけば、本当に、業界でも販売したことのない数字が出るな」
 呟かれた言葉には珍しく、純粋にそれを喜んでいる感情が滲んでいた。
 少なくとも克哉には向けられたことのない、穏やかな御堂の表情をじっと見つめていると、わずかに緩められていた口元が、また、厳しく引き締められた。
 そして、いつものように厳しい眼差しが克哉を見た。
「佐伯くん」
 感情を排した声で呼ばれる。
「はい」
 と、克哉は小さな声で返答した。
 苛立ったように御堂の眉が顰められたが、その苛立ちを押し殺すようにして、御堂が言った。
「体調が悪いのなら、今日はもう、帰りたまえ」
「え? あの、……でも」
「自分がどんな顔色をしているか、気づいていないのか? 体調管理も仕事のうちだろう。体調が悪いときに無理をしても、効率が悪いだけだ。キクチに電話を入れて、今日はもう、帰りたまえ」
 目障りだ、とでも続けられそうな御堂の口調に、克哉はそっと溜息をついた。
 つくづく、嫌われているんだと思い知る。
 溜息をつきたい気持ちを押さえつけ、克哉は、
「お言葉に甘えて、早退させていただきます」
 そう言った。
 まだ完全に力の入りきらない体を気遣いながら、立ち上がる。
 よろめきそうになる体を、ソファの背凭れに手をついて支えながら立ち上がると、克哉は彼――眼鏡を掛けた自分――がかけてくれたのだろうジャケットを手に取り、着ようとして、克哉は一瞬だけその手を止めた。
 だが、それはわずかに一瞬で、克哉は何もなかったかのようにジャケットを着た。
 そして、ゆっくりとした足取りで、自分の鞄を取りにデスクに足を向ける。
 ふと思い出して、点けっぱなしだったはずのパソコンの電源を落とす。
 鞄を取り上げ、
「失礼します」
 と、御堂に一礼し、克哉は執務室を出て行こうとした。
 が、
「待て」
 御堂の鋭い声に呼び止められた。
 克哉はなんだろうと、御堂を振り返った。
 振り返った視線の先で、どこか呆然としたような顔の御堂と目が合う。
 克哉と目が合うと、はっとしたように御堂が瞬きをした。
「御堂さん、あの、なにか?」
 仕事のことでなにか話があるのだろうか。
 そう思いながら克哉が声をかけると、御堂の眉根が不機嫌に寄せられた。
 じっと睨みつけるように克哉を見据え、
「それは……その痕は……いや、いい。なんでもない」
 珍しく言葉を濁した御堂が、克哉から視線を逸らした。
 克哉を見ないまま、
「……帰りたまえ」
 三度目のその言葉を口にした。
 苦々しそうな、悔しそうな、なんだか傷ついた表情をしているような気がする御堂を不思議に思いながら、克哉は「失礼します」と御堂の執務室を出た。
 克哉が執務室を出たとたんに、苦々しく眉根を寄せ、苛立ちも露わに舌打ちをした御堂の気持ちを知ることもなく、克哉はMGNのビルを後にした。
 着慣れているはずの、自分のジャケット。
 けれど、克哉ならば決して選ばないだろうフレグランスの香りのする、眼鏡をかけた彼のジャケットに頬を緩ませながら、克哉はゆっくりとした足取りで帰途についた。
 なんとなく、今日はもう一度、彼に会えそうな気がする。
 そんな気持ちを抱きながら。

                                     END

N克哉、眼鏡克哉さんに襲われる(笑)。
真夜中の果実だとキクチでしたが、今回は御堂さんのオフィス。しかも、白昼堂々(笑)。
そしてなにげに三角関係っぽく。
御堂さんは、他人(眼鏡克哉)に嫉妬していればいい。