不在









 不安げな表情と淡い微笑が、網膜と記憶にこびりついて、消えない。
 それを不快だと感じているのか、それともなにも感じていないのか、自分でも判らず、苛立ちは募る。
 苛立ちを静めようと、テーブルの上の煙草に手を伸ばしかけ、ふと、その動きを止めた。
 もう聞こえないはずの声が、一瞬、聞こえた気がしたのだ。

『煙草は体に良くないよ』

 ぽつりと言葉を落とすみたいに、遠慮がちに、控えめに、柔らかなトーンで言葉を紡いでいた、もうひとりの<克哉>の、声が。
 その姿を探すように、克哉は視線を彷徨わせた。
 カーテンを引いていない窓で、その視線を止める。
 外の暗闇と室内の明かりで、ちょうど鏡のようになっている窓。
 そこに、<克哉>が映っているような気がしたのだ。
 しかし、やはりそこにはもちろん<克哉>の姿はなく、自分の姿が映っているだけだった。
 それに落胆して、……落胆した自分に、克哉は哂った。
 なにを落胆しているのだ。
 どうして落胆しなくてはいけないのだ。
 そんな理由と必要が、はたして、自分にあるか?
 答えは、むろん、否だ。
 それなのに、どうして……。
 なぜ、苦い後悔が、いつまでもこの胸の中に。思考の中に、巣食っているのだろう。
 どうしても認められない存在だった。お互いがお互いに。
 主導権を握るのは自分だと、意識と肉体の権利を奪い合った。
 共存も、譲歩も、ましてや融合など、最初から選択肢に含まれていなかった。
 どちらか一方が、生き残る。そして、どちらか一方が消える。
 単純な勝負だった。
 その勝負に勝ち残ったのは克哉だった。
 負けて消えたのは、気弱な<克哉>だった。
 気まぐれに、鏡越しに互いを見詰め合ったことが何度かある。
 同じ人間なのに。そのはずなのに、まるで別人のように思えた。
 些細な仕草。その表情。思考、声のトーン、話し方。一番違ったのは、笑顔だったろうか。眼差しだったろうか。
 優しく、儚く、<克哉>は笑った。……笑っていた。
 ひっそりと、控えめに。
 誰の記憶にも残らないよう、誰の目にも映らないよう。そう生きると決めた、彼の生きかたそのもののように、そっと笑っていた。
 そして、いつもどこか不安そうに、諦めたように、淋しそうに、瞳を伏せていた。
 すべてを拒絶するように。
 すべてから拒絶されるように。
 眼鏡をかけたときの、自分であって自分でない人間の、断片的な、曖昧な記憶。それの、悪夢のようなフラッシュバック。
 眼鏡を手に取るたび。それをかけるかどうか悩むたび、不安に怯えていた<克哉>に、迷う必要などないと、鏡越しに、何度語りかけただろう。
 眼鏡をかけろ。そして、眠らせた能力を、欲望を、力を解放しろ。
 本来の自分を取り戻せ。
 その意識の主導権を。肉体の主導権を、<俺>に明け渡せ。そうすれば、平凡で、退屈な日々から抜け出せる。変われる。
 洗脳するように、暗示をかけるように克哉が告げた言葉に、<克哉>はいつでも怯えていた。不安を隠そうともしなかった。
 それでいて、いつも、微笑を浮かべた。
 ああ、そうだ。<彼>は。<克哉>は、最後にはいつも微笑を浮かべていたのだ。
 嬉しそうに、笑っていた。
 それの意味するところにようやく気づいて、克哉は小さな舌打ちを零した。
 ああ、まったく、なんて策略家だ。
 苦々しさを隠すことなく、克哉はもう一度苛々と舌打ちをし、今度こそ煙草に手を伸ばした。
 取り出した一本を銜え、火をつける。
 苦い香りが、部屋の中にふわりと広がった。
 紫煙がたゆたうのを、見るともなしに目で追いかける。
 ずっと、ずっと、消えたがっていた<克哉>。
 ずっと、どんなときでも、自分と言う存在を消したがっていた。
 変わりたかったのではなく、<彼>はずっと自分という存在を消してしまいたかったのだ。
「あいつの掌で踊らされていた道化か、俺は」
 暗闇の鏡に目を向ける。
 不機嫌な、そして、複雑な表情の自分の顔を、克哉は見る。
 そう、最初から選択肢はたったひとつだった。
 残るものと、消えるもの。
 共存も、譲歩も、融合も選択肢にはなかった。
 克哉の中にある少しの優しさや、思いやりや、柔軟な思考を、ずっと、<克哉>のものだと信じていた。
 ほんのついさっきまで。
 <彼>の真意に気づくまで。
 けれど、違うのだ。<彼>が残したものではなかった。<克哉>の残滓ではなかった。
 無意識に、ただ、克哉がなぞっているだけだったのだ。<克哉>であれば取ったであろう言動や、行動を。
「お前は、欠片も残していかなかったんだな……」
 意識の欠片も、思考の欠片も、存在の欠片さえ、残していない。残されていない。
 ずっと抱いていた望みを、<彼>はMr.Rとの出会いと、ふたたび渡された眼鏡を受け取ることで、これ幸いにと叶えたのだ。
 もうひとりの自分という存在の出現は、<克哉>から躊躇いも、未練も消し去ったのだろう。
 周囲から不自然に思われない、『個』の消失。
 鏡越し、不安そうに克哉を見つめていたのは、途中で真意に気づかれてしまわないかと思っていたからか。
 微笑は、誰に気取られることもなく、静かに消えてしまえることへのよろこびだったのか。
 <克哉>の考えていることなど、克哉には手に取るようにわかった。
 けれど、消失に関することだけは、読み取れなかった。わからなかった。
 あの変なところで頑固な<克哉>は、そのあたりのガードだけは、きっちりできていたらしい。
 まさか<克哉>に欺かれていたとは。
 ふっと、苦笑を零した。
 紫煙が、溶けて消える。
 不安げな表情と淡い微笑が、網膜と記憶にこびりついて消えないのは、それは、忘れたくないからだ。記憶から、消してしまいたくないからだ。
 今はもう誰も憶えていないだろう彼のことを、自分だけは憶えていたいからだ。
 無意識に、<彼>の不在を、自分は嗅ぎ取っていたのだろう。
 共存も、譲歩も、融合も、選択肢にはなかった。けれど、心のどこかで、<彼>は共に在るのだと思っていた。信じていた。ただ穏やかに眠りについているはずだと、信じきっていたけれど……。
「いないのか」
 克哉は事実を呟いた。
 空洞を、自覚した。
 寂しいと、素直に思った。
 克哉は吸っていた煙草を灰皿に押し付け、静かに、目を閉じた。
 たったひとりで消えることを願い、選んで、叶えた<克哉>へ黙祷を捧げているようだと、そう思いながら。

とりあえず眼鏡克→ノマ克っぽく。
ノマの完全な消失。それを知ってしまった後の、遅すぎた自覚。
と言うように読んでもらえているといいな。と思います。