リフレイン

 触れてくる指先の冷たさに、わずかに眉を顰めた。
 不信感さえ覚えそうなほどの、無表情。
 レンズ越しに見つめ合う瞳も感情を欠いていて、まるで硝子玉のようだった。
 少なくとも克哉にはそう感じられた。
 理由のない危機感が胸の中に広がるような感覚に、克哉は、今度は顔を顰めた。
 ふと、<克哉>の表情が動く。
 微笑んだようにも、ただ不思議そうな顔をしただけのようにも見えたそれに、克哉は「どうした?」と問いかけようとしたけれど、問いかけは音になる前に飲み込む羽目になった。
 ただ、切なく、見つめられる。
 そんな仕草ひとつで言葉を封じられた。
 その切なさの中に込められている感情は複雑で、克哉でも正確に読み取ることは困難だった。
 同情や憐憫を含んだ感情のようでありながら、ただ、愛しさだけを込めた感情のようでもあり。そのどちらの感情も内包しているようでありながら、そのどちらでもなく。ただ、純粋に切なさを瞳に浮かべている。あるいは悲しんでいる――そんな感情。
 心のうちを読み取れないのはこれが初めてだと思いながら、克哉は<克哉>を見つめた。
 唐突に、克哉の頬に触れる指先を取ろうと手を動かしかけて、やはり、仕草ひとつで制止されてしまう。
 かすかに傾けられた首に目がいった。
 白い、皮膚。
 何度もあの首筋に唇を這わせた。
 指先で、舌先で、触れた。
 同じ肉体でありながら、まったくの別人の印象を与える白さになにを思っただろう。
 なにを感じていただろう。
 傾けられた首筋に視線を固定したまま、克哉はそんなことを考えた。
「あのさ<俺>」
 淡々と。感情も抑揚も欠いた、ただ透明な声に呼ばれて、克哉は視線を<克哉>に合わせた。
 あいかわらず硝子のような瞳に、それでも不可思議な感情だけを浮かべた<克哉>が克哉を見ていた。
 迷うように唇が何度か動いて、けれど、言葉を紡がないままその唇は閉ざされた。
 まるで言うべき言葉を見失ったように、<克哉>が頼りない顔をする。
 その表情に、克哉は安堵を覚えた。
 やっと、克哉の知っている<克哉>を目の前にしているという実感が湧く。
「言いたいことがあるなら、言え」
 命令形のその言葉に、<克哉>が目を細めた。
 懐かしむように、柔らかく。
 遠い日々をみつめるように。
 克哉の中で、危機感が強くなった。
 ざわざわと落ち着かない、心。焦燥、が――。 
 伸ばそうとした指先は、まるで固められたように動かない。ぴくりとも動かない自身の体に、舌打ちをした。
 幸か不幸か、それはできた。
 盛大な舌打ちをした克哉に、<克哉>が苦笑を浮かべる。
 こんな状況で、やっと、<克哉>が<克哉>らしい表情や仕草を浮かべるその意味を、克哉は正確に理解した。
 軽く唇を噛む。
「おい、<オレ>!」
 自由になるのは声だけ。目だけだ。
 強い呪縛をかけられたように、体の自由だけが奪われていた。
 鋭く諫める声と、睨みつける激しい眼差しで<克哉>に呼びかける。
 けれど、<克哉>はただ微笑むだけだ。
 複雑で、不可思議で、不可解な表情で。強い決意を秘めた顔で微笑むだけで。
 その微笑が克哉に与える感情、焦燥、効果を、十分に理解しているとしか思えない意地の悪さは、まるで自分のようだと思いながら、克哉は呆然と自分を見つめた。
 決して儚いわけではなく。淡いわけでもなく。
 ただ静かに、透明に、澄んだ笑み。その、意味。
「なぁ、<俺>。どうしてオレたちは、悲しいくらいに、同じ人間なんだろうな?」
 可笑しそうに、諦めたように。疲れたように落とされたその疑問に、答える言葉を克哉も持たない。
 克哉の答えを期待していたわけではないのか、<克哉>は滔滔と言葉を紡ぐ。
「あの人の暇潰しと気まぐれに振り回されて……。どうしてオレは<俺>に出会ちゃったんだろう。<俺>を知ってしまったんだろう」
 そっと閉じられた瞼の奥に隠された<克哉>の感情など、克哉にはもう判らない。
 それほどに遠い存在だった。
 まるで、赤の他人のように、<克哉>を遠く感じた。 
 流れ込んできていた思いも、思考も、葛藤も。手に取るように判っていた行動も、感情も、なにも。
 なにひとつ、克哉の中に流れ込んでこない。判らない。
 たしかな「分離」を確信させるもの以外、克哉には判らなかった。
「克哉」
 不意打ちで呼ばれた名前。
 漣だったのは、心。気持ち。
 ただ滑稽なほど不安定なおもいに内側から揺さぶられて、克哉は顔を顰める。
 克哉の仕草にそっと笑って、<克哉>が言った。
「好きだよ」
 シンプルな告白の後、「ナルシストって、お前は哂うかもしれないけどさ」と、続けられた言葉に「まったくだ」とそう言って笑ってやろうと頬の筋肉を動かしかけて、けれど、それはやはり叶わなかった。
 決して強くない力。簡単に振り払ってしまえそうな力加減で、克哉の両頬を包むように挟んでいた手を<克哉>が動かした。
 遠慮がちに、そっと上向かされる。と同時に、つたなく触れてきた唇。
 一瞬だけの、触れ合い。交わした熱。
 その切なさ。
 眼鏡のレンズ越しに見つめてくる瞳は、やはり硝子玉のようで。
 どんな感情も、そこから見出すことなどできなくて、克哉は苛立ちを感じた。
「好きだよ」
「勝手なことを」
 苛立ちを含んだままの声でそう返せば、<克哉>が自嘲気味に顔を歪めて、か細く「そうだね」と呟いた。
 そのまま言葉は紡がれず、ただ、果てのない空間に静寂だけが落ちた。
 どれくらいの時間、無言で過ごしていただろう。<克哉>が伏せていた目を開いた。
 克哉を見つめるその瞳は、すべてに決断を下したように強く、まっすぐで。どんな言葉にも、揺らぐことなどないようだった。
 覆せないのだと、思い知らされた。
 この意志の強さを。頑固さを、どうしてこんなときばかり発揮して、仕事で生かせなかったのだろう、このお人好しは。
 卑怯者、と、罵ってやりたかった。
 透明な硝子玉を思わせた瞳に、いま宿る、強い意志に言葉を止められてしまったけれど。
 ふっと、柔らかく口元と目を緩ませて、<克哉>が言った。
「次は――。オレたち、……次はちゃんと、別の人間同士で出会えたらいいな」
 その言葉に苛立ちは強くなった。
 そんな言葉を吐き出すくらいなら、勝手に、自分ひとりで未来を決めてしまうな。決めつけるな。
 そう怒鳴りつけたい衝動に駆られながら、けれど、もう、どんな言葉も無意味なのだと解っているから、克哉は溜息に似た吐息をひとつ零すにとどめた。
 そして、<克哉>の行動を模倣するように、瞳を閉じる。と同時に、また、唇に降りてきた熱。
 暖かく。優しい、熱。
 ただ唇を重ね合わせるだけのキスは、すぐにとかれた。
 両頬を包んでいた手の温もりが、離れていく。
 それから。
「好きだよ」
 三度目の告白の言葉。
「次に会うことがあったら。いつかまた会えたら、そのときはオレのこと好きだって言ってくれるよな? <俺>?」
 いつもと変わりなく、穏やかに微笑する<克哉>の言葉に、
「――さぁな」
 そんな返事を返してやる。
 いますぐに。簡単に、約束など、しない。
 身勝手にいなくなろうとしている奴に、どうして優しい約束を。それも簡単に、当たり前にしてやらなければいけないのか。
 おいて行かれてしまう人間の心中を察してはくれないように、おいて行こうとしている人間の心中も、また、察することはできない。
 一方的な別離と、一方的な感情に付き合う義理など、克哉にはなかった。
 本心がどうであれ。
 克哉の返事を予想していたように、<克哉>が苦笑を零した。
「あいかわらず意地悪だよな」
 仕方がないなぁ。そう言いたげな苦笑と共に呟かれた言葉に、克哉は「ふん」と鼻を鳴らす。
 まるで子供の駄々っ子を見守るような<克哉>の表情が、癪に障った。
 まるで他人のように距離を置く。そんなところが、ずっと、大嫌いだった。――否定できないほど<克哉>を求める気持ちと、同じくらい、強く……。
「<オレ>」
 なにを言おうとしたのか克哉にもわからないまま、呼びかけた。
 <克哉>の瞳が、優しく、嬉しそうに細められる。
 それから、ゆっくりと、遠慮がちに。けれどしっかりと抱きしめられた。
 現実であって、現実でない、このどことも知れない空間の中で、克哉を抱きしめる腕の温もりは確かなもので。
 ああ、絶対に、この腕の温もりを忘れることはないだろうと、克哉はそんなことをぼんやりと思いながら、囁くように耳に落とされる言葉を聞いていた。
 これが最後の言葉だと、苛立ちと寂寥を胸の中に抱えこみながら。
「もう一度、オレたちは会えるから。それがいつなのか判らないけど、でもきっと会えるからさ。だから、なぁ、<俺>。その時は――オレのこと抱きしめて、それから……」
「ああ、お前が望むままに。克哉」
 言葉を遮るように、いつ果たされるかも知れない「約束」を、今度は口にして、名前を呼んだ。
 克哉を抱きしめる<克哉>の腕が、大きく、震えた。
 長い溜息のような吐息が、<克哉>の唇から吐き出された。
 安堵と歓喜の混じった吐息に、克哉は苦笑する。
 不確かな。叶うことがあるのかどうかも判らない「約束」で、安堵できるというのなら。
 そんなものでもいいのなら。
 気まぐれに、あっさりと。約束などしてやらないと決めた気持ちを翻す。
 いや。そうじゃない。
 克哉は微かに眉を顰めて思う。
 翻さざるを得ないのだ。
 もう、残されていない、わずかな時間。
 不本意ではあるけれど、いつまでも意地を張っている場合ではない。
 そんな無駄な時間を、費やしている場合ではないのだ。
 不確かな未来への約束でも何でも。
 そんなものでも「約束」ができるなら。
 繋がっていられるなにかが、かすかにでも残されるなら。
「お前が望む以上に、俺はお前を……」
 好きだ、と。愛していると、そう告げてやろうとした言葉は、触れるだけの口づけに邪魔されて、言葉にすることはできなかった。
「次に会えたときに、その言葉を言ってくれよ」
 はにかむように笑って、<克哉>がそう言った。
 克哉は呆れたように吐息を零し、
「我儘だな」
 そう言ってやる。
「素直になれって、オレに散々言ったのはお前だろ」
「そうだったか?」
「そうだよ」
「覚えていないな」
 そう嘯けば、<克哉>が拗ねた顔で軽く睨みつけてきた。
 表情を取り戻したように、くるくると変わる<克哉>の顔に、克哉は目を細めた。
 硝子玉のような透明な眼差しと、人形のように表情のない<克哉>など……。
「あ……」
 ふと、<克哉>の顔が急に強張った。
 それから、優しい顔立ちが、泣き出しそうに歪められる。
 その表情で、克哉には理解できてしまった。
 別離の時間だ。
「<オレ>」
 もう一度、不確かな約束を口にしてやろうと克哉が口を開くと同時に、
「別れはもう十分に惜しまれたでしょう? さあ、もう、眠る時間ですよ、佐伯克哉さん」
 歌うように。台本を読み上げるように。どこか大仰に芝居がかった声が、そう告げた。
 聴き慣れてしまった感のあるその声に、顔を顰めた克哉は振り向こうとした。が、金縛りにあったような体は、やはり動かなかった。
 諦観を含んだ様子で<克哉>が瞳を伏せ、克哉の横をすり抜けて行く。
 呼び止めようとした。
 唇を、動かそうとした。
 けれど、今度はそれすらも叶わず……。
「さあ、あなたの……ペルソナに与えられた仮初の時間は終わりです。夢はいつか覚めるもの」
 どこか棘を含んだ声が、克哉の背後から届いた。
 克哉の背後で、悲しげに空気が震える気配を、克哉は感じ取った。
 けれど、その気配は、気のせいだったのかとおもうほどあっさりと消えうせて。
 もうひとりの<克哉>の消失を、克哉は知った。
 まるで泡が弾けて消えるほどのあっけなさで消えた<克哉>の気配を、辿ることは叶わない。
 存在を感じ取ることは、もう、できなかった。
 どんなときでも、近くに感じていた存在だったのに。
 あまりに呆気なさ過ぎて、克哉は怒りもなにも感じることさえできなかった。
 ただ呆然と、動きを封じられたままの状態で、目の前に広がる空間を見つめ続けた。
 <克哉>の残像すらない、静かで、深い闇を。
 道化ものの芝居がかった耳障りな声が、遠く、近く、克哉の耳に木霊する。
「そして、これからは、本来の姿を取り戻したあなたが、あなたのために時間を紡ぐのです。ねぇ、佐伯克哉さん」
 愉しませて下さい、と、声にならない声が囁くのを最後に、克哉の意識は沈みこんだ。
 完全に意識が沈み込んでしまう前に。
 その瞬間に、ふと、微かに、空気の振動が鼓膜を振るわせた――ような気がした。






 あわい色の花弁が散るさまを、克哉は睨むような眼差しで見つめていた。
 春の風景に欠かせないその桜木が、克哉は、ずっと嫌いだった。
 嫌いな理由はわからない。思い出せない。……思い出そうという気にもならない。
 理由など必要なかった。
 嫌いと言う事実があれば、それで十分だった。
 お花見と称した宴会の場から、克哉はそっと抜け出す。
 誰も克哉を咎めなかった。
 どうやら宴会に夢中で気づかれなかったらしい。
 克哉は安堵の息をついた。
 本多あたりに気づかれてしまえば、抜け出すことなど不可能になる。
 本多のことは嫌いではないが、常にチームワークと団体行動を押し付けられることには、正直、辟易している。
 時には必要なことだと理解してはいるので、以前のようにあからさまに反論を口に出したりしないけれど。
 誰にも気づかれなかったのを幸いに、克哉は酒気の香りが立ち込める巨大な宴会会場を、大股に横切る。
 どこのグループの人間も、機嫌が良さそうな顔をしている。
 気分良く酒を飲み、笑っている。
 なにがそんなに楽しいのか、克哉には理解ができない。
 嫌いな桜木の下で飲む酒など、嘘でも美味いとは思えない。付き合っていられないと思いながら、たくさんの人間が集う宴会会場から早々に抜け出そうと足を速めようとした克哉の視界に、つまらなさそうな顔が見えた。――気がした。
 克哉はゆっくりと立ち止まる。
 一瞬視界の端に映った顔を、捜す。
 が、たくさんの人間が騒ぎ、ざわめく中。しかも碌な照明もない花見会場で、一瞬見かけた気がする人間を探すのは、簡単なことではなかった。
 似たようなスーツ姿の人間ばかりだ。
 いや。そもそも、彼がいると思うほうがどうかしている。
「俺がここにいる……」
 あの道化ものが気まぐれを起こすか、退屈しのぎをはじめたのでなければ、<克哉>が存在することを許されるはずがない。
 <克哉>に似た誰かを、見間違えたのだろう。
 そう思うことにして、克哉は止めていた足を動かした。
 そのとき、だった。
「こんばんは」
 独特の、間延びしたようなトーンで声をかけられた。
「お前」
 目を細めながら、克哉は背後の男を振り返った。
 相変わらず目深に帽子を被り、表情を隠すように眼鏡をかけた黒衣の道化が、にこやかな笑みを口元に張り付かせて立っていた。
「お久しぶりです。ご自身の時間を、有意義に過ごされているようでなによりです」
「ふん」
 道化の紡いだ面白味のない科白に鼻白み、克哉は白けた眼差しで男を見返した。
「何の用だ?」
 平坦な口調で問いかけると、道化はくつりと喉を震わせて笑ったようだった。
 その笑いは、克哉の神経を逆撫でる。
 もう数ヶ月以上前の、不可思議な空間での<克哉>との対面。別離。
 不愉快な干渉を思い出し、克哉は道化を睨みつけた。
 が、克哉から向けられる感情すら、黒衣の道化に愉悦をもたらすらしかった。
「本当に愉しませてくださいますね」
 愉しくて仕方がないと喉を振るわせる男を、さらに鋭く睨みつけ、しかしそれすらも男を愉しませ、悦ばせるだけだと気づき、克哉は顔を顰めた。
 苛立たしさを隠すことなく、克哉は男から視線を外す。
 本当なら、一瞬たりとも、視線を外したくはなかったけれど、もはや克哉に不愉快な感情しか齎さない相手に、くだらない意地やプライドを向けたくはなかった。
 そんな労力すらかけたくなかった。
「何の用だ」
 視線を外したまま、くり返し問う。
 問いかける声に混じる苛立ちに、黒衣の道化が小さく笑った。
 癇に障る笑い方に、しかし、克哉は反応を返さなかった。
 まともに取り合う相手ではない。
 神経を逆撫でされるだけの相手だ。
 まともに相対したこちらが馬鹿をみる。
 克哉がそう思っていると、男が揶揄を含んだ声で。言葉を紡いだ。
「会いたいですか」
 と。
 はっと、克哉は弾かれたように視線を男に戻した。
 薄笑いを顔面に浮かべた男の、感情の見えない眼鏡の奥の瞳を凝視する。
 茶金色とも、くらい金色とも見える、人ならざる者の瞳を。
 しかしそこから得られる情報も、正しい感情も皆無で、克哉は苛立って舌を打った。
「いったいなんの気まぐれだ」
 ストレートな問いかけに、男の口元が愉しそうに歪んだ。
 餌に食らいついた獲物を嘲笑するかのような笑みだと、思った。
「なにか誤解をなさっておられるようですが、私はあなた方を好ましく思っているのですよ」
 芝居じみたその科白に、克哉は嫌悪感を抱く。
「ふん。退屈しのぎの玩具にまだ飽きていないだけだろう」
 克哉がそう言うと、また、男の喉がなった。
 可笑しそうにくつくつと笑い、しかし、大仰に肩を竦めて見せた男は「心外ですね」と嘯いた。
「退屈しのぎの玩具のために、わざわざ再会のセッティングをするほど酔狂ではありませんよ。ただ、純粋に、あなた方を気に入っている。それだけです」
 そうのたまった男の言葉に、克哉は顔を顰めた。
 お気に入りの玩具が踊る様を愉しむ、ただそのためだけに労力を厭わない男の演出力には感心さえする。
 勝手に言っていればいいと、克哉は鼻を鳴らした。
「それで?」
 滔滔と語られる演説を封じるように先を促せば、嬉しそうに口元が綻んだ。
 克哉の反応は、黒衣の道化の予想通りだったのだと、その笑みから窺い知れた。
 目の前に佇む道化より、自分のほうがもっと道化なのだと思うと、苛立つ。
 舌打ちをした克哉に男は深い笑みを向け、そして、茶色い手袋に包まれた指先で一点を指した。
 克哉はその指先を視線で追う。
 ライトに照らされた一本の桜木の、下。
 克哉の知らない連中の輪の中にいる<克哉>を見つけて、軽く息を飲んだ。
 視界の端を掠めた姿は、やはり見間違いなのではなかったのだと知る。
「<オレ>……」
 久しく口にしなかった言葉は、控えめにその場所に存在する姿を見たとたん、自然と口から零れ落ちた。
「佐伯克哉さん」
 男が歌うように名を呼んだ。
 そのとたん、ずいぶん距離があるというのに、まるで男の呼ぶ声が聞こえたかのように、<克哉>が振り向いた。
 迷うことなく道化者に視線を向けた<克哉>が、驚いて目を見張った。
 克哉に気づいたのだと、すぐに判る仕草だった。
 それから、泣き笑いのような顔で、くしゃりと顔を歪めて。
「久しぶり」
 と、唇を動かした。
 声は、あたりまえだけれど、聞こえなかった。
 それが少し腹立たしく思えた。
 大騒ぎしている輪の傍をそっと離れ、<克哉>は克哉たちに近づいてくる。
 ゆっくりとした足取りで近づく<克哉>を、克哉はじっと見ていた。
 視線は、外さなかった。
 一瞬でも視線を外してしまったら、黒衣の道化が気まぐれをおこして、攫って行ってしまうかもしれない。
 苛立ちさえ感じてしまうほどの<克哉>のゆっくりとした歩みに、克哉は目を細めた。
 とたんに、近づいてきていた<克哉>が苦笑した。
 相変わらずだと言いたそうなその顔に、克哉は眉間に皺を寄せた。
「遅すぎる」
 やっと目の前に立った<克哉>にそう言って、克哉は記憶の中より少し痩せた気がする腕を取った。
「うわっ!?」
 驚いた声を無視して、数ヶ月ぶりの体を抱きしめる。
 抱きしめた体は、やはり、克哉が覚えていたよりもずっと細く感じられた。
「痩せたか?」
 耳元に囁くように問いかけると、「少し」と小さな声が答えた。
 それから克哉に体を預けるように、体重をかけてくる。
 幼い子供が甘えるような仕草だと思いながら、抱きしめる腕に力を込めた。
 全身で<克哉>の温もりを感じた。
 知らず、――深く、安堵の吐息が零れた。
 欠けていたものが埋められる。
 満たされていく。
 その満足感に、思い知らされる。
 腕の中の存在が必要なことを。
 克哉の一部であり、克哉そのものでもあるかけがえのない、半身。
「……えっと、久しぶり、お……克哉」
 <俺>と言いかけたのだろう言葉を途中で止めて、<克哉>が言いなおすように名前を呼んだ。
 馬鹿だな、と克哉は内心で溜息をつく。
「お前も「克哉」だろう」
 呆れた口調でそう言えば、
「うん……そうなんだけどさ……」
 頼りない声音で頷いた。
 その様子は、まるで自分はもう<佐伯克哉>ではないと言っているようで、克哉の眉を顰めさせた。
「言いたいことも、聞きたいことも色々あるんだが……。とりあえず行くぞ」
 抱きしめていた体を唐突に離し、克哉は<克哉>の腕を取って歩きだす。
「え? ちょ……、待てよ」
 引きずるように歩き出すと、慌てた声音に止められた。
 なんだと思いながら振り向くと、困ったように眉根を寄せている優しい顔立ち。
 問題でもあるのかと、克哉が眼差しで問いかければ、<克哉>はそっと自分が抜けてきた一群を振り返った。
「オレ、飲み会の途中なんだ……」
「それがどうした? お前が抜けても、誰も気づいていないじゃないか」
「そうだけど……。やっぱり黙って帰るわけにはいかないだろ。挨拶をしてくるよ」
 絶対に引かないと言いたげな眼差しに、克哉は短く息をついた。
 <克哉>の頑固さを、克哉は良く知っている。
 駄目だと言ったところで、言うことを聞くわけがない。
 赤の他人にはそう強く出ることはないが、どういうわけか克哉に対しては平気で我儘や文句を言うし、自分の意見を押し通そうとする。
 まさに遠慮なしだ。 
 掴んでいた腕を、克哉は放してやった。
「さっさと行ってこい」
「うん。……あ、ちゃんといるよな?」
 歩き出そうとした足を止めて、<克哉>が不安そうに振り返った。
 まるでたった数分目を離しただけで、煙か何かのように克哉が消えてしまうと、怯えているような表情だ。
 それはこちらの言いたい科白だ、と、言ってやりたかったが、そんなやり取りの時間すら惜しい。
 だから克哉は、顔を顰めながらも「ああ。ちゃんといてやる」と頷いた。
 ほっとした顔で、克哉は宴会の場に戻って行く。
 その背中を見つめながら、克哉はまだそこにいるだろう黒衣の男に問いかけた。
「なぜ俺とあいつが、同時にここで存在していられる?」
 黒衣の男の支配する空間でなら、それは可能なことだ。が、この現実の世界で、克哉と<克哉>が同時に存在できるはずがなかった。
 性格はたしかに正反対だ。だが、克哉と<克哉>は同一人物。
 ありえない現象だ。
「造作もないことですよ」
 黒衣の男は、淡々とそう言った。
「あなたを封じ、解放したその眼鏡を所有している私にとって、もうひとりの佐伯克哉さんに肉体を与えることなど、造作もないことです。――残念ながら、タネ明かしはして差し上げられませんが。手品の種が解ってしまっては、面白くないでしょう?」
「確かに、そうだな」
 答えは得られないのだと、克哉は深く溜息をついた。
「どうぞ、ご安心下さい」
 大仰なその言葉に、克哉は男を振り返った。
 道化は薄い笑みを浮かべて、克哉を見ていた。
「あの方が生活するために必要なものすべては、すでに用意させていただいております」
「どういう意味だ?」
 克哉は怪訝な顔つきで、男を凝視した。
「あの方は、あなた自身。けれど、あなた方の魂は二分されました。あなた方お二人の欲は、本当に、強い。魂を二分してしまうほどに。しかし、せっかく「ふたり」に分かれられたというのに、あの方は消失を望まれた。いつかくる、魂の輪廻。そのときの再会を願って」
 数ヶ月前のことを、克哉は思い出した。
 どことも知れない場所で、<克哉>と交わした言葉。口づけ。約束。
 それから、不意の、消失。
 まるで最初から存在していなかったかのように、消えた。
 ああ、<克哉>を消したのは目の前の、この、得体の知れない男だったと克哉は思い出した。
 男を見る眼差しに剣を込めた。しかし、気づいていないのか、気にしていないのか、男は淀みなく話しつづける。
「自ら消失を望み、決めながら、……どういうわけか泣いておられたので」
「なに?」
「なぜ泣かれるのか、私には理解できませんが。あの方に、あなたへ向けるほどの関心を持っていない私の心を動かすほど泣いておられたので、あの方に肉体を与え、戸籍を用意させていただきました」
 ですから、生活するために支障はありませんよ、と、男の口から零れるには、ずいぶんと違和感のある言葉が語られて、克哉は不快げに眉を顰めた。
「さて、私のお節介はお気に召していただけましたでしょうか?」
 慇懃に上体を折り、礼をしてみせた男に、克哉は舌打ちした。
「ふん。悪趣味な退屈しのぎだな」
 吐き捨てるように言い、克哉は男から視線を逸らした。
 これ以上、道化の遊びに付き合っていられるか。
 そう思いながら、なんとか抜け出すことに成功したらしい<克哉>が戻ってくると、その手を掴み、今度こそ文句には耳も貸さずに歩き出した。
「どうぞ、今まで以上に、愉しい時間をお過ごし下さい」
 背後から届いた声には振り向かず、克哉は家に向かった。


「煙草臭い」
 部屋の中に入った瞬間、<克哉>が顔を顰めて言い放った。
 テーブルの上に無造作に放り出していた煙草に手を伸ばそうとしていた克哉は、その言葉に動きを止めた。
 大きな溜息をついて、煙草と灰皿をテーブルの端に押しやる。
 <克哉>がいる間、煙草を吸わないという意思表示だ。
 どこまで我慢できるか、あまり自信はなかったが。
「座れ。コーヒーぐらい、入れてやる」
「偉そうだなぁ。自分で連れてきたくせに」
 克哉の物言いに拗ねた顔をしながら、<克哉>がきょろきょろと部屋の中を見回していた。
「……ずいぶん、変わったな。オレが住んでた部屋じゃないみたいだ」
 少し淋しそうな呟きを落とした<克哉>の前に、カップを置いた。
「懐かしいとは思えないか?」
「そうだね……。配置はたいして変わっていないけど、置いているものが違うから。部屋の匂いも、煙草の匂いが混じっているし」
「淋しいか?」
「どうだろう……よく判らないよ」
 ふっと笑うと、<克哉>はコーヒーカップに手を伸ばした。
 一口飲んで、やっと、落ち着いた顔をする。
 <克哉>の様子を見て、克哉もコーヒーを飲んだ。
 奇妙な沈黙がふたりの間に落ちた。
 思い起こせば、<克哉>とふたりでいるときに、コーヒーを飲んでのんびりしたことなどない。
 いつも、押さえるつもりもない衝動のままに組み敷いて、快楽を与えて、享受し、互いを貪りあっていた。
 そんな時間しか過ごしたことがなかったからだろう。間が持たないのは。
 コーヒーを飲みながら<克哉>を見てみると、そわそわとしていて、少し落ち着きがない。
 期待半分、警戒と不安半分といったところか。
 相手の嗜虐心を擽るような顔はやめておけ。そう言っても、きっと無意識の仕草だろうから、効果はないだろう。そう思いつつ、克哉はコーヒーを飲み干した。
 カップをテーブルに置くと、ことん、と、小さな音がした。
 その音に驚いたように、<克哉>が視線を寄越してきた。
「なんだ?」
「え……あ、いや、なんでも……ない」
 消え入りそうな声でそう言って、居心地が悪そうにカップに口をつけている。
 コーヒーを飲み終えて、会話もなく、なんとなく手持ち無沙汰で、つい、遠くに置いた煙草に手を伸ばした瞬間、克哉は手をはたかれた。
 ぱちんと小さな音がして、手を叩いた<克哉>を睨みつけると、怒った顔で睨み返される。
「煙草! オレがいる間は吸わないつもりだったんじゃないのか?」
 怒った口調でいいながら、<克哉>が克哉の手の届く場所から、煙草の箱を遠ざけてしまう。
 克哉は嘆息した。それからくしゃりと髪を掻き上げ、肩を竦める。
「わかった。吸わない」
 そう言うと、<克哉>が嬉しそうに破顔して、けれど、克哉の言葉など信用していないのだろう。煙草の箱を自分の体の横――テーブルの下に置いた。
 もう一度嘆息して、さて、この間をどうやって持たそうかと思った克哉は、そういえば、と思い出した。
「おい」
「なに?」
「言っていなかったことがあった」
「オレ……に?」
 きょとんと見返してくる柔和な瞳に、克哉は頷いた。
 自分から「次に会ったときに」と言っていたくせに、忘れているらしい。
 くつりと喉の奥を震わせて、克哉はテーブル越しに身を乗り出した。
 とたんに、緊張するように<克哉>の体が震えて、強張った。
 予想通りの反応に、克哉は、小さく笑う。
「お前が言ったんじゃなかったか?」
「え? なにを?」
 テーブル越しに伸ばした手。
 すっきりとした頬に、指を這わし、両手の掌で頬を包み込んだ。
 <克哉>の頬が、うっすらと赤くなる。
 克哉の視線から逃れるように、目を逸らす。
 まあ、それくらいは許してやるか。
 そう思いながら、克哉は低く囁くように言った。
「次に会ったときは<オレ>のことを好きだって言ってくれるよな? だったか。それから、お前を抱きしめて……?」
「…………びっくりした」
「なんだ?」
 心底驚いた声を上げた<克哉>を、克哉は怪訝そうに見返した。
 ……もう少し空気の流れを読め、と言ってやりたいところだが、<克哉>があまりにも綺麗に笑ったので、そんな文句は口に出せなかった。
「覚えていてくれたなんて……。ちょっと、感激した」
「おい……人をなんだと思ってる」
 憮然としてそう言うと、「だってさ」と、<克哉>が苦笑を浮かべた。
「覚えてなさそうだったから。言ってくれないかなって……、思ってた」
「――言って欲しいか?」
「お前に言ってくれる気があるなら……、聞きたい」
 まっすぐに克哉を見つめてくる瞳と、震えることなく、しっかりした声。
 そこから感じ取れるのは、<克哉>の心が克哉に向けられたままであること。
「……聞かせてやる」
 克哉はさらに身を乗り出して、<克哉>の耳元に唇を寄せた。
 唇が触れる位置で、わざと囁く。
「俺は、お前が想像している以上に、お前のことを愛しているさ。お前が望むだけ、何度でも言ってやる。いつだって抱きしめてやるし、抱いてやる。だから、克哉。もう二度と俺の傍から離れるなんて馬鹿なことを考えるな」
「……うん」
 こくりと頷いた<克哉>に「いい子だ」と囁いて、克哉は耳に口づけた。
 くすぐったそうに肩を竦めた<克哉>の顎を掬い上げ、克哉は小さく息を漏らす唇にキスを仕掛け、<克哉>の唇が甘い吐息を零すようになっても、数ヶ月ぶりのその感触を貪り続けた。

                                   END

ノマ消失話が、自然に修正されました(苦笑)。
絶対、眼鏡の邪魔が入ったというか。そんなにノマが好き??(わたし的に大歓迎vv)
Mr.Rもずいぶん協力的で……。
眼鏡克哉が大好きなのは、公式でも二次創作でも同じか……。
しかし、長いな。ここまで読んでくださった方、お疲れ様でした。
(ぺらい本一冊できるよ)