ネガイゴト 手に持っている薬局のビニール袋から覗くそれに視線を落とし、克哉は小さく、ごく控えめに息をついた。 かさりと乾いた音がたつたびに、袋から飛び出ている葉の部分が揺れる。 「どうしようか、これ」 途方にくれた呟きが夜の道に溶けるより早く、また袋が乾いた音を立てる。 克哉が歩く動きに合わせて、かさり、かさり。薄いビニール袋が揺れて、葉っぱが揺れて。 克哉の薄い唇からは、もう何度目になるのか判らないけれど、溜息が零れる。 困りきっている克哉の頭の中に、一瞬、捨ててしまおうかという思いが過ぎったけれど、その思いこそすぐに捨てた。 もう必要としないものだけれど、だからといって古くからの取引先の厚意を捨てることはできない。 こんな考え方をする克哉に、きっと『彼』は、お人好しも大概にしろと呆れるだろうけれど。 「もしあいつがこれを見たら、オレ、バカにされるだろうなぁ」 脳裏に一人の人物を思い描き、それと同時に深い溜息を一度零して、克哉はアパートの前で立ち止まった。 アパートの電燈に照らされ、浮かび上がった自分の部屋のドアを見上げ、見つめる。 無機質な鉄のドアが開く様子は、当たり前だけれど、ない。 それを少し寂しく感じるのは、きっと、手の中のものが原因なのかもしれない。 しばらく立ち竦むようにしてドアを見つめていた克哉は、背後を通り抜けていく自転車の音に我に返った。 克哉の背後を一瞬だけ照らした、自転車の電灯の光。その明かりはすぐに遠ざかった。 はっとしたように瞬きを、二度。それからゆっくりと視線を前に戻して、階段に向かって歩き出す。 かさり、かさり。 歩むたびにビニール袋の音が耳についたけれど、さっきよりも手の中のもの――七夕の笹飾りを持て余した気持ちはなかった。 それにたった数日のことだ。 誰に見せるわけでもないこれを、このまま袋に入れて部屋に置いていようが、開き直って飾っていようが、どうせ克哉をバカにするような相手はいない。 「気に病む必要もないよな」 どうせなら幼い頃のように、七夕というイベントに乗っかってみてもいいかもしれない。 そんなことさえ思いながら、克哉は鍵を開け、玄関のドアを開いた。 「ただいま」 返る声のない部屋の中に、声を投げかける。 いつからか言わなくなったその言葉を、また口にするようになったのは、『もう一人の自分』と邂逅した後からだ。 不意打ちで。克哉が思ってもいなかった瞬間にこそ、『彼』は目の前に現れる。 それは、克哉以外誰もいない真夜中のオフィスだったり、誰も待つ人のいないはずのこの部屋だったりと、神出鬼没だ。 克哉を出迎えるように、不意打ちで、「おかえり」と言葉をくれる『彼』に驚きながら、「ただいま」と言葉を返したことは、数回。 そんな日が続いて、いつのまにか誰も待っていないと解っていても、それでももしかしたらという気持ちを捨て切れなくて、声に出して言うようになった言葉だが、今のところ、連敗中だ。 機先を制したくて「ただいま」という克哉の声に、期待する声が返ってきたことは一度だってない。 今日も応える声のない部屋に入り、克哉は部屋の電気をつけた。 白い光に照らされる部屋。その明るさに目を細めつつも、克哉は鞄とビニール袋を床に置いた。 サマージャケットを脱いで、ハンガーにかける。 それから日中に暑いくらいに温まってしまった空気を入れ替えるために、窓を開けた。 少しだけ涼しい風が入り込み、部屋の淀んだ空気を拡散する。 それだけで息苦しく感じられた部屋の空気がマシになった気がして、克哉はほっと息をついた。 食事の前にシャワーを済ませてしまおうと、克哉は洗面所へと向かった。 汗を流した克哉は、開けていた窓を閉め、リモコンに手を伸ばしてエアコンの電源を入れた。 ほどなくして、ひんやりと冷たい空気が流れてくる。 汗と仕事の疲れをシャワーで流してしまうと、空腹を覚え、軽く食事をしようと冷蔵庫を開けた克哉は、「しまった」と小さく唸った。 まともな食材がない。 「これじゃあつまみ程度だなぁ」 うっかりしていたと嘆息を零しつつ、まあ、ないよりはマシかとちょっとずつ残っていた食材を取り出した。 申し訳程度に残っていた野菜と肉を炒めて、冷凍していたご飯をレンジで温めて。 それらをテーブルに運んで、冷えた缶ビールもテーブルに置いた。 「いただきます」 テレビから流れてくるキャスターの声をBGMにして、ささやかな夕食を口にする。 明日はコンビニか、定時に帰れるようだったらスーパーに立ち寄って食材を買ってこようと思いながらビールを飲んでいた克哉は、天気予報士が口にした言葉に、持ち帰ってきた笹飾りの存在を思い出した。 鞄の隣に、袋から出すこともなく無造作に置かれたままのそれに視線を移し、克哉はもらってきた笹飾りを袋から取り出した。 七夕の気分だけでも、と、これを手渡してくれた薬局の、初老の店主の言葉を思い出す。 大人の男性に渡すようなものではないけれど、と、家の笹を使ってお孫さんが作ったと言う笹飾りをお裾分けしてくれた店主は、克哉がキクチに勤めて、初めて契約を結んだ相手だ。 そう思うと、ずいぶんと長い付き合いになっている。 失敗が多い克哉を時には叱りながら、時には気遣いながら、まるで肉親にそうするように気にかけてくれる。 商品の売れ行きの確認ついでに顔を出した克哉が、レジに飾られた七夕飾りに気づくと、家に持ち帰るつもりだった笹飾りの枝を手折り、そこにひとつだけ折り紙の飾りをつけて渡してくれた。 たまには童心に返って、こういうイベントごとを楽しむのもリラクゼーションになるかもしれないよ、と、揶揄めいた笑みを浮かべつつも気遣ってくれた。 その気持ちがありがたくて、嬉しくて。本当は克哉に笹飾りは不要だったのだけれど、手渡されたそれを受け取ったのだ。 「……せっかくだから、飾ってみようかな」 言いながらそっと笹飾りを揺らした。 折り紙で作られた天の川が、笹の葉と一緒に揺れる。 さて、どこに飾ろうかと、克哉は部屋の中を見回した。 やはり窓辺がいいだろうか。 そう思いながらベランダへと続く窓を見やり、ふと、思いついた。 どうせなら、短冊も一緒に飾ってみようか。 誰に見せるわけでも、誰に見られるわけでもない。だからこそ、願い事を書いてみようかと思ったのだ。 なんとなくわくわくした気持ちになりながら、克哉はパソコン用紙を一枚取った。 短冊らしく見える大きさにそれを切り、鞄の中からボールペンを取り出す。 さあ、なにを書こうか。 叶わないことは解っているけれど、――否、だからこそ、何を書こうと願おうと、自由なのだ。 いろいろなことを思い巡らす。 仕事のこと、それ以外のこと。願い事はたくさんあって、書きたいことももちろんたくさんあって。 幼い頃のようになにを書こうかと迷ってしまう。 笹飾りを手に帰途についていた途中の戸惑いや困惑が、嘘のようだな、と、克哉は苦笑を浮かべながら、ペン先を紙の上に落とした。 どうせなら、自分ではどうしようもないことを書いてみよう。そう思う。 仕事のことも、他愛ない願いも、自分でどうにかできることは、書かなくてもいい。 「オレが頑張ればいいことだもんな」 ひとりごちて、克哉は短冊に願い事を書いた。 願い事を書き記した短冊に穴を開け、糸を通す。それから糸を通したそれを、笹飾りに飾った。 天の川と短冊だけが飾られた笹飾りを、克哉は窓の横の壁に凭れかけさせた。が、安定が悪い。笹の葉の重みで、どうしても傾いてしまう。 あっちに向け、こっちに向け、と、倒れないように凭れかけさせるにはどうすればいいだろうと苦心していると、 「バカか。紐か何かでベッドの足にでも括りつければいいだろう」 低い声が耳元で呆れたように言った。 「え……って、うわっ!? 〈俺〉!?」 「ずいぶんな態度じゃないか、〈オレ〉? そんなに驚くなよ。お前が望んだんだろう?」 素っ頓狂な声を上げて振り向いて、顔を引きつらせた克哉を見つめる《克哉》の瞳は、言葉のわりに克哉の反応を楽しんでいる――としか思えないほど、楽しそうに見えた。 (絶対、楽しんでいるんだろうけどさ) いつものこととはいえ、突然現れた《克哉》の姿に驚いていた克哉は、その驚きから解放されると、こっそり心の中で毒づいた。 少しだけ苛立たしさを滲ませた吐息を零して、 「オレがなにを望んだって言うんだよ?」 克哉は憮然と問いかける。 冷たい印象を相対する相手に与える、銀色の細いフレームの眼鏡の、度の入っていないレンズ。その向こう側で、《克哉》の瞳が軽く驚きに瞠られた。 その表情を間近で見ることとなった克哉は、そんなに驚かせるようなことを言っただろうかと思いながら、呆れているような、苦笑しているような表情に変化していく、誰が見ても同一人物とは思えないだろう、《もうひとりの自分》の整った顔を見ていた。 つい、と、細い指が、克哉の視界の端で動いた。 その動きとともに《克哉》の状態が、克哉に寄せられるように動く。 克哉はつけたことのない、男性的な、それでいてどこか興味を惹かれずにはいられないフレグランスが、鼻腔を擽った。 どこのメーカーだろう。こいつに似合っているな、と、そんなことをぼんやり考えながら、さらに間近に迫った顔を見つめていると、ぱん、と、小さく紙を弾く音がした。 「え……?」 はっと音のした方向に目を向けると、整った指先が、さきほど克哉が飾った短冊をつついている。 克哉は整った指先がつついている短冊を、しばらくぼんやりと見つめていたが、そこになにを書いたのかを思い出して、はっとなった。 「あ!」 慌てて短冊を握り潰してしまおうとしたけれど、邪魔されて、失敗してしまう。 「気づくのが遅すぎだ。だいたい、握り潰したところで今さらだろう? 俺は全部読み終えたあとだ」 たっぷり揶揄を含んだ声に言われ、声以上に揶揄を含んだ瞳が克哉の顔を覗き込んでくる。 《克哉》の指摘に言葉に詰まりつつ、それでも克哉は背後の《克哉》を睨みつけた。 克哉に睨まれていることなど、まったく気にしていないらしい《克哉》が、 「寂しかったのか?」 そう問いかけてきた。 「え……、いや、別にそういうわけじゃないけど……」 「ふ、ん? だが俺と一緒にいたかったんだろう?」 そう書いてあるじゃないか、と、《克哉》の指が短冊に書かれた文字をなぞる。 その仕草を見つめながら、 「本当に寂しかったわけじゃ……。短冊に書いた願いごとって、大抵叶わないじゃないか。だから、どうせ叶わない願いごとなら、叶わなくても「やっぱりな」って笑ってすませられる内容でいいかなって、そう思ったから書いただけで」 深い意味なんてなかったんだと言外に告げるけれど、《克哉》は信じていないようだった。 「ふぅん」と興味なさそうな相槌を返される。 沈黙が降りて、居心地が悪いような、どうにも落ち着かない空気が流れる。 背後の存在が気にはなるけれども、身じろぐことさえできないような空気があって、克哉は妙な緊張を強いられていた。 呼吸さえひっそりとさせていると、不意に、背後から抱きしめられた。 「な……なに?」 突然の―《克哉》の行動はいつもだ―抱擁に驚いた声を上げると、 「叶ったじゃないか」 ぽつりと耳元に言葉が落ちてきた。 「え……?」 「だから、叶っただろう、願いごと。良かったな。俺と一緒にいられるぞ」 「え……、あ、うん……そうだな。……って、待ってくれよ! 叶ったって、それって、あの……ずっと一緒にいるってことなのか?」 抱きしめられているから、振り返ることはできない。だから克哉は笹飾りと短冊を見つめながら問いかけた。 問いかけたとたん、克哉を抱きしめる腕に力が込められる。 「ずっとかどうかはわからんな。気紛れな奇術師使いの気分しだいだろう。だが、そうだな、今夜はずっと一緒にいられるんじゃないか。一年に一度の逢瀬が許される七夕だからな」 どうでもいいとでも言いたげな、そんなぞんざいな口調で言われたが、克哉は気にならなかった。 克哉を抱きしめてくれる腕の強さが、《克哉》の想いを教えてくれている。伝えてくれている。 本当に寂しいと思っていたわけじゃないけれど。 会いたいと、ずっと一緒にいたいと、本気で願っていたわけじゃないけれど。 けれど願いが叶って、こうして背後から抱きしめられていると、本当の本当は、寂しかったような気がしてくるし、会いたかったと思えてくる。 《もう一人の自分》という存在を、認めたわけではないけれど、このままずっと一緒にいられるのなら、一緒にいたいと思えてくるから不思議だ。 背中に感じる温もりにすべてを預けるように、克哉は思いのほか優しく抱きとめてくれる腕に身を預けてみた。 とたんに揶揄を含んだ言葉が落ちてくる。 「珍しいな。なんだ、本当に俺に会いたかったのか?」 「そうじゃないけど……。でも、――一年に一度の特別な日くらいは、甘えてみてもいいかと思ってさ」 「本当に、珍しいな。雨でも降るんじゃないか」 「酷いこというなよ。オレに甘えられて、まんざらでもないくせに」 「甘えた挙句に、たいした自惚れだな。……まあ、いいだろう。たまには素直なお前も悪くない」 そう言った《克哉》の指が髪を優しく撫でる感触に、うっかり心の中でキスして欲しいかも、と、思いながらそっと瞳を閉じた克哉の願いは、数十秒後に叶えられることになる――――。 END |