とある時の、バレンタインデー



「なに、これ?」
 テーブルの上に堂々と置かれている箱を見つめ、克哉は怪訝な顔で呟いた。
 有名なチョコレート店のロゴが入った、包装紙。それからリボン。
 箱の大きさから推測するに、値段は五千円を超えている――気がする。
 高級なチョコレートが、どうして、なぜ、どんな理由で、克哉が住んでいる質素なワンルームマンションの一室、そのテーブルの上に置かれているのか。
「オレ、鍵を開けて入ってきたよな?」
 朝、鍵をかけ忘れただろうか、とか、空き巣が入ったとして、物も盗らずに、それどころか高級なチョコレート菓子を置いて行くわけないよな、とか。自分でも呆れるようなことを考えていると、突然耳元で、不機嫌極まりない声が囁いた。
「ずっと突っ立っていられたら、邪魔だ」
 耳朶に直接流し込むような囁き声に、びくりと肩が跳ね上がり、けれど、色気のある声音に合わないその言い草に、克哉はキッと眉根を跳ね上げた。
 冷静に距離をとりつつ、勢い良く振り返り、同居人となりつつある<克哉>を睨みつけた。
「耳元で話すなって、何度言えば解るんだよ!」
「狭い部屋の入り口で、ぼうっと突っ立っているお前が悪い。――おかえり」
「……ただいま」
 まるで反論を封じ込めるように「おかえり」と言われた克哉は、軽く眉根を寄せつつも、結局、<克哉>の目論見どおりに反論を封じられて、悔しく思いながらも応えを返す。
 狭くて悪かったな、と、心の中で悪態をつきつつ、克哉は鞄を床に置いた。
 コートとジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、ああそうだ、と、テーブルの上の箱のことを思い出した。
「なぁ、<俺>、これ、お前の?」
 箱を指差しつつ問いかければ、<克哉>が僅かに目を細めて克哉の指先を見、
「いや」
 と言葉短く否定をした。
「お前のじゃないなら、これ、オレ宛ってことだよな? 誰から預かったんだよ」
「確かにお前宛だが、預かったわけじゃない」
「え?」
「俺からお前に、だ」
「はぁっ!?」
「驚くほどのことか? 今日はバレンタインデーだろう?」
 くつり、と、喉を震わせて笑いながら、簡単に種明かしをする<克哉>を、まじまじと見つめ、克哉は、
「バレンタインデー」
 と、呆然と呟く。
「なんだ、忘れていたのか?」
「え……、いや、忘れてたわけじゃないけど、お前が用意するなんて思っていなかったから……、っていうか、なんでオレに?」
 お前がオレに要求するならわかるけど、と、小さく呟けば、<克哉>がシニカルな笑みを浮かべた。
「なんだ、知らないのか? 今年は逆チョコらしいぞ」
「逆チョコ?」
「男が女にチョコレートを渡すらしい。俺はいつもお前から貰っているからな。今年は世間の風潮に乗って、俺から贈ってやろうかと思って、買ってきた」
 そう言って<克哉>がにやりと笑みを浮かべる。
 その笑みに、なんとなく裏を感じ取りつつも、克哉はとりあえず、
「ありがとう」
 と、そう言った。
 礼のひとつも言わないと機嫌を損ねられたら、どんなことを要求されるかわからない。避けられる災難は、できるだけ避けておきたいと、克哉は本気で思っている。……悲しいことに、避けられるはずの災難を、一度として回避させてもらえた例はないけれど。
「味わって食べろよ」
 気味が悪いほどに上機嫌の<克哉>の言葉に、克哉は引きつった笑みを浮かべながら、ぎこちなく頷き、そっとテーブルの上の箱に視線を走らせた。
 素直に喜べない気持ちがあるのは、なぜだろう。
 克哉の心の奥底で、油断するなと警告するものがある。
 なんとなく、礼など言わず、「いらない」と突き返してやればよかったという気持ちが湧き上がってくるのは、どうしてだろう。
 突き返したら突き返したで、酷い報復――お仕置きとも言う――が待っていると解っているのに。
 ああ、そう言えば、食べもしないチョコレートを要求しなかったのは、こういうことだったのか。
 克哉がそんなことをつらつらと考えていると、<克哉>がわざとらしい声で言った。
「楽しみだな」
「楽しみって、なにがだよ?」
 不穏でしかない発言に、克哉はぎょっとなりつつ視線を<克哉>に向けた。
 <克哉>がニヤニヤといやらしく笑っている。
 ああ、よく解らないけれど、いろいろと絶対に間違えた。
 <克哉>の浮かべている笑みにそんな後悔が、……もはや何度目になるか判りもしない、一生分の後悔を全部味わっているような気持ちになりながら問い返した克哉に、楽しくて楽しくて仕方がないといった笑顔が、返された。
「もちろん、来月のホワイトデーに決まっているだろう」
「ホワイトデー?」
「ああ、ホワイトデーだ。確か三倍返しが相場だったな?」
「……三倍……返し……」
 呆然と呟いた克哉に、<克哉>が指を伸ばしてくる。
 逃げなくては、とそう思うのに、克哉の体は動かない。
 ゆっくりと克哉の唇の輪郭を、<克哉>の指がなぞっていく。
 確かめるような指の動きを、克哉の意識すべてが追う。
 追ってはいけないと、解っているのに。
「お前のこのいやらしい唇が、どんなお返しをしてくれるのか、どんな風に啼いてくれるのか、本当に楽しみだ。なぁ、<オレ>?」
 克哉のすべてを絡め捕るような<克哉>の眼差しが、狡猾な獣のように細められ、拒絶の言葉は強引な口づけに飲み込まれた。
                                   終

久々の眼鏡創作。イベント物です。克克。
甘いのか、そうでないのか、実に微妙です。

というか、うちの眼鏡さん、どれだけノマが好きなのか。
まったく報われておりませんが。