〜Calling〜 「克哉!」 名前を呼ばれると、ゆっくりと視線が上げられた。 それから名前を呼んだ人物に向けられる、穏やかな瞳。 信頼を向けていると一目で知れるそれに、わずかながらも苛立ちを感じつつ、御堂孝典はミーティング後の資料を手早く揃えながら、視線の端でキクチ・マーケティングのふたりを見ていた。 佐伯克哉と本多憲二の上司である片桐稔は、一足先に会議室を出て行っている。 会議室を出て行く前に、少し慌てた様子で今日中に仕上げなければいけない仕事があるから先に戻ります、と、ふたりに告げていた。 「お疲れ様です」と、片桐を労った佐伯は、「俺は、今日もこちらで仕事をしていますので」と、柔らかな声で片桐に言い、それに倣うように、本多も「俺は、今日は外回りに出て、戻れるようなら会社に戻ります」そう言っていた。 それに片桐は頷き、資料の入った鞄を手に取って、御堂にも「失礼します」と声をかけ、それぞれまた「お疲れ様です」と労いを交し合った後、慌しく片桐は出て行き、直接の上司を見送った佐伯克哉と本多は、それぞれ資料をまとめ、鞄に仕舞っていた。 佐伯克哉より早く作業を終えた本多が、佐伯の名を呼んで。 キクチ・マーケティングの八課と仕事をするようになってから、もう幾度となく見た光景だった。 本多に名前を呼ばれるたび、佐伯克哉は安堵を滲ませた、柔らかい笑顔で顔を上げる。 優しげな表情で本多を見つめ、本多の言葉に応えている。 そこには、長い間一緒に仕事をしてきた仲間同士の、あるいはそれ以上の気安さが滲んでいた。 御堂の前では、決して見られることのない笑顔が、いつも惜しみなく本多には向けられている。 いや、本多にだけではない。御堂以外の人間、すべてに、か。 それに対して腹立たしさを感じるなど、どうかしている。 そう思うけれど、実際、御堂は腹立ちだとか苛立ちを、最近、感じている。 それがどんな意味を持つのか、御堂には判らない。 どうにも不可解な苛立ちだった。 「気に入らない」 御堂は口の中で呟く。 不可解ではあるけれど、仕方がないことだと、解っている。 佐伯克哉に出した、交換条件。 強要した関係を考えれば、佐伯克哉が御堂に無防備な笑顔を向けることなど、ありえない。当たり前のことだ。 それが解っていても、なぜか苛立ちは募るばかりだ。 ふと、本多のように名前を呼んでみれば、この苛立ちが消えるのだろうかと御堂は思った。 身構え、怯え、萎縮しながらも警戒心を剥き出しにした眼差しや表情ではなく、本多たちに見せるような、自然体の……。一緒にいる人間まで穏やかにさせてしまうような、あの柔らかく優しい表情を向けてくれるのだろうか。 「埒もないな」 纏め終えた資料の束に視線を落とし、御堂は自らの口の端に自嘲を浮かべる。 いったい、自分はなにを考えているのだろう。 なにを、あの佐伯克哉に望んでいるというのだ。 自分にも、他の者に見せているような柔らかな笑顔を向けて欲しい? 無防備な態度を取って欲しい? 「馬鹿馬鹿しい」 吐き捨てるように御堂は言った。 嫌がらせのつもりで、交換条件に接待を持ちかけた。佐伯克哉はそれに応じ、御堂自身も内心でそれを嘲りながらも受け入れた。 それだけのことだ。 それ以上のものも、それ以下のものもない。 そこに感情が介入するなど、ありえないことだ。……否、あってはならない。 御堂がそう思いながら資料から顔を上げたときだった。 視線を感じた気がして、御堂は振り向いた。 佐伯克哉が御堂を見ていた。が、御堂と視線が合った途端、佐伯克哉の眼差しは、そっと伏せられ、逸らされた。 御堂と目を合わせることを禁じているような仕草だと、何度思ったことだろう。 御堂だけは真っ直ぐに見ない眼差し。 いつも、いつも、どんなときでさえ――仕事中の、重要な話をしているときでさえ、合わされることのない視線。 御堂の眉根が無意識に寄せられる。 募る苛立ち。怒りにも似た……。 なにか言ってやろうかと御堂が唇を動かしかけたところで、邪魔が入った。 「どうした、克哉?」 「え? ……なんでもないよ、本多」 ふっと緊張を和らげた声音で、仕草で、佐伯克哉が本多を見返した。 瞳には微笑みさえ浮かんでいる。 御堂は無意識に、小さく舌打ちをする。 焦燥感に似たざわつきが、胸の中にあった。 「そうか?」 怪訝な顔をしながらも、本多はそれ以上追及しようとしない。 かわりに、 「克哉、明後日の金曜日の夜の約束、忘れるなよ」 「……うん、わかってるよ」 飲みに行く約束の確認をしていた。 なにかを躊躇うように間を置いて、けれど、佐伯克哉が頷いた。 そのやり取りを、御堂は眼差しを鋭くしつつ眺める。 飲みに行く時間があるのなら、業績を伸ばすことに時間を割け。そう言ってやろうかと思ったが、黙っていた。 その言葉を口にするのは容易かったが、それが仕事に絡んだ嫌味から出る言葉なのか、それ以外から出る言葉なのか、一瞬、御堂には判らなくなったからだ。 だから御堂は、厳しい顔つきのまま佐伯克哉を呼んだ。 「佐伯くん」 御堂が呼んだとたんに、怯えたように肩が震えた。 躊躇うように御堂に向けられる視線は、やはり伏せ目がちで、やや外されている。 御堂はさらに眼差しを強くする。 とたんに非難めいた本多の視線を強く感じた。 佐伯克哉を庇うように、御堂に食ってかかるつもりだろう本多の足が、踏み出される。 それを視界に収めながら、御堂は続きの言葉を唇に乗せた。 「私は先にオフィスに戻る。話がすんだら、君は君の仕事をしたまえ」 言い終えると同時に、御堂は早足で出口に向かった。 ドアを開くと、 「え……、あ、あの、……はい。わかりました」 呆けているような、戸惑っているような、なんとも気の抜けた返事が返された。 その言葉を最後まで聞かず、御堂はドアを閉めた。 ドアが閉まる音が、御堂の背後でやけに大きく響いた気がした。 世界は遮断され、隔絶された。 そんな気持ちが、御堂の胸のうちを掠める。 御堂を必要としない、ドア一枚を隔てただけの世界。そこにある、空気。 無論、御堂自身も必要としていない世界と、空気だ。 けれど。 背後のドアを開いた、あの会議室の中に、なにか大切なものを。取りこぼしてはいけないものを、置いてきたような錯覚を、気持ちを、御堂は抱いた。 それが何であるのか、御堂にはわからない。 ただ、焦燥と苛立ちだけが、御堂の胸のうちを支配する。 侵食される。 不可解すぎる感情に眉を顰めた御堂は、手の中の資料に目を落として、作成者の名前を呟くように口にした。 「佐伯……克哉」 唇に乗せた名前。音に滲んだかすかな甘さに御堂自身気づかぬまま、すべての感情を振り払うように頭を一つ振って、御堂はオフィスへ戻るべく足を踏み出した。 END |
とりあえず、自己満足の具現キチメガ創作第一弾。
無自覚な御堂→克哉な感じで。