01

 早朝の住宅街。
 ごく稀に犬の散歩をしている人や、ジョギングをしている人。散歩をしている人たちに行き交う。
 時々そんなふうに行き交う人たちに挨拶をされて、少し戸惑いながら挨拶を返し、克哉は公園へと向かった。
 朝の清涼な空気と、静寂。
 思い切り深呼吸と伸びをして、克哉は息をついた。
 たいして眠れずに夜明けを迎えて。こうして朝の散歩をしたのは、これで三回目だ。
 たぶん、来週も同じように散歩に出ているだろう自分を想像しながら、克哉はのんびりと公園の中を歩いた。
 気晴らしのつもりで散歩に出てみたけれど、やはり、たいして気は晴れない。
 重い溜息が、何度も口をついて出た。
 自然と俯いてしまう顔を意識して上げ、ふと空を見上げてみた。
 淡い空色が広がっている。
 ほっと息をついて、目を閉じた。
 その瞬間だけでも嫌なことを忘れられて、心が軽くなる。
 目を開けばすぐに現実に戻されて、思い出したくなくても思い出してしまうけれど。
 きっと、今の行為に意味はないのかもしれないけれど。それでも、ほんの僅かな一瞬でも、心を空っぽにする瞬間が、今の克哉には必要だった。
 けれど。
 明日の夕刻のことを思えば、だんだんと気が重くなってくる。
 ああ、このまま目を閉じていられたら、どんなにいいだろう。
 克哉がそう思ったときだった。
「あれ、克哉さん!?」
「え?」
 驚いた声に呼びかけられて、目を開いて振り返った先に、ギターを背負った太一がいた。
「太一……おはよう。どうしたんだ、こんなに朝早く」
「おはよ。克哉さん。克哉さんこそ、早いんじゃないの?」
「うん。目が覚めちゃってさ……」
「ふぅん」
 克哉が苦笑するように笑いながら言うと、何かを言いたそうに少し眉を顰めて太一が頷いた。けれど何も言わずにぱっと顔を輝かせて、
「俺はね、打ち上げの帰り!」
 嬉しくて、楽しくて仕方がない声を隠さずに、太一はそう言った。
 そんな太一につられるように、克哉も自然と笑顔になる。
「そっか。楽しかった?」
「もう、最高っすよ! ライブも、その後の打ち上げも! ライブはね、ダチの助っ人だったんですけど。克哉さんは散歩中?」
「うん。……気分転換になるかなって思ってさ」
「気分転換? あー、確かに、なんか疲れた顔してるもんね」
 心配そうに顔を覗き込む太一の言葉に「そうかな?」と曖昧に笑って、克哉はそっと息をついた。
 太一に心配をかけてしまうと判っていながら、どうして、もっと上手く言えなかったのだろう、と、自己嫌悪に陥りかける。
 いまさら誤魔化すことも、大丈夫だと告げることもできない。
 仕事のことかと訊ねられたら、うっかり、溜まっている鬱憤を――御堂とのことを口にしてしまいそうだ。
「夢見が悪くてさ……」
 太一がその言葉に誤魔化されてくれれば良いと思いながら、克哉はここ最近見る夢のことを思い出しながら言った。
「夢見?」
 怪訝そうに問い返す太一の瞳は、どこか克哉の様子を窺うように鋭い色を湛えている。
 言葉の真意を探るような眼差しに、克哉は内心ドキドキしていた。
 太一は変に勘が鋭い。まるで心のうちすべてを見透かしているような、そんな言動をすることが多い。
 夢見が悪いのは嘘ではないけれど、誤魔化すために言ったことを、あっさり看破されるのではないかと。誤魔化されてはくれないんじゃないか、と、克哉が思っていると、
「そっか。夢見が悪くて、克哉さん寝られなかったんだ? かわいそう。……気分転換に、俺、何か弾いてあげようか?」
「ええ、ここで!?」
「うん。路上ライブ。克哉さんのためだけの。どう?」
 悪戯っぽく言った太一の瞳は、けれど、どこか真剣だった。
 克哉のことを本気で心配してくれているのだと、判る。
 労わる言葉が、厚意が、とても嬉しかった。
 少し気持ちが浮上して、だから克哉は笑って、ゆっくりと首を振った。
 その仕草が太一をがっかりさせてしまうことに、胸が痛んだけれど。
「気持ちだけ受け取るよ」
「えぇー。克哉さん、俺のギターと歌、聴きたくない?」
「聴きたいよ」
「だったらさぁ」
 不満いっぱいに唇を尖らせる太一の、その小さな子供のような仕草に笑いながら、克哉は言った。
「太一のギターも歌も、ライブハウスで聞かせてもらうよ」
「そう言って、克哉さん、忙しいからまた今度って言うばっかりじゃん。俺、ずっと振られっぱなし」
 しょんぼりと肩を落とす太一の言うとおりで、克哉は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 確かに、ずっと、太一の誘いを断っている。
 プロトファイバーの新規取引先を獲得するために、毎日奔走して。その合間にMGNでも仕事をこなし、元からあった取引先にも追加注文をお願いして回り、そして……。そして、先週からスケジュールに組み込まれた、御堂への接待。
 思いだして、克哉は微かに体を震わせた。
 嫌な記憶を押しやるように、克哉は強く目を閉じた。
 そんなことで忘れられるわけではないけれど、意識を太一との会話に戻す。
 確かに、今は、時間など取れないけれど。
「ごめん。でも、今の仕事が落ち着いたら、ちゃんと聴きに行くよ。太一のギターと歌、オレに聞かせてくれよ。ずっと断ってばかりだけど、これでも楽しみにしてるんだよ」
「ホントに?」
 太一の疑うような眼差しに、克哉は苦笑をしながら、
「本当だよ」
 そう言った。
 その言葉に嘘はない。
 一度、太一の部屋で聞かせてもらったギターの旋律は、強く、克哉の印象に残っている。
 心に深く残る音だった。
 太一の明るい性格とは少しだけ印象が違って、音はとても切なくて、優しかった。
 ずっと、いつまでも聴いていたいと思えるような、そんな音だった。
「うん、じゃあ、待ってます。――ってか、克哉さん、今日、暇?」
「え? なんだよ、突然」
「うん。克哉さんが暇なら、これから俺の家に来ない? 一緒に朝ご飯食べて、適当に雑談したり、DVD観たりして時間潰して。で、近所迷惑にならない時間になったら、俺のギターを聴く。我ながら良いアイディアだと思うんすけど、どう?」
「……うん」
 太一の提案は、魅力的だった。
 これが普段だったら。……あんなことがなかったら、頷いていただろう。
 けれど、一週間前の記憶は、鮮明すぎて。
 太一の音は聴いてみたかった。でも、その音を聴いたあとに、果たして自分は指定された場所に足を向けられるだろうかと考えると、無理だと思った。
 きっと、体も足も竦んでしまって、動けなくなる。
 そんなことになったら。約束の場所に行かなかったら。
 プロトファイバーの売り上げ本数は、提示された追加本数まで引き上げられ……。
(八課の解散は目に見えてて……リストラ、されて……、みんなにも迷惑をかけることになる)
 克哉一人の問題ではなくなる。
 そんな危うい取引をしているのだということを、今さら実感した。
 克哉は吐息が震えそうになるのを堪えて、「ごめん」と言った。
「ごめん、太一。今日は……約束があって」
「あー、そうなんだ」
 がっくりと太一の肩が落ちた。
「うん……、会社関係の人との約束でさ。断るわけにはいかなくて」
 僅かに太一の顔が顰められたのは、――そんな気がしたのは、声が震えてしまったのかもしれない。
 太一に、気づかせてしまったのかもしれない。
 約束の裏側にある好くないものを。
 じっと克哉を見つめる眼差しに、耐えられなくなりそうになった。
 視線を逸らしてしまいたいと、克哉がそう思いかけたところで、太一が深き息を吐いた。
「仕事先の人との約束じゃ、仕方ないっすね。個人的にはそんな約束、放っておいて欲しいけど、克哉さんはそんないい加減なことできない人だし。あ〜ぁ。今回も諦めるしかないかぁ」
「ごめん」
 残念で仕方がないと全身で訴える太一にもう一度謝って、克哉はそっと目を伏せた。
 太一の言うとおりに、あんな約束など放っておけたらどんなにいいだろう。
 そうすることで、また、なにかが変わるのだろうか。
 あるいは、ズレてしまったなにかが元に戻るのだろうか……。
 そんなことを思っていると、
「克哉さん」
 太一の優しい声が聞こえた。
 目を開いて太一を見返すと、包み込むような眼差しが克哉を見つめていた。
「一緒に帰ろうよ」
「え?」
「どうせ分かれ道までは一緒なんすから。俺、克哉さんと話しながら帰りたいなー」
 ニッ、と、悪戯っ子のように心持ち口端を上げて、太一が笑った。
 無邪気なその顔につられて、克哉は笑った。
 ほっと肩の力が抜ける。
 そうだ。
 御堂との約束の時間まで、まだ十時間もある。
「そうだな。一緒に帰ろうか、太一。……どうせなら、ロイドに寄ってモーニングを食べて帰ろうか? 朝ごはん、食べていないだろう? それくらいは付き合うよ」
「本当!? ラッキー。……あ……」
 嬉しそうに顔をほころばせたものの、なにかに気づいて顔を強張らせた太一に、克哉は笑いかけた。
「奢るよ、それくらい。誘いを断ったお詫びに」
「やった!」
 全開の笑顔を浮かべて喜ぶ太一に、克哉はもう一度笑って、
「行こうか」
 穏やかな気持ちで笑うのは久しぶりだと思いながら、克哉は太一を促し、歩き出した。
 太一と他愛ない話をしている間、克哉は一度も御堂のこと、接待のことも思い出さなかった。