03
先週と同じ部屋の前で、克哉は緊張に表情を強張らせながら立ち竦んでいた。 落とした視線の先で、秒針が約束の時間に向かって進んでいた。 (あと、三十秒……) 重い気持ちで残り時間をカウントする。 あと二十秒だ。そう思いながら、もうどうしようもないのに、心のどこかでまだ悪い夢を見ているだけじゃないかと思いたがっている。 (覚悟を……) 覚悟を決めなくちゃいけない。 秒針が進むたびに、気持ちを固めていく。 余計な感情を捨てよう。 なにも考えなければいい。 なにをされても、言われても、心を動かさなければいいのだ。今までそうしてきたように。人形のように。 秒針が残り五秒を示すと同時に、克哉は顔を上げ、軽く握った拳でドアをノックした。 部屋中に、軽い音で響き渡るドアチャイムを押す気にはなれなかった。 ノックの残響が消える前になにげなく確認した秒針は、約束の時間を五秒過ぎているだけだった。 どうやらぴったりに来訪を告げたらしい。 そっと苦笑を零したところで、ドアノブの回る、かちゃり、という音が聞こえた。 反射的に体が竦む。 大きく開かれたドアの向こうに、御堂が意地悪く唇を歪め、まるで克哉を嘲笑するように立っていた。 「来たか。入れ」 命令しなれた声が克哉を促し、御堂はさっさと踵を返して部屋の中に戻っていく。 ゆっくりと閉まりかけるドアの隙間から、克哉は体を滑り込ませるように部屋に入った。 無意識に部屋の中に視線を走らせると、テーブルの上に仕事の書類と思しき数枚の紙と、ウィスキーの入ったグラスがあった。 (ロックかな……) ぼんやりとそれを見つめた後、克哉は御堂に視線を移した。 くつくつと喉を鳴らしながら、御堂が克哉の背後に回る。 訝しむ間もなく、布で眼が隠された。 克哉はかすかに息を飲んだ。 気づかれないよう、震える吐息を吐き出し、克哉はなんとか平静を保つ。 感情を、心を、表情を動かさないことに、意識を集中する。 御堂に着ているものすべてを脱がされても、なにをされても、心の中で人形になれ。人形になればいいと、呪文のように唱え続けた。 あられもない格好で椅子に固定された、四肢。 与えられる恥辱。 冷たく凍えるような刺激と、熱い指と。 想像もしていなかった場所を、いたぶるように弄られる。 御堂に嬲られるたびに、このまま心が本当に壊れてしまえば楽なのに。克哉がそう思ったときだった。 克哉の欲望が、生暖かな粘膜にすっぽりと覆われた。 御堂が克哉の欲望を躊躇いなく、自らの口腔内に銜えたのだと気づいた途端、克哉はひゅっ、と、息を飲んだ。 全身が、その行為を拒絶した。 体中の血液が一気に下がって、いいようのない恐怖が湧きあがる。 嫌だ、やめろ。触れるな! そう叫びたかったけれど、嫌悪感と拒絶感、なにより恐怖感が克哉を支配していて、声は喉に張り付いたように出なかった。 怯える克哉の感情を置き去りに、静かな部屋の中に、ぴちゃぴちゃと淫靡な水音が響く。 御堂が舌を使うたびに、克哉は呻きそうになる唇を噛みしめた。 恐怖と嫌悪感。それから拒絶感は強くなる一方だ。 どうして、なにも手放せないのだろう。 泣き出したいような、それでいて虚ろな気持ちで克哉は思う。 心が壊れてしまえばいい。そう思う一方で、それは御堂に与えられる恥辱に負けてしまうような気がして、正気を手放せない。 いっそこのまま御堂が言うように、すべてを快楽に委ねてしまおうかとも思うけれど、やはり、それもできなかった。 陵辱の限りを与えられながら、なんとか平静を保とうと、克哉が必死に気持ちを落ち着けていると、御堂の嘲るような声が届いた。 「――この体、私以外にも好きにさせたことがあるんだろう? いったい、何人の男に好きにさせてきたんだ?」 「え……? な…、に?」 言われた言葉が理解できず、克哉は呆然と問い返す。 今、御堂はなんと言ったのだ? この体が、なんだと? 何人の男に? 誰が、なんだって? 言われた言葉を理解するのに、ずいぶんと時間を必要とした。 脳に浸透した言葉を理解した瞬間、克哉はかっとなり、全身が怒りと羞恥で赤く火照るのを感じた。 「なっ!? こんなこと……っ、されたことも、させたこともっ!」 「本当か? そのわりにはずいぶん、反応がいい」 くつ、と、嘲笑する音が空気を震わせ、克哉の耳に届いた。 克哉の言葉を端から疑っている御堂の言葉に、克哉は怒りを感じた。 言葉にできないほどの怒りを感じながら、しかし、御堂の言葉になにかが反応した。 冷たい春のイメージ。 心ごと凍るような――。 それから……。 しかし、克哉の中に生まれたイメージは、御堂の声で霧散した。 「気持ち良さそうに反応をしているじゃないか、キミのここは。とても初めてだとは思えないな」 言いながら嬲るように弱いところを刺激され、ぴくん、と、克哉の固定された体が跳ねる。 反射的な反応。 それくらい御堂だってわかっているだろうに、克哉の羞恥を煽るように「いやらしいな」と、耳元でねっとりと囁かれた。 「期待しているのか?」 「……誰が……っ!」 解放を願ってはいても、強要されている悦楽に堕ちることを、いったい誰が望んでいるというのか。 どこまで克哉を貶めれば、御堂の気は晴れるのだろう。 もしかしたら、克哉自身が壊れてしまうまで――たとえ壊れてしまっても、御堂の気は晴れないのかもしれない。 眼鏡をかけた克哉の言葉は、それほどまでに御堂のプライドを刺激してしまったのだろう。 永遠に先の見えない暗い場所に引きずり込まれた錯覚を覚えて、克哉は軽く唇を噛んだ。 御堂の舌が、ねっとりと這わされる。 その刺激に、欲望の熱は高まる一方だ。 思考が、少しずつとろけはじめる。 解放を求めて硬くそそりたった欲望に、低く御堂が笑った気配がする。 「解放したいだろう?」 問われて、けれど、克哉は頷かなかった。 他人に一方的に高められた欲望を、目の前で吐き出すなど。 これ以上、惨めな気持ちになどなりたくない。 けれど……。 与えられる刺激は、嫌でも克哉の思考を蝕んで、快楽に引きずり込んでいく。 「嫌だ。違う」 掠れた声音で反発する心のままに返せば、鼻白んだ気配が届いた。 「強情だな」 嘲笑の篭ったその言葉の裏に、御堂の苛立ちを感じる。 「自分の目で確かめてみればいい。浅ましい自分の欲望を」 そう言った御堂の言葉が終わるか終わらないかのうちに、目隠しが取られ、瞼の裏に朱金色の光を感じた。 まだ完全に陽は落ちきっていないのだ。 克哉がこのホテルに着いてから、たいして時間は過ぎていないのだと、まともに働かない意識の片隅で思った。 高められた欲望が、解放を訴えている。 だんだんと頭に霞がかかったように、思考が散漫になってくる。 解放を願う気持ちが、一層、高まる。 けれど、その一方で、やはり御堂の目の前で解放するのは嫌だと思う。 「見ろ」 と、命じなれた声に促され、逆らうこともなく、――逆らうことすら思いつかず、克哉は素直に視線を下に向けた。 亡羊としていた瞳に自分の欲望を映し、克哉は息を飲んだ。 ぎゅっと目を瞑り、そそりたった欲望を視界から遮る。けれど、一度網膜に焼きついた事実は、消えない。なかったことにもできない。 「……イきたいのだろう?」 御堂の声が、ねっとりと響いた。 「イかせて下さいと言え」 「……いや、だ」 克哉は拒絶の言葉を吐き出しながら、力なく首を振った。 とたんに、御堂の苛立つ気配が強くなる。と同時に、克哉に触れていた温もりが、遠ざかった。 そっと安堵の息をつく。 やっと、この苦痛と陵辱から、解放されるのかもしれない。 そう思いながらそっと目を開け、視線で御堂の姿を追いかけた克哉は、頬を引き攣らせ、目を見開いた。 「……なにを……」 絞り出すように吐き出した問いかけの声が、誤魔化しようもなく震えた。 「私の前でイきたくないのだろう?」 にやりと吊り上げられた唇の酷薄さに、克哉は体を震わせた。 克哉をいたぶるように、御堂はゆっくりとした足取りで克哉に近づいてくる。 そして――――。 |