04

(雪? ……違う。これは……)
 桜だ。
 淡い。柔らかなパステルブルーの空の下で、白に見紛うほどの淡さで、微風に散らされた桜。
 その花弁が、降りそそいでいる。
 薄茶色の土の、上に。
 ただ立ち尽くしている、克哉の上に。
 音もなく、はらはらと、ただ降り注いでいる。
(頭が痛い……)
 鈍い痛みを覚えて、克哉は顔を顰めた。
 ずきりと。鈍い痛みが頭の奥にある。
(嫌だな……)
 ふと、そう思った。
 それから、なにに対して嫌だと思ったのか、首を傾げる。
 感情が鈍くなっている。
 何もかもを放棄したように。
 ぼんやりと鏡を覗き込んだまま、洗面台の上の眼鏡を手で掴んだ。
 そこで、やっと、意識がはっきりとする。
 弾かれたように掴んだ眼鏡に視線を向ける。
 右手の中に軽く握りこんだ、本当なら――目が悪いわけでもない克哉には必要のないものを。
 気味が悪いと思う。
 けれど、手の中の無機物に助けられたのも本当だ。
 これは必要なものだ。
 いや。違う。不必要なものだ。
 克哉は逡巡する。
 今請け負っている仕事を成功させるには、この眼鏡をかけるべきだと思う。
 そう思いながら、やはり気味の悪さが拭い去れない。
 ただの眼鏡に恐怖すら感じてしまう。
 得体の知れない黒衣の人物は、この眼鏡をラッキーアイテムだと言ったけれど……。その言葉を克哉は鵜呑みにはできない。
 できなくなっている。
 これが本当にラッキーアイテムだというのなら、この眼鏡をかけて交渉を成功させたのに、どうして自分は御堂にあんな恥辱を与えられているのだろう?
 純粋に疑問に思う。
 出しっぱなしだった水を止めて、克哉は鏡の中の自分の顔を覗き込んだ。
 隠しようもなく顔色が悪かった。
 また少し、頬の線がシャープになっている気がする。
(また体重が落ちたのかもな……)
 かも、ではなく、確実に体重は減っているだろう。
 下がり続ける数字を見るのが嫌で、最近、体重計には乗っていない。けれど、確実に体重が減っているということはわかる。
 食が細くなった。ズボンが緩くなった。ベルトを止める位置が、また、変わった。
 目に見えて判る自分に起きている変化に気づかないほど、まだ、壊れてはいない。壊れられない。
 それが幸いであるのか不幸であるのか、克哉には判断のしようがないのだけれど。
 暗い気持ちで溜息をつき、克哉は目を逸らすように踵を返した。
 そろそろ仕事に出る時間だ。
(用意を……)
 出社の準備をしなくては。
 クローゼットを開け、克哉はスーツを取りだす。
 のろのろと機械的に手を動かし、服を着る。
 緩慢に。それでもいつもと同じ動作で服を着終えると、鞄に手を伸ばした。
 必要な書類は、すべて鞄の中だ。
 朝食を食べなければ。
 頭ではわかっているけれど、体は受け付けないだろう。
 嘔吐感に顔を歪め、朝食を諦める。
 なんとなく、昨日の朝太一と食べた朝食を思い出した。
(楽しかったな)
 誰かと一緒に朝食を食べたのは、何年ぶりだったろう。
(もう少し早く起きられていたら、ロイドでモーニングを食べられたかもな)
 そう思いながら、克哉は鞄を手に取って、玄関へ向かった。
 今日はMGNでミーティングだ。
 御堂と顔を合わせなければいけないのかと思うと、気が重かった。
 けれど、休むわけにはいかない。
 御堂に逃げたと思われたくなかった。
 なぜそんなことを思うのか、理由は思いつかなかったけれど。