09

 はらはらと、桜の花びらは舞った。
 しとしとと、雨のしずくは落ちた。
 手を、伸ばしたかった。
 追いかけたかった。
 手を、振り払いたかった。
 逃げたかった。
 思いはいつでも相反している。
 けれど、その相反した感情を抱え込んでいたときのことを、――誰に対してだとか、どんな状況だったとか、覚えていて当然だろうと思われるいろいろなことを、不思議なことに、克哉はなにひとつ覚えていなかった。
 思い出せもしない。
 遠く、はるか。まるで夢の中の出来事だったかのように、すべては不鮮明だ。
 舞っている桜の花びらの中で立ち尽くしたことも。
(追いかけたかったんだ……)
 静かに降る雨の音をずっと聴いていたことも。
(逃げ出したかった……)
 夢なんかではなく現実にあったことだと、心のどこかで解っていても、すべては不鮮明。まるですべて夢だというように。
 ただひとつ鮮明なことは、いつだって、どんな時だって、克哉の感情だけが置き去りだった、ということだけだ。
 そして、どちらのときも。
(オレは……泣きたかった……んだ)