10

 眠りから、不意に意識が浮上した。
 最近の睡眠事情からは、ずいぶんと珍しいことだと思いながら、御堂はゆっくりと瞼を押し上げた。
 開いた瞳には、闇だけしか見えない。
 まだ夜明けまで時間があるようだと、カーテンの引かれた窓のほうへと目を動かしながら思い、ならばもう少し休めるなと、瞼を下ろそうとしたときだった。
 微かな呻き声が、すぐ隣から聞こえた。
「佐伯?」
 ずいぶんと無理をさせてしまった自覚はある。
 苛立ちのすべてを佐伯に向けた。
 いつも以上に強引に、抱いた。
 子供じみた自分の矜持を守るためとはいえ、多少の罪悪感がないわけではない。
 ――それを佐伯自身に悟られるわけにはいかないが。
 上半身を起き上がらせ、御堂は小さく微かな呻き声を漏らしている佐伯の顔を覗き込んだ。
 暗がりで顔色は判らない。
 苦しそうな呻き声だけでは、様子はわからなかった。
 もしかして、体調を崩したのだろうか。熱でも……?
 照明を。そう思いベッドを降りようとしたが、御堂はその思いつきをすぐに捨てた。
 照明をつけて佐伯が起きてしまうことは、避けたかった。
 心配をしたのだと、知られたくなかった。
 眠れなかっただけだとか、目が覚めただけだとか、そんな適当な言い訳など、案外、佐伯には通用しないような気がしたのだ。
 聡明なくせに、それを隠して俯いてばかりいるあの瞳には、隠し通せるものなどないような気がしていた。
 苦しそうな寝息を零している佐伯の前髪を、御堂は指先に絡めてみた。
 さらりとした髪の感触が、御堂の指をすり抜ける。
 佐伯克哉と言う人間は、僅かとはいえ御堂の矜持に傷をつけた、憎悪の対象。捩じ伏せ、屈服させ、いたぶるため、ただそれだけの存在だったはずなのに、どうしてか、御堂の気を惹く存在だった。
 的確に、正確に。そして真摯に仕事に取り組んでいるくせに、卑屈に自身を評価している態度に、正直、苛立っている。過小評価しすぎではないかと、わだかまりを無視して言いたくなったことは、一度や二度のことではなかった。
 庇護欲に似ている感情で、思わず手を差し伸べたくなる。
 佐伯の傍らにいる、五月蝿いあの男のように。
 忌々しい存在を思い出し、御堂は小さく舌打つ。
 それから、ふと、いつからそう思うようになったのだったろうかと、首を傾げた。
 いつの間に、佐伯に対して矛盾を抱えるようになったのだろう。
 傷つけてやりたいと思っている。
 佐伯の潔癖な矜持を、深く、立ち直れないほどに。
 けれど、それだけではない感情が――傷つけたいと思う以外の感情が、御堂の中で確かに芽を出している。
 どうしてそんな感情が生まれているのか、それがどんな意味を持つのか、御堂には解らない。
 解っているのは、ただ、切欠が何であれ、佐伯克哉に異常なほど執着をしているということだ。
 この自分が。
「まったく、本当に腹立たしい男だな」
 暗闇の中で、御堂はぼそりと呟いた。
 闇に慣れた目に、佐伯の表情が映る。
 夜の闇の深さの中でも、佐伯の顔色の悪さがわかった。
(少し青白いな……)
 御堂は無意識に眉根を寄せた。
 どうして逃げ出さないのだろうと思う。
 保留されたままの、御堂が引き上げた売上目標数字。その数字に、もうすぐ手が届く。
 暫定的に定めた目標期間を待つことなく、売り上げは達成され、目標値を上回る。
 たぶん佐伯はそれを知っている。気づいている。
 それなのに何も言わない。
 言っても無駄だと端から諦めているのか、異常な関係に臆して言い出せずにいるのか。
 もっとも、もし佐伯がなにかを言ってきたとしても、御堂はこの関係を終わらせるつもりはなかった。
 捕まえた獲物をみすみす手放す気はない。
 なぜそんなことを思うのか、御堂自身にも理由は判らないけれど。
 額に張り付いている佐伯の髪を払ってやろうと、御堂がそんな気紛れを起こしたとき、
「……めん」
 微かな声が闇夜に溶けた。
 御堂は動かしかけた手を止めて、佐伯の寝顔をじっと見つめる。
「……オレは傍にいるからさ、だから、そんな苦しそう顔しないでくれよ、――」
 か細く、音になりきらない音が紡いだ名前に、御堂は軽く目を見開いた。
 陵辱している最中に佐伯が呼んだ名前と同じだった。
「恋人の名前……というわけではなさそうだな」
 セックスの最中に他の男の名前を呼ぶなど、マナー違反どころかずいぶんな屈辱だと激昂したが、いまの寝言を聞く限り、佐伯が今付き合っている相手の名前ではなさそうだ。
 恋人よりも、もっと身近な友人、というところか。
 その友人との間に、許しを乞うようななにか――傍にずっといると、そう言い切るほどのなにかがあったらしい。
 佐伯が「傍にいる」と言うほど、その友人とは親密で、佐伯にとってはとても大切な相手だということだろう。
 もしかしたら、まだ想いを伝え合っていないだけで、恋人に近い関係の相手なのだろうか。
 そう考えを巡らせた御堂の胸のうちに、わずかな苛立ちとも焦燥ともつかないものが湧き上がった。
 無意識に、手を握りこむ。
 だが、そんな自分の動作に気づいて、御堂は握り締めていた手を解いた。
 湧き上がる不愉快で不可解な感情を、溜息で閉じ込め、御堂は佐伯の寝顔を凝視する。
 小さく、か細く、佐伯は同じ言葉を――謝罪と傍にいるという言葉を繰り返していた。
 が、不意に、佐伯の言葉が変化した。
 苦しそうに、悲しそうに、悲鳴を帯びた言葉を紡ぎだしたのだ。
「やだ、……やめっ……! 嫌だっ! 離せ、離してくれ……!!」
 悲痛なその声は、御堂との行為の間に、何度も紡がれたものと同じだった。
 否、御堂を拒絶したときよりも、もっと切羽詰っている気がした。
 御堂は眉を顰める。
 もしかして。
 恐慌に近くなりつつある佐伯の悲鳴を聞きながら、御堂はやはりと、思った。
 やはり、初めてではなかった、のだ。
 驚くほど感度がいいはずだ。
 佐伯は否定をしていたけれど、初めて男を受け入れたとは思えないほど、快楽に馴染むのが早いと御堂は思っていた。天性のものだけではなかったのだ。
 だが、佐伯自身は、はじめてではないことを――自分が男を受け入れたことがあることを、まったく憶えていない。
 それの意味するところは、つまり、傍にいると告げた相手に、佐伯は陵辱を受けた、ということだ。その事実を記憶から消してしまうほど、傷ついていて。傷つけられた。
 忘れていた傷を、御堂との行為で思い出しはじめた、と、そういうことなのだろう。
 そこに思考が至った御堂の眉間の皺が、深くなる。
 不愉快さが増した。
 佐伯の声は嗚咽を含み始めている。
 壊れたように「嫌だ、嫌だ」とくり返す佐伯の肩に、御堂は手を伸ばした。
「佐伯」
 強く名前を呼び、少し細くなったらしい肩を揺さぶった。
 だが、佐伯は目を覚ます様子がない。
「佐伯!」
 奇妙な焦りを感じながら、御堂はもう一度、先ほどより声を出して、名前を呼んだ。
 その声に反応したのか、肩を揺さぶる手に反応したのか、御堂には判断がつかなかったけれど、佐伯の声がぴたりと止まった。
「佐伯」
 と、三度目の呼びかけに、手のひらの中の肩がぴくりと揺れる。
 それから、不思議そうな、まだ半分眠っているかのような声が、
「誰……」
 と、問いかけてきた。
 薄闇の中で、佐伯がゆっくりと目を瞬かせるのが判った。
 無防備なその仕草に、御堂は苦笑するように唇を歪める。
 半分寝ぼけているとはいえ、御堂相手にこんな簡単に隙を見せるとは思わなかったのだ。
「眠れ」
「……え?」
「夢も見ないほど深く眠ってしまえ。――どうしても夢を見てしまうというなら……」
 続きかけた言葉を、御堂は止める。
 うっかりばかげたことを口にしそうになった。
「私の夢でもみておけばいい」などと、どうしてそんなことを口にしようとしたのか。
 まったく、なにを言おうとしているのだ、と、御堂は自分自身を嘲笑しながら、
「自分が見たいと思っている夢でも見ておけ」
 夢現の中にいるらしい佐伯に、ことさらぶっきらぼうな言葉を投げかけた。
「……はい」
 御堂の言葉に、従順に、素直に佐伯はか細い声で頷き、眠りに引き込まれるように瞼を下ろし、再び眠りについた。
 穏やかな寝息が届き、御堂は深く息をつく。
 持て余すしかない感情を抱え込んだまま、御堂はベッドに身を横たえた。
 眠れる気はしなかったが、このまま起きていても訳のわからない感情が増すだけだと思い、無理矢理、目を閉じた。
 傍らの温もりが、ひどく御堂の胸をざわつかせた。