11

 ああ、まだ――。まだ桜と雨が降り注いでいる。
 いつになれば。あとどれだけの時間が過ぎれば、それらは降り止むだろう。
 悲しい気持ちになりながら、克哉は自分の上に降り注ぐそれを見つめていた。
 泣きたい気持ちは依然、克哉の中にある。けれど、泣けないのだ。
 どうして自分の中にあるのかわからない、強い贖罪の念。それが泣くことを許してくれない。
 自分の感情なのに、自分でコントロールできないもどかしさに軽く唇を噛み締め、はらり、はらり、しとしとと、同時に降り注ぐそれらを見つめていた。
 悲しい気持ちは消えない。
 どうすればこの気持ちは消えるだろう。
 そう思いながら克哉が立ち尽くしていると、不意に、誰かの掌に目を隠された。
「え……、なにっ!?」
 いきなり視界を塞がれて、克哉は混乱した。
 夢の中だと判っていても、背後から視界を奪われた恐怖は現実に感じる恐怖と大差ないんだと、どこか冷静な思考の部分で思いながら、目を覆う掌に指をかけようとしたところで、
「大人しくしていろ」
 どこかで聞いたことのある、低い声にそう言われた。
 それから克哉の動きを封じるように、もう片方の腕が克哉の体を背後から抱きしめる。
 とくん、とくん、と、規則正しい心臓の動きが背中から伝わって、夢の中だというのに、そのリアルさに安心した。
 現金だと自分でも思うけれど、安心した瞬間に、体から力が抜ける。
 そして、いまさらながらに、声の主が誰だか解って、さらに力が抜けた。
 まさか、そんな……。どうして。オレがいるのに?
 そう思ったが、すぐに、ああ、これは夢なんだから、オレと<俺>が同時に存在していてもおかしくないのだと思い直す。
「単純なやつだな」
 まるで克哉の思考を読んだように、眼鏡をかけた<克哉>が言った。
 くくく、と低く笑う声に顔を顰めつつ、克哉は背後の人間に体を預けた。
 どうしてそんな行動に出たのかは、克哉にもわからない。
 ただ、ひどく、温もりを欲していた。
「<俺>……? どうして?」
 問いかけると、どこか疲れたような深い溜息が耳朶を打った。
「見なくていい……」
「え?」
「思い出さなくていい」
「なんだよ?」
 いきなり、なんだ?
 <俺>の言葉に、克哉は眉根を寄せた。
 突然克哉の前に姿を現したと思ったら、いきなりなにを言い出すのだ。
「見なくていいって、思い出さなくていいって、なんだよ、それ?」
 なんのことだと首を傾げながら、克哉は背後の<俺>を振り返ろうとした。
 だが、その動きは封じ込められる。
 強く、強く、――まるで守るように、縋るように、抱きしめる力が強められた。
「<俺>?」
 こんな仕草は珍しい。珍しいどころか初めてではないだろうか。
 いつだって眼鏡をかけた<克哉>は自信満々で、不遜で、高飛車で、失敗に対する恐れを持っていない。
 克哉と正反対の<克哉>は、どんなときだって不安に思うことなんてないだろうと言う態度なのに、今の<克哉>はどこか不安定に思える。
 不思議に思い、そして訝りながら、克哉は窺うように声をだしたけれど、返る声はない。
 返事の代わりに、いきなり体を反転させられて、強く抱きしめられると同時に、深く口腔内を貪られた。
「んんぅ……!?」
 抗議をするために腕を上げようとしても、腕ごと抱きしめられていて、それも叶わない。
 まるですべてを奪うようなく口付けに、意識すら浚われそうになりながら、克哉の冷静な部分が初めてだな、と思った。
 御堂以外の人間と口付けを交わすのは、初めてだ。
 そう思った瞬間、克哉の中で拒絶感が増した。
 ぐいっと<克哉>の胸を押し返し、抱きしめられた腕の中から抜け出す。
 克哉が見つめたレンズ越しの瞳が、僅かに細められた。
 取り返しのつかない失敗をしてしまったように零される、舌打ち。
 苛立ちを隠さない相手に、なんだよ、と克哉が問いかけようとしたときだった。

「お前は誰の気持ちも解らないんだよ!」

 叩きつけるような、悲鳴にも似た大きな声が、聞こえた。
「え……?」
 克哉の耳に届いた言葉は、心の琴線に触れた。
 胸の奥を、不穏にざわめかせる言葉だ。
 気分が悪くなりそうなほど、揺さぶられる。
 ひどく嫌な言葉を聞いた気持ちになりながら、それでも克哉は声がした方へと振り返ろうとした。
 視界の端で、克哉の動きを止めようとする腕が見えたけれど、その腕が克哉を再び捕まえるより早く、克哉は振り返った。
 隠されることのない大きな舌打ちが聞こえたけれど、それも無視した。
 桜の木の下。
 はらはらと微風に舞う桜の花びらのなかで、少年がふたり立っていた。
(オレと……誰だろう?)
 同級生、だろうか。
 ふたりとも同じ筒を手に持っているということは、あれは、卒業証書だろうか。
 克哉は自分が着ているブレザーに見覚えがあった。
 確か小学校の卒業式にと、両親が用意してくれたものだ。
 そのブレザーを着ているのなら、間違いない。これは卒業式の終わった後、ということだろう。
 そう思いながら、だけど、と、克哉は首を傾げる。
 卒業式の後にあんなやり取りはあっただろうか?
 わからないというよりは、覚えていない。
 そもそも、克哉に言葉を投げつけている少年は、いったい誰だろう?
 彼にも覚えがない。
 そう思った克哉は、はっとする。
 確かに、こんな風景に覚えはない。けれど、あの少年を、克哉はよく知っていた。
 何度も見た覚えのある顔だった。
「夢の中の……」
 桜の舞う中で、克哉を詰っていた少年だ。
 雨の降る日に、克哉を組み敷いた少年だ。
 ひどく泣きそうに。
 克哉を傷つけた本人のくせに、まるで自分こそが一番傷ついているのだというように、いつだって顔を歪ませていた……。
「――」
 名前を呼ぼうとして、けれど、呼ぶべき名前を克哉は思い出せず、声は喉に張り付いたように出てこない。
 走り去っていく少年の背中を、克哉は、子供の頃の自分と同じように見つめる。
 苦い気持ちでじっと見つめていると、場面が変化した。
 桜の花のかわりに、雨が降っていた。
 薄暗い雲が空を覆っていて、その雲から零れ落ちる水滴が世界を濡らしている。
 雨で張り付いた布地は、まだ幼さの抜けない克哉の肌の色を透かしていた。
 背後の少年が動くたびに、克哉は掠れた悲鳴を上げ、喉を仰け反らせ、背中を撓らせていた。
 傍観者として目の前の光景を見つめている克哉は、まとわりつく布地の感触を、気持ちが悪いと思ったことをふと思い出す。
 覚えていないはずなのに。
 すべては夢の中の出来事だと思っているはずなのに、どうしてだろう、克哉の意識と皮膚が、細胞が、すべて現実のものだったと教えるようにざわめいている。
 今目の前で起きている出来事は、本当は、現実にあったことなのだろうか。
 克哉が夢だと思い込んでいるだけ。覚えていないだけ。思い出せないだけ。
 それが真実なのだろうか。
 戒められた手首が、うっすらと赤く色づいている。
 拒絶と喘ぎを繰り返す克哉の声は、艶やかに掠れていて。
 ああ、確かに、オレは淫乱なのかもしれない。
 いつだったか御堂に言われた言葉を思い出し、他人事のように克哉は思う。
 あの少年に組み敷かれている姿は、御堂に組み敷かれている自分と同じだ。
 言葉で拒絶を繰り返しながら、けれど体は与えられる快楽を貪欲に求めて、貪って、悦んでいるように見える。
 感じていないなら。
 悦んでいないなら。
 甘く掠れた声で喘ぐはずがないのだ。
 求めるように腰が揺れるはずもない。
 なんて浅ましい。
 自分自身に嫌悪感を抱いていると、不意に視界が閉ざされた。
 克哉の視界を遮ったのは<克哉>の掌だ。
 少し乾いた感触。じんわりと伝わってくる体温に、息をついた。
「見なくていいと言っただろう」
 どこか疲れた声音でそう言った<克哉>に、克哉は頷こうとした。けれど、首を縦に振ることはできず、項垂れる。
「なぁ、あれは――本当にあったことなのか? それともオレが見るただの夢なのか? お前ならわかるだろう? 憶えているんだろう? 教えてくれよ……」
 克哉の願望なのか、それとも実際に克哉の身に起こったことなのか。
 知りたいと思いながら、克哉はそう問いかけたが、
「さぁな」
 返された言葉は素っ気無く、どちらともとれる言葉だった。
 克哉は唇を噛み締める。
 予想通りの答えだと思いながら、それでもはぐらかされた事実に苛立ちが沸き起こる。
 苛立ちながら、ふと、気づいた。
 これは夢じゃなく、本当にあったことじゃないだろうか、と。だから曖昧な返事を返すのではないだろうか、<俺>は。
 克哉は心持ち顔を上げた。
 目を覆われたままの姿勢で、克哉は問いかけを口にする。
「あれは現実にオレに起こったことなんだな」
 確信を込めて言った言葉に、けれど、<克哉>はどんな反応も返さない。
 尋問誘導なんて克哉にはできない。だから、ストレートに問いかけた。
 確信を込めた問いかけは、案外<克哉>の動揺を誘えるかもしれないと思ったからだが、克哉の背後に居る優秀なもう一人の自分は、動揺どころかわずかな呼吸の乱れすら見せなかった。
 平静な声で、ただひとこと、
「さぁな」
 と、先ほどと同じ答えを返しただけだ。
 けれどその答えこそが、肯定の答えだと克哉は確信する。
 ゆっくりと目を閉じ、深く、息を吸い込む。
 思い出そうとしてみた。いま、この目で見たすべてのできごとを。
 けれど、思い出せることはない。
 克哉の中に断片として残っているのは、舞い散る桜と降り続ける雨だけだ。
 それから、名前を呼ぶこともできない少年の姿と、克哉自身。
 なにもかもが曖昧で、全部夢だったのだと言い切られたら、きっと「ああ、夢をみていた」と納得してしまえるほど、信じてしまうほど、曖昧なすべて。
 確かな過去として、克哉の中にはなにも残っていない。
 思い出すことはできないのだろう。断片があるだけ、いつか思い出す切欠にはなるかもしれないけれど。
「思い出さなくていい。思い出そうとしなくていい」
 目を閉じたままの克哉の耳朶にまた、深く、低い声が流れ込んできた。
 くり返される、呪文のような言葉。
 その声を聞きながら、克哉は溜息をつきたくなるような気分で「ああ」と思う。
 どれだけ切欠があろうと、やはり克哉自身はなにも思い出せない。
 背後に居る<克哉>がそれを望まない限り――否、許さない限りは、だろうか。
「ペルソナは所詮ペルソナ……か」
 克哉はいつだったかに言われた言葉を口にした。
 克哉にそれを言ったのは、眼鏡を押し付けるように渡してきた黒衣の男だ。
 克哉の存在を否定し、<克哉>の存在を求めていた声音。
 あの黒衣の男が言うように、望むように、消えてなくなりたいと、いつだって克哉は望んでいたけれど。
 でも、と、克哉の心の奥深くが、今はその思いを拒絶していることに、克哉は気づいた。
 もう消えてしまいたいと思う瞬間に、ふと脳裏によぎるその姿、言動。なにもかもが、克哉を縛りつけるように。束縛するように、ただひとり……。
 憎悪と、拒絶。屈辱からはじまったはずなのに。
 どうして、と、克哉は唇を噛み締める。
 どうして、オレはあの人を思い出すんだろう。消えてもいいと思う心の反対側で、消えたくはないと強く思う気持ちがあるのは、どうしてだろう。
 たったひとりに向かうこの気持ちの正体を、感情につける名前を、どう受け止めればいいだろう。
 <克哉>というもうひとりの存在と対極にあり、なにもかもに自信をもてない、いなくてもいいと思っている自分。
 あの黒衣の男が言うように、克哉の人格が、<克哉>が<克哉>としてこの世界に生きるための仮初めのパーツだというのなら、どうして克哉はこんなにも執着してしまうのだろう。
 願ってしまうのだろう。
 いままで心の中で抱え込んできた、消えたいという思いとまったく逆の感情を。
 たったひとりを思い出した、それだけで。
 克哉の存在意義が、たったひとりのあの男――御堂孝典のためにあるといいたくなるほどの衝動を、身のうちに抱え込んで。
 生きていきたいと。
「望むか?」
「え?」
 不意に問いかけられて、克哉は戸惑いの声を上げた。
 望む? なにをだ?
 怪訝に思う克哉の耳元で、<克哉>が囁くように問いかけた。
「欲しいと思っているんだろう?」
「なにを言っているんだよ、お前?」
「もっと貪欲になれ。自分の欲望に忠実になれば、お前はすべてを手に入れられる。――ペルソナなんかじゃない。お前はお前だ」
 望め。
 欲しがれ。
 選べ。
 掴み取れ。
 絶対的な命令を思わせるその口調は、完全に克哉を唆している。
 認めない、と。初めて邂逅を果たしたときに、克哉の生き方、人格、存在。そのすべてを否定していた<克哉>が、どんな心境の変化があったのか、克哉に世界の中に留まれと言っているのだ。
 留まるか、否か。その最終決断を下せ。選ばせてやる、と。
 これが最初で最後のチャンスだとでもいいたげに。
「今、選べ。そうすれば俺は消えてやる。二度と現れないと誓ってやるさ」
「消えるって……、現れないって……、なんだよ、急に」
 唐突な言葉に戸惑い、克哉は告げられた言葉をくり返す。
「どうして……」
「必要とされたいんだろう?」
「え?」
「求められたいんだろう? 自分が求めているのと同じくらい強い気持ちで、お前はあの男の傍にいたいと願っている。そうだろう?」
 心の奥深くを見透かすように言われた言葉に、克哉の鼓動がどきりと跳ねた。
 克哉はわずかに体を強張らせ、緊張に固まった体をぎこちなく動かしながら振り返ろうとしたが、その動きは<克哉>に阻まれ、かなわない。
 真意を知られたくないからか、表情を見られたくないのか。まるで背後から強く抱きしめるような形の、拘束。
 背中からダイレクトに伝わる鼓動は、克哉の鼓動と違って乱れもなく、規則正しい。
 いったい<克哉>は克哉になにを求めているのだろう。
 どれだけ近くにあろうとも、同じ人間なのだと言われようとも、<克哉>の真意もなにも、克哉には感じ取れない。知ることもできない。
 克哉は克哉でペルソナじゃない。欲しいものがあるなら掴み取ればいい。その欲望のままに。選ばせてやるからと、<克哉>はそう言うけれど、選ばせてやるという態度が、結局のところ、最終的な決定権は<克哉>にあるんじゃないかと、拗ねた子供のような気持ちになりながら、克哉は吐息をついた。
 ずっと消えたいと思っていた。
 その気持ちは今も確かに、克哉の中にある。あるけれど、<克哉>に指摘されたように、たった一人の男の傍にいたいという強い気持ちも同時に存在している。
 傍にいたい、必要とされたい、求めて欲しい。
 たった一人に向けられるその感情に名前を与えることは、ひどく容易く……、けれど苦しい。
「……どれだけ望んでも、願っても、でも……一方通行なんだ」
 克哉と同じ感情が、相手にもあるとは限らない。
 同じ感情を持ってもらうどころか、御堂が克哉に向ける感情は憎悪と嫌悪しかないだろう。
 そう思うと、克哉の胸の奥が酷く痛む。

「お前は誰の気持ちも解らないんだよ!」

 苦しそうな叫びが、また、耳朶に響いた。
 ゆっくりと克哉は項垂れる。
 心の中から冷えて、深く傷ついた。
 切欠も、理由も、なにがあったのかさえちゃんと思い出せないのに、それだけは確実に思い出せる。
 温度のない花弁。
 体温を奪った雨の雫の、冷たさ。
 その情景だけで、心が竦んだ。
 傍にいることをどれだけ望んでも、願っても、それは叶えられることはないと、克哉の心は求めることを諦める。
 ああ、きっと……。
 きっと、あの桜の木の下で、克哉に向かって「誰の気持ちも解らない」と叫んだ少年のときもそうだったのだろう。
 傍にいたいと願って、願って、きっと叶わなかった。
 叶わず、それどころか、――どういう経緯があってそうなったのか思い出せないけれど、陵辱という形で……。
 克哉はぶるりと身を震わせた。
 また同じ轍を踏むのだろうか。
 ずっと、この先も、克哉の気持ちも思いも置き去りにされたまま、御堂に陵辱され続けて……。そうしてまた深く傷ついて。もっと、もっと硬い殻の中に閉じこもって、今まで以上に目立たないように生きていくのだろうか。
 ああ、そんなこと、耐えられそうにない。生きることそのものが苦痛でしかない時間など、耐えられない。
 御堂に向かう気持ちを全部無視して、やはり消えてしまおうか。
 安易な回答を選んでいるという自覚は、あった。
 けれど、もうこれ以上苦しみたくない、これ以上は耐えたくない、耐えられない。傷つきたくないと、心が悲鳴を上げている。
 思い出せない過去の出来事に心の傷が広がって、傷つけられた自尊心の復讐のためだと陵辱を受け、――陵辱を与えている相手に心ごと支配されたいと願う。
 矛盾だらけの心は、いったいあとどれだけ、壊れることなく耐えることができるのだろう。
 ああ、けれど。
「オレは……」
 迷いながら、それでもすべてを捨てるために「もういいよ」とそう言おうとした時だった。
 薄暗い世界に、不意に、薄日が射した。
 ひどく温かくて、柔らかくて、優しいと感じられる光だった。
 この光はなんだろうと克哉が思っていると、
「ちっ」
 と、苛立たしげに<克哉>が背後で舌打ちを零す。
「<俺>?」
 突然の苛立ちに怪訝な声を上げ、克哉が問いかけるように呼びかけるも、返事はない。
 どうかしたのだろうか、と思いながら、克哉は不意に明るくなった世界に目を向けた。
 さっきまで降るように散っていた花びらも、暗い雫を落としていた雨も消えていた。
 この夢の世界からの覚醒の時間、だろうか。
 克哉がそう思うのと同時に、<克哉>の温もりが離れた。
 はっとした克哉が背後を振り向くと、苛立たしげな舌打ちなどなかったようなポーカーフェイスで、<克哉>が立っている。
「答えを聞かせてもらおうか」
「今……」
「今すぐに、だ。猶予はこれ以上与えてやらない。お前が存在するか、消えるか、二つに一つだ。簡単だろう?」
「簡単、だけど……」
 克哉は答えながら、やはり迷っている自分に気づく。
 消えたいと望んでいる。でも、やはり、消えたくないと……。たったひとりに向かう感情が生まれた故に、在りたいと望んでいる自分がいる。
 消えていなくなることに対して、迷ったり、躊躇ったり。以前の自分からは考えられない。
 克哉はそう思いながら、ふと<克哉>の顔を見つめた。
 銀色のフレーム。
 あの眼鏡ひとつで、これまでの生活を、気持ちまでもすべて変えられた。
 本当にラッキーアイテムかどうか、克哉にはいまだ判らないけれど。
 克哉を包み込むような光にも、目を向ける。
 優しい光だ。あの光の傍にいたいと、克哉は思う。
 なぜそんなことを思うのかは判らない。そもそも夢から覚める前兆の光、その傍にいたいと思う自分が可笑しかった。
 あの光になにか意味があるのだろうか。
 ふとそんな風に思った。
「さっさと答えろ」
 克哉が答えないまま光を見つめていると、尖った声が答えを促してきた。
 慌てて<克哉>に視線を戻す。
 仏頂面で克哉を見据えている<克哉>の瞳は、なぜか拗ねた子供のような色を湛えていて、なぜそんな目をしているのかと不思議に思いながら、「どうしたんだよ」と問いかけようと克哉が口を開きかけると、それを遮るようにまた<克哉>が、答えろ、と、返事を急かしてきた。
「なんだよ、もう」
 文句を言いながら、けれど、克哉はまだ答えを迷っていた。
 消えたいのか、消えたくないのか。
 自分でもよく判らない。
 どうしようか。どう答えようか。
 <克哉>は苛立っている様子で、眼鏡の奥の鋭い眼差しは、これ以上答えを待ってくれるような気配でもない。
 答えられないといった時点で、<克哉>に決められてしまいそうだ。
 珍しく与えられた選択の機会を失うのは、もったいない気がした。
「決められないか?」
 もう少し留まってみようか。
 きっと楽しいことばかりじゃなくて、いいことばかりじゃなくて、辛いことや苦痛に感じることのほうが多いだろうけれど、と、克哉がそんなことを思ったときだった。
 <克哉>がぽつりと問いかけてきたのは。
「え?」
「決められないか、と、そう訊いたんだ」
「……うん、まぁ、そんなすぐに決められることじゃない……かな」
「生き延びることに迷う。そんなのはお前だけだ」
 呆れたように断言されて、克哉は苦笑を零した。
「――もう少し簡単な問いかけをしてやろうか?」
「へ?」
「お前はあの光をどう思う?」
「光って、……あの光のことか?」
「そうだ。お前はあの光の傍にいたいと思うか?」
 問われて、克哉は視線を光に転じた。
 優しい光。温かい、あの光の傍に。
「……うん、オレはあの光の傍に行きたい。あの光の傍にいたい」
 あの光を見た瞬間に思ったことを口にした。
 <克哉>が「そうか」と溜息のように呟く。
 そして。
「――悪かったな」
 いきなり、謝られた。
「は? なに、どうしたんだよ!?」
 突然謝られ、驚いて、克哉は素っ頓狂な声を上げてしまう。
 その声に<克哉>が嫌そうに顔を歪めたけれど、そんなことには構っていられないほど、克哉は動揺してしまっていた。
 唯我独尊の男が、謝罪の言葉を口にしたのだ。今驚かなくて、いつ驚けばいいのだろう。こんな機会、きっと、二度とないに決まっている。
 動揺しつつもそんなことを心のうちで思っている克哉に、<克哉>が言った。
「お前があの光の傍を望むなら、不要なものだろう、あれは全部」
 全部、と告げられた言葉に首を傾げた克哉は、ふっと浮かんだものに「あ」と声を零した。
「お前には必要のない記憶だからな。俺ごと消してやる。大サービスだ。ありがたく受け取れ」
「全部って……、でも……いいのか?」
 克哉は戸惑う。
 思い出さなくていい。<克哉>は確かにそう言ったけれど、本当に思い出さなくていいのだろうか。克哉には本当に必要のないものなのだろうか?
 思い出したほうがいいんじゃないだろうか。欠片でもいいから、憶えていたほうがいいんじゃないだろうか。
「憶えていても、どうせお前は自分を嫌いになるだけだろう。――俺がそうだったように。そして、お前がさらに自分を嫌悪したように」
 <克哉>に指摘されて、克哉は唇を軽く噛んだ。
 その通りだ。
 克哉は組み敷かれ、快楽を受け入れ、悦びながら貪った自分を嫌悪していた。
 それから、あの冷たい花弁と雨。
 抵抗もせず、当然のように、自らの心を閉ざし、壊させるように、あの桜と雨が克哉を冷たい世界に引き摺って行く、イメージ。
 悪い意味で壊されていこうとしている自分に、喜びすら見出していた気がする。
 ほんの数十分ほど前のことだ。
 <克哉>の言ったことを、否定はできない。
「……そう…だよな」
 <克哉>の厚意に甘えるべきだ。そう思って、克哉は戸惑いの消えないまま頷いた。
 頷きながらも軽い自己嫌悪を覚える。
 オレは狡い人間だな、と、そう思っていると、<克哉>が呆れたように息を吐き、
「お人好し」
 と、<克哉>が言った。
 克哉には<克哉>の心のうちなどわからないのに、<克哉>には克哉の心のうちのことがわかってしまうのは、やっぱり狡い、と、思う。
「俺が消えてやると言っているんだ。俺の気が変わらないうちに、お前はさっさと目を覚まして、あいつの傍に行ってしまえ」
「あいつ……?」
「御堂だ」
「え……御堂……さん?」
 <克哉>がはっきりと言った名前に驚きながらも、克哉はわずかに動揺した。
 どうして、と、声になりきらない声で克哉が呟くと、<克哉>は呆れたように目を細め、小さく笑って言った。
「俺はお前のことなら解るんだ。まったく、なんだって御堂なのか不思議だが、お前は御堂の傍にいたいと願っている。求められたい、必要とされたいと、誰より強く思っているんだろう。――だったらその心のままに動けばいい。お前は俺なんだから、たいていのことはできる。叶えるだけの力量がある。お前さえお前を認めてしまえば、あとは簡単なことだ」
 ずっとくり返し告げられた言葉を、今、またくり返される。
 傲慢だと思った。
 我儘で、強引で、まるで自分の振る舞いだけが正しいと思っている、残酷な子供のような人間だと思っていた。
 相容れない。認められない。そう思っていた。――けれど。
「お前だって、十分、お人好しじゃないか」
「ふん。俺はお前と違ってお人好しなわけじゃない。優しいんだ」
「……知ってるよ」
 微笑みながら肯定すると、<克哉>は「ふん」と面白くなさそうにそっぽを向いた。
 きっと克哉が悪態混じりの反論をすると思っていたのだろう。けれど肯定されてしまったから、<克哉>の態度はいつも以上に素っ気無い。
 そんな素っ気無い<克哉>の横顔を見つめ、これはきっと照れているに違いないと思いながら、克哉はそっと目を伏せた。
 この傲慢で我儘なもうひとりの自分に、もう二度と会うことはないだろう。
 そう思うと、少しだけ淋しい気がした。
 あんなにもお互いの存在を否定し、拒絶しあっていたというのに、優しさひとつでそれまでのすべてをまるでなかったかのようにしてしまうなんて、なんて人間の心は単純なのだろう。
 身勝手で、単純で。
「<俺>、ありがとう」
 克哉は伏せた眼差しを開いて、<克哉>を見つめて言った。
「礼を言われるようなことじゃない」
「そうだろうけど……、いや、やっぱりお礼は言わなくちゃ。ありがとう。オレは……オレが生きて行くよ。お前ほど上手に立ち回れないだろうし、すぐには変われないだろうけど、精一杯、生きて行くよ。またその眼鏡を必要としなくてもいいように。お前に、恥じないように」
「ああ。つまらないミスや失敗をくり返さないよう、せいぜい頑張ってくれ。まあ、その心配は無用だとは思うがな」
「え? それはどういう意味だよ?」
「ほら、もう行けよ」
「え、――あ、ちょっと待っ……、いや、……うん。じゃあ、行くよ」
「ああ」
 またな、という言葉も、別れの言葉も口にできないまま、克哉の視界が揺らぎだす。と同時に、意識は急速に覚醒へ向かった。