12
そろそろ目を覚ます頃だろうかと思いながら、ベッドの中で寝息を立てている佐伯克哉の様子を見ようかと、身支度を整えた御堂が振り返った瞬間だった。 まるでその瞬間を待っていたかのように、ぱちりと、純粋そうな瞳が瞼を押し上げて開かれる。 「……っ!」 その不意打ちに、御堂は一瞬息を詰まらせた。 起きる頃だろうと様子を見たけれど、振り返った瞬間というタイミングの良さは、御堂の動揺を誘うには十分だった。 佐伯克哉という男は、つくづく御堂の予想を裏切る存在だ。 まるで硬直したように微動だにせず、じっと佐伯を見つめる御堂の視線の先で、寝起きの佐伯の唇が微かに動いて、小さく息をついた。 ぼんやりとした眼差しが周囲を見回すように動き、御堂を見つめる。 きょとんとした、と、二十代の男に使うには、いささか可愛すぎる形容詞を思い出しながら、御堂は佐伯の様子を見つめていた。 世の中の汚いことを、まるで何一つ知らないかのような、そんな純粋さを残したままの瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。 無防備なそんな仕草に、御堂は無意識に目を細め、口元を緩めさせていた。 御堂の視線の先で、何回目かの瞬きを繰り返した佐伯の唇が 小さく動く。 散々啼かせて、喘がせた喉から零れた声は、いっそ哀れなほど掠れて、音にもなっていなかった。 それでもその唇が「御堂……さん?」と動いた瞬間、御堂の中でなにかが大きく揺れた。 心ごと、揺さぶられた。 そんな感情が御堂の中に沸き起こり、御堂を戸惑わせる。 明確ではない何かが、確かに、御堂の中に生まれた。 御堂はそう感じながら、けれどもその生まれたものから目を逸らすように、意識しないよう振舞うように、サイドボードの上に置いておいたグラスを手に取った。 コップの中には半分ほどの水が注がれていて、それはもう必要もないのに、いまだに馬鹿正直に接待を続け、我を失うほど啼き続けて、啼かされ続けて、喉が切れそうなほど声を掠れさせている佐伯のために、御堂が用意したのだ。 御堂自身、どうして用意したのか解らないその水を口に含み、うっすらと開かれている佐伯の唇に、御堂は自分のそれを重ねた。 抵抗も拒絶もされることなく、御堂の舌は佐伯の口腔内に浸入する。 含んだ水をゆっくりと佐伯の口腔内に流し込み、佐伯の喉が水を飲み込んで上下するのを確認した後、御堂は佐伯の唇をあっさりと解放した。 そして、いまだ完全には覚醒していない佐伯の眼差しが、だが、確実な覚醒へと向かうのを、御堂はしばらく眺めていた。 焦点を結んでいなかった瞳に、はっきりと御堂の姿が映し出される。 徐々に御堂へと焦点を結んだ佐伯の瞳が、大げさなほどの驚きに見開かれるのを見つめながら、御堂は、「失礼なやつだ」と内心、毒づいた。 そんなに驚かれるようなことだろうか。 確かに罵られても仕方がない行為を強いていても、御堂に心がないわけではない。 啼かせた張本人がなにを言うのだと言われるだろうが、がさがさに掠れた喉は辛いだろうと、労わる気持ちくらいはある。 その労わるという気持ちが、なぜ今さら佐伯に対して沸き起こってくるのか、御堂には理解できないとしても。 「なんだ?」 睨み付けるように見つめ返し、なにか不満でもあるのかと低く問いかければ、佐伯はその声ではっと我に返ったように一度瞬きをして、「いえ……」とか細く消え入りそうな声で答えると、御堂から視線を外して瞼を伏せた。 御堂は切れ長の目をさらに細めて、不満げに眉間に皺を刻み、苛立たしく舌打ちを零す。 佐伯が怯えたように震えたことには、気づかなかった振りをした。 そんなことに構っていられないほど、御堂の機嫌が急降下をはじめたからだ。 今までになく、長く合わせられていた佐伯の視線が、あっさりとためらいもなく外されたことに、御堂は苛立った。 まるで御堂の視線から消えてしまいたいと望んででもいるように、佐伯の視線は伏せられる。 どうして目を逸らす。なぜ伏せてしまう!? 御堂は時折、そう問い質したくなる。 おどおどと、まるでなにもかもに怯えているその卑小さが、御堂の中の残酷な部分を刺激する。 そのくせ御堂が思わず呆気に取られたくなるほどの、毅い瞳を向けられる瞬間もある。……それは本当に僅か一瞬のことで、御堂自身、見間違いだっただろうかと思うくらいだが。 「佐伯」 「ぁ……、は、はいっ!?」 呼びかけると、変に上ずり、裏返った声が答えた。 それに僅かに目を眇めながら、 「起きて、シャワーを浴びて来い。そして、支度をするんだ。それとも君は、今日のミーティングをサボるつもりか?」 まさか逃げ出すつもりかと暗に含めて言うと、情事の色が濃く残っている上半身を、佐伯が起き上がらせた。 いつものようにわずかに逡巡して、佐伯はシーツを体に巻きつける。 御堂がすっかり知り尽くしている体を、しかもふたりの情事の跡が色濃く残る布で隠すことに、いったいどんな効果があるのかと、それはむしろ誘っていることになりはしないかと、一度本気で聞いてやりたい衝動に駆られながらも、御堂はその滑稽さを指摘することなく、「さっさとシャワーを浴びてきたまえ」と佐伯を急き立てた。 ベッドからそっと抜け出すように降り、裸足のままシャワールームへと消える佐伯の足取りは、多少ふらつきはするものの、最初の頃よりもずっと確りしてきているようだと御堂は思う。 それほどに、この接待の回数がこなされてきた。そして、佐伯が、無意識にしろ、意識的にしろ、自分の負担を軽減するために御堂に体を開いた。そういうことなのだろう。 シャワールームへと続くドアが閉じられる音に、御堂は我に返ったように視線を逸らした。 室内に向けた目は、自然と室内電話に向く。 サイドボードの上の電話の受話器に手をかけると、指は躊躇いなくフロントへ通じる番号をプッシュした。 ワンコールで繋がった受話器の向こうから、用件を尋ねる落ち着いた男性の声がする。 今回はどうしようかと思いながらも、御堂の唇は自然と、佐伯克哉が気に入ったと言っていたモーニングセットを注文していた。 子供のように無邪気に。御堂との間にある確執も接待もなかったように、御堂が勝手に頼んだ朝食を美味しいと言って微笑んだ佐伯の様子を思い出しながら、御堂は受話器を置いた。 今日はモーニングが届くまでに、佐伯がシャワー室から出てくるかもしれない。 それともほぼ同時だろうか。 朝食の注文もせずに、どうして佐伯の様子をじっと見ていたのだろうと、自身の行動を不思議に思いながら、御堂はソファに腰掛けた。 テーブルの上に置いた新聞を手に取り、ざっと目を通す。 特に興味を引くような記事はなさそうだ。 それでも朝食が届くまでの暇潰しにと、御堂が記事を目で追っていると、ドアチャイムの音が聞こえた。 朝食が届いたのだ。 思っていたより早く届いたなと思いながら、御堂は新聞を無造作に置いてソファから立ち上がり、ドアへと向かう。 ドアスコープで従業員かどうかの確認をしてからドアを開けると、「おはようございます」と爽やか過ぎるほどの爽やかさで、従業員がモーニングののったワゴンと一緒に、室内に入ってきた。 てきぱきと手際よく朝食のセッティングを終え、従業員は「どうぞごゆっくり」とにこやかな笑顔で言って、退室して行く。 従業員が静かに去ったドアが閉じるとほぼ同時に、シャワールームの扉が開き、佐伯克哉が部屋に戻ってきた。 ドアの音に目を向けた御堂と視線が合うと、居た堪れないのか、そっと視線が外される。 いつものことだ。 最初に会ったときからそうだった。 そう解っていても、御堂は苛立ちを押さえきれない。 過剰なほど、自分が佐伯の視線を意識していると御堂自身解っている。が、どうして気にしてしまうのか、その理由が判らない。 これが佐伯の同僚である本田や、上司である片桐だったならば、視線を逸らされたところで気にも留めない。それどころか、必要がなければ御堂自身、彼らと視線を合わせようとしないだろう。 それなのに、佐伯克哉だけはそうはできない。 些細な仕草すら、無視できないのだ。 それが余計に御堂を苛立たせた。 所在なさそうに立ちつくしている佐伯を、じっと見つめる。その視線を感じているからだろうか、佐伯の体が少しずつ強張りだす。 そうさせている本人の御堂自身が、哀れだと思うほどに。 御堂は小さく溜息を吐き出し、 「早く席に着きたまえ。せっかくの朝食が冷めてしまう。――キミはここのオムレツが好きなんだろう?」 そう言って御堂自身も席に着く。 ぽかん、と、御堂を見つめる佐伯の表情の無防備さに、御堂の表情が僅かに緩んだ。 |