15
微かに雨の匂いが混じりだしている、湿気を含んだ空気に、御堂は眉を顰めた。 深夜に差し掛かる時間の帰宅は、そろそろ十日を数えだしているだろうか。 やっと、だ。 車のドアを開けながら、御堂は深く息を吐いた。 久々に苛立ちのない、安堵の混じったそれに、御堂は微かに口元を歪めた。 すべてを閉ざされかけた道が、やっと、開いた。 半月近くも子供じみた意地に邪魔をされていた仕事は、週明けには通常通り再開される。いや、通常以上のサイクルで再開されるのだ。 今までにないヒット商品が、生み出される。 業界内はしばらく騒然となるだろう。 これまで、こんなに納得のいく成果を、満足感を、達成感を味わわせてくれた仕事はなかった。 週明け以降のことを考えると、御堂の口元は自然と緩んだ。 運転席に座り、ブレーキペダルに足を置きながら、キィを差し込む。 軽くキィを捻ると、微かなエンジン音が闇の中に響いた。 ライトを点灯し、御堂は静かに車を発進させる。 交通量の少なくなっている夜道を走りながら、御堂は、久しぶりに満喫できる休日をどう過ごそうかと考えた。 明日の夜は、長らく足を向けていなかったワインバーに行き、旧友たちと飲むのもいいかもしれない。いや、それともひとりでゆっくりと飲むほうが、休まるだろうか。 工場の出荷ミスから端を発したこれまでのできごとに、休日も返上して奔走していた御堂は、自分が精神的にも肉体的にもそれなりに疲れていることを自覚して、軽く息を吐いた。 やっと、少しだけ肩の荷が下りた。同時に、心の余裕を取り戻す。 プロトファイバーの増産用の生産ラインは、いろいろとあったが、今日、確約が取れ、確実に抑えることができた。 あとはこれまで契約してきたショップと、営業担当たちの連携がものを言う。 前科のあるこちらの出荷と入荷ミス。それの再発防止と、営業側とショップ側がチャンスロスなどというふざけたミスをおかさないよう、担当の八課には強く注意を促さねばならないだろう。本多あたりにはかなり煩がられるだろうが。 (いや、彼らなら大丈夫だろう……) 本多は確かに御堂に反発するが、新規契約を結ぶ確率も、元々の契約先との繋がりも強固で、確実だ。発注に関しても特に指摘しなければいけないところはない。 落ちこぼれと悪名高かった八課の中で、過去、唯一、まともな営業成績をあげていたのは伊達ではなかったらしい。 問題らしい問題といえば、御堂と相容れない性格をしている。とにかく気が合わない。それだけだ。 だが、所詮彼とは仕事上だけの繋がりだ。気にするほどのことではない。むしろ気にしなければいけないのは……。 ハンドルを握る御堂の手に、微かに力が入った。 (佐伯克哉) 脳裏に、いつも目を伏せている姿を思い浮かべた。 力なく目を伏せて、ひっそりと佇んでいる姿を。 意識して見ていないと、彼は、わずかな隙をついて消えてしまいそうな印象がある。 佐伯克哉という存在は、些細な仕草でさえ、御堂の心を掻き乱す。苛立ちを喚起する。だから、御堂は彼を無視することができない。 馬鹿げている。自分でもどうかしているという自覚はある。それでも御堂は捕らわれたように、佐伯克哉に固執してしまっていた。 ぽつん、と、一粒の雫がフロントガラスを叩いた。 「降りだしたか……」 御堂は軽く舌打ちを零した。 久しぶりの休日は、天気に恵まれないらしい。 なんとなく旧友たちと連絡を取る気が失せて、御堂は仕方がない、ひとりでゆっくり過ごすか、と息をつく。 雨が嫌いなわけではないけれど、天気の悪い中、わざわざ出かけるのは面倒だと思った。 そういえば休日をひとりで過ごすのは、ずいぶんと久しぶりだと思ったところで、御堂は、一瞬忘れていた存在を思い出す。 プロトファイバーを切欠に、キクチの八課と係わるようになってから。正しくは「接待」を彼に持ちかけた日からほぼずっと、御堂の週末は佐伯克哉と共にあった。 内部のごたごたのせいで余分な仕事が忙しく、先週は佐伯克哉を呼び出すことなく時間は過ぎ、今週は恒例のミーティングもできず、顔をあわせることがなかった。だから、というわけではないが、今週も何時にという呼び出しなどしていない。 工場に、大隈のところに、他の役員連中への根回しにと奔走していた御堂は、正直、「接待」にかまけていられなかった。思い出す時間さえなかったといったほうが正しい。 報告や連絡として寄越されるメールや伝言への返信の際にも、御堂は「接待」について触れることはなかった。その余裕がなかったからだ。 そして佐伯克哉も、「接待」について触れてこなかった。 彼は、今頃、呼び出されなかったことにほっとしているだろう。 そう思うと、御堂は複雑な心境に襲われる。 御堂自身は佐伯克哉を逃がすつもりはなかったが、拒絶の機会を与えているのは確かなのだ。 MGN側の出荷ミスという、御堂自身が渡した、逃げるには絶好のカードを佐伯は手にしている。 それに加えて、増産の件だ。 伸ばしに伸ばした増産の返事。その遅れによる出荷ロス。品切れ。その対応に直接当たるのは彼ら営業だ。 MGNの判断の甘さを、子会社のキクチが拭うのだ。 この借りは大きいだろう。 逃げるためのカードを使った佐伯克哉が、はっきりと「接待」に否を唱えれば、御堂は引かざるを得ない。 仕事にひと段落ついた今なら、増産の件が軌道に乗ったことを知らず、呼び出されなかったことに安心しているだろう佐伯克哉を再び縛り付けることはできるが、生憎と、御堂は佐伯克哉のプライベートナンバーも、アドレスも、知らなかった。 知っているのはキクチマーケティングで彼に与えられている、仕事専用のアドレスだけだ。 そんなものを知っていても、今この時点で役に立たなければ、無意味なだけだ。 口の中で舌打ちを零し、御堂は神経質にハンドルを指で叩いた。 それまで信号で止まることなくスムースに走っていた車が、御堂の苛立ちに引き摺られたように止まった。 車は静かに、ゆっくりと停車する。 車の静けさに反して、御堂の中には軽い苛立ちがある。 いや。これは、焦燥だ。 雨に滲んだ信号機の赤を睨むように見つめながら、御堂は思う。 理由の説明のしようのない、正体不明の焦燥。 これは、なんだ? 強い焦燥が御堂の心の中に広がっている。 けれどいったいなにに対しての焦燥なのか、御堂には判断がつかない。 嬲る獲物を逃がしてしまうことへの焦燥か、それとも……。 思考を深めようとしたところで、信号が青に変わった。 御堂は停車したときと同様に、静かに車を走らせる。 タイヤが水を跳ねる音が大きくなっていくと同時に、フロントガラスを叩く雨の音も大きくなった。 外の世界では、雨足が強くなっている。これは本格的な降り方だ。 明日は一日、外に出ようと思えない天気だろうが、それはそれで、体を休めるにはちょうどいいかもしれない。やはり外出はしないことにしよう。 そう思いながら御堂が、マンションの駐車場へと曲がろうとハンドルを切ろうとしたときだった。 道を曲がりきる一瞬の車のライトに照らし出された、シルエット。 距離がありすぎるし、なにより、顔は見えなかった。 それなのに、御堂は確信してしまった。そのシルエットが誰なのかを。 どきり、と、大げさなほど鼓動が音を立てる。 ハンドルを握る手が、微かに汗ばんだ。 「佐伯……、克哉」 呆然と、マンションの前の道路に佇んでいる人物の名を呟く。 彼はなにをしているんだろう。どうしてここにいる? 疑問を思い浮かべながら、まさかと、ありえないことを考える。 彼は、仕事の話を抜きに、御堂に会いに来たのだろうか。御堂に抱かれに来たのではないのか、と。 「馬鹿馬鹿しい。私はなにを考えているんだ」 自分自身の馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない思考に苛立ち、御堂は吐き捨てるような口調でそう言いながら、しかし、一度思いついたその考えを、なかなか捨てきれない。 彼のことを思い返していたそのタイミングの良さが、否定しようとする気持ちを邪魔する。 佐伯克哉が快楽に弱いことを、御堂は知っている。 男を知らなかっただろう彼の体を開いたのは、御堂だ。……御堂自身、まさか本当に男を抱くことになるとは思っていなかったが。 最初の頃の抵抗などまるでなかったように、今の佐伯克哉は快楽に乱れやすい。 快楽に素直に身を委ねるように仕向けたから、ということもあるが、御堂の想像を遥かに超えて、彼は快楽に従順だった。 「……いや、違うな」 彼は男を知っていた。本人は覚えていないようだが、確かに彼は、御堂以外の男を知っている。 快楽に溺れること。――快楽に従順になれば、与えられる痛みや苦痛、心の負担が軽くなることを無意識に解っている。 心が逃げ方を、ちゃんと知っているのだ。 御堂の中で苛立ちと焦燥が募る。 それは思いがけず、御堂を狼狽させた。 不可解だ。解らない。 御堂をうろたえさせた衝動を否定するように、御堂は増産のことで彼は業を煮やしたのだと自分に言い聞かせた。 仕事の話だ。 それ以外に、彼が御堂に接触しようとする理由がない。 佐伯克哉にとっての御堂は、陵辱者に他ならないのだから。できれば仕事でも係わりたくない相手だろう。だが、彼は仕事のことと割り切って、ここまで来たのだろう。ならば、それには応じなければいけない。それが御堂の最低限の義務で、責任だ。 駐車場に車を入れ、御堂は濡れそぼっているだろう佐伯克哉の元へ急いだ。 いつから御堂を待っていたのか判らないが、随分と濡れていることだろう。 風邪を引かれて、仕事に支障が出ては困る。 強いて思考をそちらに向けながら、御堂は直通のエレベーターは使わず、駐車場の出入り口からエントランスへと急いだ。 道路に飛び出すように出たところで、傘を持っていないことに気づいたが、どうせすぐに部屋に入るのだからと、そのまま佐伯克哉の下へと向かう。 思った以上に雨は冷たかった。 視界を遮るほどの雨の中で、佐伯克哉はなにかに耐え切れないというように、目元を覆っていた。 御堂はその姿に微かに――自分でも気づかないくらいの微かさで、眉を顰めた。 雨音に、足音も消されてしまっているからか、佐伯克哉は御堂が近づいていることに気づいていないようだった。 所在無く肩を落として立ち尽くし、まるで泣いているように、あるいはなにかに絶望してしまったかのように目を覆っている佐伯克哉の傍に立ち、御堂は、その腕を引っ張るように取った。 はっと驚きながら御堂を見返す佐伯克哉の瞳に視線を合わせ、掴んだ腕の冷たさに顔を顰めて、御堂は「冷たい」と呟く。 ほんの数分で冷えたとは、とても思えない冷たさだった。 いつからいたのだろう。 この土砂降りの雨の中でなにを思いながら、なにを考えながら、彼はずっと御堂を待っていたのか。 仕事のことか? 接待のことか? それとも……? 尋常ではない冷たさに苛立ちながら、けれど、それを上回る気持ちが御堂の中にあった。 無意識に、だが、はっきりとした気持ちで、御堂は佐伯克哉の体を引き寄せる。 苛立ちを、焦燥を掻きたてる気持ちの正体に名前を与えるのは、髄分と身勝手なことだと思いながら、それでも御堂は、躊躇いなく佐伯克哉を抱きしめた。 御堂の腕の中の体が、わずかに強張る。それに苦く唇を歪めながら、御堂はあっさりと抱きしめた体を離し、腕を掴んでエントランスに向かって歩き出した。 御堂の後ろをついてくる佐伯克哉の困惑が、伝わってくる。けれどそれをきれいに無視して、御堂はエレベーターに乗り込んだ。 深夜を回った無人のエレベーターの中では、互いに無言だった。 問いかけたいこと。言葉にしたいこと。言ってやりたいこと。聞きたいこと。音にするべき言葉はたくさんあったはずだが、なにひとつ、音にはできなかった。 御堂がなにも言えないでいるように、佐伯克哉もまた、言いたいことがあるのだろうに、なにも言えないようだった。 居心地の悪いような沈黙が、ただ、あった。 耳に届くのは、機械が動く音。それだけだ。互いの呼吸すら潜められていて、鼓膜にまで響かない。 やがて御堂が住む階でエレベーターが軽い振動と共に止まり、ドアが静かに開く。 開いた隙間から抜け出るようにエレベーターを降りた御堂は、取りだしたキィで玄関を開錠すると、されるがままの佐伯克哉をバスルームに連れて行き、冷え切った体をシャワーで温め、そこでやっと、一番肝心である言葉――問いかけを唇に乗せた。 「なぜ、どうして、私を待っていたんだ?」 御堂のかける言葉になにひとつ反応を返さず、ただされるがまま。ぼんやりと御堂を見返す瞳の静けさと、シャワーの蒸気の向こう側でうっすらと笑みを浮かべているような不可解な表情に、自然と問いかける声はきつくなった。 畳み掛けるような御堂の質問に、けれど、返る答えはなく、子供のように無防備な青年がただ御堂を不思議そうに見つめていた。 また沈黙が御堂と佐伯克哉の間に落ちた。 シャワーの音が、バスルームの中に響く。 湿気が、ゆっくりと御堂のシャツを湿らせていくが、気にならなかった。 わずかな沈黙の後、佐伯克哉の唇がもどかしいほどゆっくりと開かれた。 「あなたに会いにきました」 どう受け止めればいいのか判断できない言葉に、御堂は眉を寄せた。 「私に会いに? 誰かから会社の内情でも聞いたのか?」 大隈との確執を、子会社とはいえ他社に漏らすような人間の顔など、思い浮かばない。佐伯が自ら積極的にMGNの社員と仕事以外で繋がりを持つ様子など、想像もつかなかった。仮にこれが本多であったならば、まだ、簡単に想像できたのかもしれないが。 御堂の疑問に、佐伯克哉がゆるりと頭を振った。 悲しそうに、その表情は歪められている。 なぜそんな顔をするのか、御堂には解らない。御堂の内心の困惑など知らない佐伯克哉は、さらに御堂を困惑させる言葉を紡いだ。 仕事など関係もなく、ただ、御堂に会いに来たのだ、と。 その言葉に、御堂の心のどこかが震えた。 それは歓喜のようであり、焦燥でもあり、怯えでもあるような震えだった。 どうすればいいのか、どう受け止めればいいのか、本当に解らないまま、御堂が問いかけた言葉は、疑惑の言葉だった。 御堂の言葉を聞いたとたん、佐伯の表情に自嘲の笑みが浮かんだ。 まるで御堂の言葉で切り裂かれたとでも言いたそうに、その顔は痛々しく歪んでいた。 御堂の物言いを非難するでもなく、ただ苦痛な言葉を吐き出すように、佐伯克哉は言葉を紡ぐ。 その言葉のひとつひとつを、御堂は信じられない思いで聞いた。――聞くこと以外、御堂にはできなかった。 問い返す言葉のどれもが、御堂自身が情けないと思うほどに亡羊としていた。途方に暮れるしかなかった。 呆然としながら、それでも佐伯克哉の唇から零れる告白を聞きながら解ったことは、御堂の中にある感情に、佐伯克哉と同じように御堂自身も名前をつけてもいいということだった。 御堂を乱す感情のすべてに、佐伯克哉が言葉にした想いと同じ名前を。 |