16

「克哉」
 待たせたな、と、そう言って柔らかく微笑む恋人を、克哉は同じく柔らかな笑みで迎えた。
「……久しぶりですね、御堂さんと一緒に昼食をとるのは」
「そうだな」
 新しいプロジェクトを立ち上げるに至り、御堂はその企画プランのために忙しい毎日を送りだした。
 コンセプトや、デザイン。それらにかかる材料のコストや、他の材料での比較、エトセトラ、エトセトラ。
 やることはありすぎるほどたくさんあって、また、昼食時間を削らなければならないほど、克哉も御堂も忙殺され始めている。
 キクチからMGNへと転職し、今は御堂の下で働いている克哉は、以前に感じた以上に忙しい御堂のスケジュールに、心底、体を壊すのではないかと心配した。
 デジタル通信が当たり前になった今、時差もなんのその。海外本社との会議だ、プレゼンだ、と、ほとんど分刻みのスケジュールだ。そのうちこのスケジュールが秒刻みになるんじゃないかと、馬鹿なことを考えてしまうくらい忙しくしていて、まともな休憩など取っていない。だから昼食を食べないことなど、日常茶飯事だ。心配しないほうがおかしい。
 今日はそれほど差し迫った仕事がないと判っていたので、克哉は御堂を昼食に誘った。御堂も「そうだな」と頷いてくれた。
 今は御堂について仕事をしているから、時間の融通がつけやすい。だから克哉は、御堂がゆっくり休めるように混雑する時間を避け、休憩時間を一時間ずらして取った。
 冬が終わって、季節は春になった。
 公園のところどころに、ちらほらと咲き始めた桜の花。
 御堂の隣を歩きながら、克哉はその花弁を盗み見るように見つめた。
 ちりちりと、小さな焦燥に似た痛みが胸を焼く。だが、以前ほど気にならなかった。
 どうしてだろう。
 去年までは足を竦ませ、近寄ることにも嫌悪感を持っていたはずなのに。
 そういえば、去年までは桜が咲きだした頃から梅雨が終わるまで、暗澹な気分を抱えていた。
 いつも夢見が悪くて、いつもよりもさらに眠りは浅くて、すっきりとした気持ちで朝を迎えられたこともなかった。けれど、今年は嫌な夢も見ない。
 いつから見なくなったのだろう。
 どうして見なくなったのだろう。
 足を止めて、克哉は咲いている桜を見つめる。
 とても大切なことなのに、どうしてだろう。思い出せそうになかった。
「どうした?」
 足を止めた克哉の気づいた御堂が問いかけてくる。
 それに克哉は慌てて視線を向けながら、なんでもないと首を振った。
 怪訝そうに眉根を寄せた御堂が、克哉の視線を追うように、咲き始めた桜の花を見つめた。
「桜か……。もう、春だな」
「そうですね」
「時間があれば、花見にでも行くか?」
「え?」
「なんだ?」
 御堂の言葉に驚いた声を上げた克哉を、御堂が見返した。なにをそんなに驚いているのかと、切れ長の瞳が不思議そうに細められている。
「いえ……、その、御堂さんもお花見をされるのかと思うと、少し意外で……」
 なにを驚いているのか言え、と、無言の圧力を感じて、克哉は戸惑いながら口を開く。
「私だって花見くらいはする。が、君が考えているような騒がしい宴会には、付き合いでもない限り参加はしないがな」
「あ……、そう……ですよね」
 あははは、と、克哉は笑う。
 確かに、ピクニックシートの上でビールを片手に花見をしている御堂など、想像がつかない。
 頑張って想像してみようとしても、できなかった。かわりに出てきたのは本多をはじめとするキクチの八課の人たちで。
 彼らは今年も花見をするのだろうか。そんな時間が彼らにあるのかと少し心配になりつつも、きっと時間を見つけて、また結束を固めるために花見をするだろう、と、克哉は苦笑を零す。
 去年まだキクチにいた頃、克哉は本多に、花見は好きじゃないのに、これも付き合いだからと、無理矢理花見に連れ出されたことを思い出した。
 一年しか時間は過ぎていないのに、こんなにも克哉の環境も心も変わってしまった。
 一年前の自分は、まさか親会社であるMGNに転職をするなんて、考えたこともなかった。
 おまけに同性の恋人を持つなんて、いったい、誰が想像していただろう。
 誰かの隣にいる自分など、考えたこともなかった。
「なにを考えている?」
 どこか不満そうな御堂の声に問いかけられて、克哉ははっと我に返った。
 慌てて御堂に視線を向けると、面白くなさそうに目を細めた御堂と目が合う。
「私よりも桜の花がいいのか?」
 子供っぽく拗ねた問いかけに、克哉は目を丸くした。それからゆっくりと微笑み、首を横に振る。
 御堂は時々、かわいいと思うくらいの独占欲を見せる。
 かわいいなんて口にした日には、ベッドの中でどんな報復をされるか判らないから、口にはしないよう、気をつけているけれど。
「いいえ。オレは桜の花なんかより御堂さんがいいです。……オレ、桜の花ってなんか苦手で」
「そうなのか? では、花見には行けないな」
「お気持ちだけで」
 微笑んで、克哉は軽く息を吐いた。
 今までほど酷くはないけれど、そろそろ桜の花に息が詰まりそうになる。
 いつか穏やかな気持ちで、桜の花を見られるようになるだろうか。
 ぼんやりともう一度桜の花を見上げ、そんなことを考えていると、「克哉」と穏やかな御堂の声に呼ばれた。
 視線を向けた先、御堂はすでにゆっくりとした足取りで歩きだしていて、克哉は慌ててその後を追う。
 肩を並べて歩いていると、視線を感じた。
「なんですか、御堂さん?」
 ちらちらと横顔に向けられる視線に、物問いたげな雰囲気を感じ取って、克哉はなんだろうと首を傾げながら訊ねた。
 御堂は迷うような素振りを見せた後、
「君は桜の花が苦手だと言ったが、なにか……その、あまり良い思い出がないからなのか?」
 御堂にしては珍しく、歯切れの悪い言い方だった。
 御堂から訊いておきながら、その答えを聞きたくなさそうな渋面で、前を見つめたまま歩いている御堂の横顔をちらりと見つめ、克哉は困ったように眉根を寄せた。
 克哉自身、どう説明したらいいのかがわからない。
 桜の花は苦手だ。けれどそこに理由をつけろといわれても、苦手だと思う理由らしい理由がないから、困るのだ。
 ただ漠然と、桜は克哉の胸をざわめかせ、不安にさせる。苦しくなる。
 だから苦手だと言ったところで、果たして納得してくれるだろうか、御堂は。
 あの不思議な人物から貰った眼鏡のことを話したときも、馬鹿馬鹿しいと一蹴されたくらいだ。理由のない苦手意識など、また「思い込みだろう」と一蹴されてしまうような気がする。
 どう言おうかと克哉は迷いながら、
「急にどうしたんですか?」
 御堂がそんなことを訊ねてくる理由を、逆に訊いた。
 ちらりと鋭い眼差しが向けられる。
 無言で克哉を見つめた御堂の眼差しには、はっきりと、「先に質問をしているのは私だ」と浮かんでいて、これは答えてはもらえないかもしれない。適当な理由探しの時間稼ぎもできそうにないと、内心で溜息をついたところで、難しい顔で眉間に皺を寄せた御堂が、口を開いた。
「君が魘されていたことがあったから、それと関係があるのかと思ったんだが」
「……オレ、魘されていましたか?」
 それはいつだろう。御堂の睡眠を邪魔してしまったのだろうか。
 申し訳ない気持ちで問いかけると、御堂は少し苦い顔で「ずいぶん前の話だ」と、追求を避けるように早口に言った。
「魘されながら、苦しそうに謝っていたようだったが」
「――そう、なんですか?」
「なんだ、君は覚えていないのか?」
 驚いたように言った御堂に、克哉は頷いた。
「はい。……夢を見てたことは覚えていても、それがどんな内容だったのか、全く覚えていなくて。思い出すこともできないんです。……わずかな期間ですけど、オレ、記憶が曖昧な時期があって、もしかしたら、そこに桜を苦手だと思う理由とか、夢で魘されていた原因とかあるんじゃないかと思うんですけど……」
 けれど、それも確かではない。
 克哉は自信のない口調で言葉を濁した。
 曖昧でも残っていたはずの記憶は、きれいに消えてしまっているようだった。思い出そうとしても、記憶の片鱗はなく、欠片すら拾えない。
 どうして思い出せないのだろう。
 いつから思い出せなくなったのだろう。
 それを不安に思わなければいけないはずなのに、不思議と焦燥は湧かなかった。それどころか、まるでなにかから解放されたように、変に清々しい気持ちになっている。
 克哉は後ろを振り返った。
 咲き始めた桜の花は、もう目で見えないくらいに離れてしまっている。
 ふと、最後に夢で会ったもうひとりの――眼鏡をかけた「佐伯克哉」のことを、克哉は思い出した。
 もうずいぶん長い間、<彼>の夢も見ていない。
 もしかしたらその時からかもしれない。夢を見なくなったのは。そして、夢と記憶の欠片すら、拾えなくなってしまったのは、と、克哉は思いながら、そういえばいつだったか、眼鏡をかけた「佐伯克哉」がなにか――本当にできるのかどうか判らないけれど、記憶の操作のようなこと――をしたのかと、そんなことを考えたことがあった。
 あれはいつぐらいのときだったろうかと、克哉は記憶を手繰り寄せようとした。が、
「克哉」
「はい?」
 呼ばれて、御堂に視線を戻すと、御堂も足を止めていた。
 思いがけず不安そうな御堂の眼差しが、克哉を見つめている。
 なにを不安がっているのだろうと、克哉が御堂の瞳を見つめ返すと、御堂がはっとしたように瞬きをした。
 一瞬、御堂は克哉から視線を外そうとしたようだったが、思い直したようにまっすぐ克哉を見つめて言った。
「……もしかして君は、その時に酷い失恋でもしたか、こっぴどく相手を振ったか、そんなところじゃないのか? そしてそれを忘れた。君は自己暗示が得意そうだからな」
 揶揄を含んだ声音でそう言った御堂の瞳に、複雑な感情が浮かんでいることに克哉は気づいた。
 克哉自身覚えていない過去が、御堂を不安にさせている。それは克哉を慌てさせ、心苦しくさせたけれど、同時に幸せだと思う気持ちも抱かせた。
 想われている。とても、深く。
 それを嬉しく思っている自分は、かなり歪んでいるのだろうと思う。
 なるほど、確かにあの人――克哉に眼鏡を渡した、あの黒衣の男が言ったように、克哉の欲は深くなるばかりかもしれない。果てのないものを、克哉は心中に飼っているのかもしれない。
 それはいつか御堂を巻き込んで、克哉共々、飲み込んでしまうかもしれない。
 それでも。
 たとえその日が来ると解っていても、克哉はもう、御堂の手を離せない。
「そんな相手、いません」
「ん?」
「オレ、御堂さんほど心を奪われるような人に出会ったことも、執着できるほどの人に出会ったこともないです。……だから、違うと思います。思い出せないけれど、それだけは言い切れます」
「……そうか」
 なにか言いたそうに御堂の唇が動いたけれど、御堂は何も言わずに克哉の言葉に頷いた。
 安心と不安がない交ぜになっている御堂の瞳に気がついた克哉は、しかし、今の克哉ではそれらを言葉だけでは払拭できないと解っていた。
 どれだけ言葉を重ねても、きっと、御堂を納得させるだけの説得力はないだろうし、御堂もまた納得などしてくれないだろうと、克哉は思う。
 言葉一つで信頼できるだけの絆は、まだ、強い繋がりを持っていなくて。
 これから先も、きっと、お互いに不安を抱えて行くのだろうけれど。
「御堂さん」
「なんだ?」
「オレはあなたが好きです」
 まっすぐに御堂を見つめて、克哉は言った。
 御堂が驚きに軽く目を瞠って、それから苦笑を零す。
 少しだけ照れ臭さが滲んだ目元は、うっすらと赤くなっていて、克哉はふと口元を綻ばせた。
 克哉の告白に、正直な反応をわずかでも返してくれる御堂のことを、本当に好きだと思う。
 はじまりかたがどうであれ、御堂を好きになれてよかった。御堂に想いを返してもらえてよかった。
 克哉は正直に、そう思った。
「御堂さんが、好きです」
 まっすぐに御堂の眼差しを見つめながら克哉が言うと、御堂の切れ長の瞳が柔らかく細められた。
 そして御堂が素早く周囲を見渡し、ちょうど一歩分だけ、克哉との距離を詰めた。
 さすがに人目がと思って体を引きより早く、克哉の腕が御堂に捉まると同時に、引っ張るように引き寄せられて、唇に掠めるようなキスをされる。
 微かな温もりが離れると同時に、
「御堂さんっ!」
 咎める口調で克哉は恋人の名を呼んだが、キスをしかけた当人は、飄々とした態度で歩き出していて、挙句に、
「君が告白などするからだ」
 と口端を意地悪く引き上げて、のたまった。
 颯爽とした背中を追いかけながら、だからって堂々とキスを仕掛けるなんて、と、抗議の声を上げようとした克哉は、しかし、御堂の声にそれを遮られてしまった。
「克哉」
「なんですか?」
「私は君を愛している」
「……はい」
「君は?」
「え?」
「君は私を「好き」なだけか?」
 ちらりと寄越された視線の中にちらつく熱に、克哉は無意識にごくりと喉を鳴らしていた。
 きっと、今夜は、容赦などしてくれないだろう。……して欲しいとも思わないけれど。
 すべてを奪いつくすような激しさで、抱き合いたいと正直に思いながら、克哉は言った。
「オレももちろん、孝典さんを愛してます」
 御堂の唇が満足そうに綻ぶのを見つめ、克哉もまた、優しげな顔に似合う幸せな頬笑みを浮かべた。

                                   終