手を伸ばして、掴みたかった。 強く、強く、抱き締めたかった。 ふと垣間見せた表情が、ひどく、衝撃だった。 いつも憂いを浮かべている印象の強い青年が、会議も終盤に差し掛かった頃に、腕時計に目を落とした。 それは会議に飽きてというより、無意識の仕草のようだった。 どう好意的に見ても、安物だとしか言いようのない時計で時間を確認した青年――佐伯克哉の口元が、時計を見た途端に柔らかく綻んだ。その瞬間の衝撃に、御堂孝典は、はっと息を飲む。 最近ではそうでもないが、自信過剰気味の同僚の背中に隠れがちで、万事に控えめな印象が強い青年は、取引先の上司である御堂の前では、そうそう表情を崩さない。 喜怒哀楽がないわけではないが、それらの表情さえ、まるで計算され、作られたような印象があり、御堂の琴線を刺激する。それも、あまり良い意味ではない方向で。 理解しがたい苛立ちが、御堂の胸を騒がせるのだ。 なぜ、と。後に続く言葉のない疑問だけが、胸の底を渦巻く。 そんな風に御堂の琴線を掻き乱すばかりの青年が、鮮やかに表情を変化させた。 そっと、ではあったけれど。 誰も気づかないくらい、それは、一瞬の出来事であったが、目の当たりにした御堂は、ひどく動揺した。 あまりにも、幸せそうな表情だった。 この上ない喜びを、表情に表していた。 大切な、何を措いても優先させるべき何かが――誰かとの約束があるのだと、そう結論付けるべき表情だった。 ちり、と、何かが燻りを上げた。 「――では、本日の報告は以上で終了、ということで構わないかね。御堂君」 大隈専務の呼びかけに、御堂は心持ち姿勢を正し、「はい」と頷いた。 「では、来月の報告も期待しているよ」 好調な売り上げを見せる自社製品の結果に、大いに満足している大隈が、にこにこと機嫌良くキクチマーケティングの面々に声をかけて、席を立った。 「ありがとうございます」 担当責任者である片桐が立ち上がり、安堵の表情を浮かべて頭を下げると、それに倣うように本多、佐伯と席を立ち、頭を下げた。 佐伯の表情は、すっかり、いつもと同じ表情だった。 他人を拒絶するかのような、人当たりの良い作られた表情。 先ほど御堂が垣間見た表情が、まるで幻だったかのような……。 佐伯の表情に意識を向けていると、 「克哉、久しぶりに飲みに行こうぜ!」 本多の大きな声が、会議室に響いた。 御堂はそっと眉を潜める。 親会社の会議室、それもまだ全員が退出もしていないうちから飲みに行く話題など、不謹慎極まりない。 じろりと睨みつけると、大声を出した当人ではなく、なぜか佐伯と目が合った。 御堂と目が合うや、驚いたように肩を跳ねさせ、申し訳なさそうに目を伏せた。 それから、 「御堂さん、お疲れ様です」 と、ぎこちない笑顔を向けてきた。 佐伯の言葉に鷹揚に頷くと、佐伯はほっとした顔を浮かべた。それから傍らの本多を軽く睨みながら、 「本多、まだ仕事中なんだから」 同僚を諌めた。 「あー、悪い」 大して悪いと思っていない口調で言い、本多は御堂を見た。それから、 「御堂部長、お疲れ様でした」 義務感に溢れた口調で挨拶の言葉を寄越す。 その慇懃無礼にも、そろそろ慣れてきている自分に辟易しながら、御堂は、憮然と「お疲れ様」と返した。 特に疲れる内容のミーティングではなかったからこそ、その後に本多とのくだらないやりとりで疲れたくはなかった。 変に絡まれる前にと、足早に彼らの傍らをすり抜ける。 「ごめん、今日は先約があってさ」 すり抜けざま佐伯の唇から零れた言葉に、一瞬、足を止めかけた。 時間を確認した瞬間に綻んだ顔が、御堂の脳裏を占める。 柔らかく、幸せに蕩けたような表情。 「先約? なんだよ、またか? 最近付き合い悪いぞ」 言葉ほどには残念がっていない本多の声に、 「ごめん。また今度」 照れくさそうに佐伯の声が答える。 その声音で、御堂はすべてを悟ってしまった。 あぁ、そうか。佐伯には――彼には、もう……。 ファイルを掴む手に、力がこもった。 手を伸ばして、掴みたかった。 強く、強く、抱き締めたかった。 なにもこんなタイミングで、理解しがたい苛立ちの理由に名前がつかなくても良かったのに、と、口元に自嘲の笑みを浮かべる。 一瞬で脳裏に焼きついた、表情。 鮮やかな、至福の笑み。 あの表情を浮かべさせたかった。独占したかった。 他の誰でもない自分自身が。 手を伸ばして、掴みたかった。 強く、強く、抱き締めたかった。 この手の中に囲えない相手だと、心のどこかで解っていたからこそ、無意識に、心のままに求めていた。苛立ちをこめて、なお。 けれど、すべてがもう遅いのだと、御堂は会議室を後にしながら、そっと息を吐き出した。 |
リハビリ的に。御堂さん→N克哉さん。
ノマの相手は眼鏡でも太一でもMr.Rでもいいと思います。