〜ゆびきり〜

「絶対、聴きに来てよ、克哉さん!」
 満面の笑顔を浮かべた太一に、半ば押し切られるかたちで渡された三日後のライヴのチケットを受け取り、ならばせめてチケット代だけでも、と、無理矢理チケット代――それでも半額だ――を克哉が支払ったときだった。
「克哉!」
「佐伯くん!」
 同僚と親会社の上司に、同時に名前を呼ばれた。
「本多と……御堂さん?」
 なにをそんなに焦っているのか。すいぶん切羽詰ったふたりの声音を訝しく思いながら、克哉は背後を振り返った。
 MGNジャパン本社ビルをバックに、同僚と上司は立っていた。
 まるで克哉と太一を睨みつけているような形相に、克哉はなぜ睨まれているんだろうと眉間に皺を寄せつつ、恒例の口論の決着がついたのだったら、今後の方針はどうなったのか、内心ビクビクしながらもそれを訊ねてみようと口を開こうとして、けれど、鬼気迫る二人が近づいてきたために、開きかけた口を閉じた。
 いったい、自分はどんなヘマをやらかしたのだろう。
 恐ろしい形相の同僚と上司が近づいてくるのを、克哉は息を詰めて見つめていた。
 後ずさりたいけれど、恐怖に強張ってしまった足は動かない。
 本気で逃げたい。
 けれど、仕事で犯したミスがあるのならば、責任は取らなくてはいけない。
 ごくり、と、生唾を飲み込んでふたりからの怒声を覚悟した克哉の隣に、すっと誰かが並んだ。
「太一?」
 やけに真剣な、それでいて瞳には悪戯っぽい輝きを残した太一が、克哉と肩を並べていた。
「どうした?」と太一に問いかけようとしたところで、
「克哉!」
 怒鳴るように本多に名前を呼ばれて、克哉は身を竦めた。
 ビクビクとしながら視線を戻すと、普段以上に厳しい眼差しの御堂と目があった。
「佐伯くん、こちらに来たまえ」
 やけに強張った御堂の声に呼ばれる。
 御堂の迫力ある怖さが、いつもの五割増しのような気がする。
「……俺、なにをしたんだ……」
 眼鏡、かけなかったよな? 心の中でぽつりと付け加えつつ、それともまた記憶がないだけで、眼鏡をかけたときになにかをしでかしていたのだろうかと、体中の血が全部下がるような心地を味わっていると、
「んー、克哉さんは何もしてないと思う」
 呑気な太一の声が言った。
「太一……?」
 どういう意味かと問いかけるために視線を動かしたところで、
「克哉、早くこっちに来い!」
 本多の大音量に呼ばれる。
 道行く人がなにごとかと克哉たちを振り返り、横目に見つつ、あるいは囁きあいながら通り過ぎて行く。
 居心地が悪く、恥ずかしい気持ちで眉を顰めながら、克哉は呼ばれるままに二人の許へ行こうとした。が、それを太一の手に阻まれる。
 一歩足を踏み出すと同時に、引き止めるように掴まれた右手。
 ギターたこのできた固い指先の感触がした。
 なんだろう、どうしたんだろうと太一を振り返ると同時に、克哉の背後に本多と御堂の気配を感じた。
 慌てて走ってきたのか、ふたりとも、軽く息が乱れているようだった。
「克哉から手を離せよ」
 威圧感たっぷりに、本多の低い声がそう言った。
 克哉が「え?」と思う間もなく、今度は御堂が吐き捨てるように言う。
「子供に恐喝された挙句、言いなりになってお金を払うなど、みっともないぞ。もっと毅然と断りたまえ。断らないから舐められるんだ、君は!」
「は?」
 思ってもみなかったことを言われて、克哉の目が丸くなる。
 恐喝?
 なにを言ってるんだ、御堂さんは?
 驚いている克哉に頓着せず、御堂は克哉の隣にいる太一に視線を移し、厳しい声音でさらに言った。
「君も、彼にいったいどんな難癖をつけたのか知らないが、恐喝をするなど恥ずかしくないのか? 恐喝は立派な犯罪だ」
 言いながら太一の手から奪うように、克哉の手を取った。
 それから克哉の手を強引に引っ張り、まるで克哉を庇うように、御堂は克哉と太一の間に立つ。
 御堂の隣で、出遅れた本多が苦虫を潰したような顔でそれを見つめ、小さく舌打ちした。
「佐伯くんにお金を返したまえ。そうすれば警察は呼ばないでおこう」
 本多の表情に満足そうに口端を吊り上げた後、厳しい顔つきに戻った御堂は太一に言った。
 ぼんやりと御堂の言葉を聞いていた克哉は、御堂の肩越し、呆れたように軽く肩を竦めた太一と目が合って、やっと、思考が動き出した。
 本多と御堂は、克哉が太一にお金を――チケット代を渡しているところだけを見たのだろう。
 オレンジ色に染められた太一の髪と、克哉からお金を受け取っている場面だけを繋ぎ合わせて、太一が恐喝をしたのだと判断したのだ。
 ふたりとも誤解している。
 慌てて御堂と太一の間に割って入ろうと克哉は動いたけれど、それより先に、太一が手に持ったままだった札を数枚、御堂に向かって差し出した。
 御堂の言いがかりには、まるで頓着していない。
「ちょうどよかった。これ、克哉さんに返してよ」
「なに?」
 あっけらかんとした太一の口調と、告げられた内容に御堂は眉を顰める。
「いらないって言うのに、克哉さん、しつこいんだもん」
 そう言って溜息をつきつつ、太一は御堂に押し付けるように札を突き出した。
 御堂は反射的に突き出された札を受け取り、呆気に取られる。
「二千円……?」
 恐喝したにしては金額が低すぎるそれと、言われた言葉に、御堂は克哉を振り返った。
 どういうことだ、と、細められた御堂の眼差しが克哉に問いかけた。
 が、克哉はその問いかけを無視するように、御堂を見返した。
「御堂さん、それ、受け取ったらダメじゃないですか!」
 常の物腰の柔らかさと大人しさなど嘘のように声を上げ、呆気に取られている御堂の手の中から札を奪うように取り、克哉は太一に押し付けた。
「太一も! ちゃんと受け取ってくれよ。ライヴだってタダでできるわけじゃないだろ。これも受け取らないって言うなら、オレはライヴに行かない」
 きっぱりと言い切って、克哉は睨みつけるように太一を見つめた。
 太一を強く見る克哉の眼差しに、太一はそっと息をついた。
 普段は危なっかしいくらいに柔らかな雰囲気の癖に、変なところでどうしてこの人は頑固なんだろうと、そっと苦笑を零す。
「負けました。オレの負けです。このお金は、ありがたーく徴収させていただきます。だから、克哉さん、絶対にライヴに来てよ」
 太一がお金を受け取ると、克哉の顔が緩んだ。
 柔らかな笑顔が、克哉の顔に浮かぶ。
 克哉の笑顔につられるように、太一も笑って。御堂と本多を置き去りに、ほのぼのとした空気が流れたところで、
「たいち?」
「知り合いなのか?」
 なんだってそんなに声を低める必要があるのかと、克哉が思うくらい声を低めた御堂と本多の問いかけに、また空気が変わった。
 問いかけられた克哉はふたりを振り返り、なんとなく重苦しい空気を怪訝に思いながらも頷いた。
「ええ、知り合いです。オレの住んでいるアパートの近くに『ロイド』っていう喫茶店があるんですよ。太一はそこでバイトしている大学生なんです」
 な、太一。と、克哉は穏やかに笑って同意を求めた。
「そうなんすよ。五十嵐太一っていいます。よろしく」
 克哉の言葉に頷いて、太一は屈託なく笑う。
 険悪な御堂と本多の醸し出す空気に、臆すこともない態度で軽く会釈をして、太一は克哉に視線を戻した。
 悪戯っぽく笑う瞳には、くだけた口調ではあったけれど、ちゃんと自己紹介できたことを、褒めて欲しいという輝きがある。
 太一の仕草に人懐っこい大型犬を連想して、克哉はくすりと小さく笑った。
 そのまま穏やかな顔で太一を見つめ、克哉はにこりと微笑んだ。
 太一も、克哉を見返してにこにこと笑う。
 克哉が傍にいる本多と御堂の存在をすっかり忘れて、ロイドにいるときと同様の和やかな空気に身を浸しかけたところで、
「俺は克哉の大学時代からの友人で、本多だ」
 無愛想さをなんとか隠そうと努力しているらしい本多の声が、割り込んだ。
 それに続くように、
「私は御堂だ。今手がけているプロジェクトに関しては、佐伯くんの上司という立場になるな」
 やはりどこか不機嫌そうな声音で、御堂が言った。
 名乗りながらも、どうしてだろうか、太一に対して友好的とは思えない二人の態度に内心首を傾げつつ、克哉はなんとなく黙ったままでいた。
 正確には、黙っていたというより、なにかを言おうにも言い出せない、なんとも言えない妙に張り詰めた雰囲気がその場にあって、黙り込むしかなかった、というほうが正しい。
 とっつきにくく、常に威圧感のある雰囲気の御堂はともかく、概ね、誰に対しても人当たりの良い本多が、太一のような人懐っこい人間相手に、敵意に近い苦手意識を抱いている様子は珍しい。
 そう思いながら、克哉がこの変に居心地の悪い空気をどうしようかと戸惑っていると、固い口調のまま本多が言った。
「克哉、お前、こいつとかなり親しいのか? その、……なんだ、名前で呼んだり、一緒に出かけたりする程度には?」
 本多にしては珍しく、歯切れの悪い問いかけだった。
 本多の態度をおかしいと思いながら、克哉は頷いた。
「うん。親しいけど……。あの、本多、どうしたんだ?」
 克哉と太一が親しいことを快く思っていないらしい本多の様子に、思いきって訊ねてみた。
 克哉に訊ねられた本多は、どう言えばいいのか判らず、困惑する。
 嫉妬をしているんだと、ストレートに言ってしまいたい衝動に駆られるが、それを口にしたところで、きっと克哉は本多の本心に気づきもしないだろう。
 本多が克哉に対して、友情を超えた感情――恋愛感情を抱いているなど、想像もしないに違いない。
 克哉のことだ。きっと、
「友達に嫉妬なんて、変なこと言うんだな、本多は」
 そう言って可笑しそうに笑うのだろうと、安易に想像がついた。
 横目でライバルである御堂を盗み見ると、同じ結論に達したのだろう。御堂も顔を顰めていた。
 御堂は、黙って克哉と本多のやり取りを眺めていた。
 御堂が克哉に対して信頼以上の感情を抱いていることに、克哉が気づいていないことはとっくに承知している。
 それどころか苦手意識を持たれていることにも、気づいている。
 最初の威圧的な態度と、一緒に仕事をするようになってからの歯に衣着せぬ物言いと、どうしても高圧的になってしまっているらしい態度が原因だと、解っている。
 それでも、歯牙にもかけられていないと判っていても、その心の中に入りこみたくて、恋敵と牽制しあってしまう。
 この馬鹿馬鹿しい、けれども、無視できない原因の一端のひとりも観察するように横目で窺う。
 苦笑混じりに、けれど、油断なく本多と御堂の言動、それから克哉の言葉にも耳を傾けている。
 大学生だと言っていた。見た目の人懐っこさを裏切るように、隙がない人物のように思える。
 直感的に、御堂は厄介な相手だと感じた。
 本多よりも警戒をしなければいけない。
 要注意人物、と、御堂が心の中に太一に対する評価を書き込んだときだった。
 御堂の視線に気づいた太一が、ゆっくりと御堂に視線を向けた。
 悪戯っ子のように笑って、視線を合わせたときと同様、太一は御堂からゆっくりと視線を外した。
 今の仕草の意味を問いかけようと、御堂が口を動かしかけたところで、それまで沈黙していたままだった本多が口を開いた。
「あ〜、その、……珍しいなって思って」
「珍しい?」
 本多の言葉に虚を疲れたように、克哉は瞬きをした。
 鸚鵡返しに問いかけると、本多の顔に浮かんだ表情は苦い笑みだった。
「珍しいじゃないか。克哉が誰かを名前で呼んでいるのを、少なくとも俺ははじめて聞いた」
 本多がそう言うと、克哉の顔が微かに強張った。
 わずかに顔を青褪めさせて、克哉が俯く。
「克哉さん?」
「佐伯くん?」
「おい、克哉?」
 まるでとんでもない失態をしてしまったかのように言葉を無くした克哉に、三人は気遣わしげに声をかけた。
 けれど、克哉からの返事はない。
 深く、苦しそうに俯くばかりだ。
 突然の態度の豹変に、本多と御堂は戸惑いながら、立ち尽くした。
 克哉と自分たちを隔てる空気を、感じた。
 確かな拒絶。
 声をかけることさえ躊躇わすような、あからさまな……。
「かーつやさん」
 ふと、柔らかな声が、歌うように克哉を呼んだ。
 克哉の拒絶をものともしない、声だった。
 毅く優しい声に促されるまま、のろのろと、克哉は顔を上げる。
 屈託なく、けれど、どこか大人びた微笑を浮かべた太一が、目を細めて克哉を見ていた。
「ねぇ、克哉さん。もうちょっと時間ある?」
「え? 時間って……太一、オレ、仕事中……」
 思いだしたように克哉は呟いた。
「あ、そっか。そーでした。じゃあ、仕事終わった後、時間ある?」
「……残業さえ、なければ」
 言いながら、克哉はそろりと本多と御堂に視線を動かした。
 克哉の視線に倣うように本多と御堂を見た太一は、けれど、すぐに克哉に視線を戻していった。
 本多と御堂の意向など、まったく問題ではなかった。
 太一にとって大事なのは、克哉のことだけだった。
「今日は残業、パスして。……ええっと、俺のために」
「太一のため? なんだよ、それ」
 克哉は思わず吹き出した。
「うん。俺のため。大事な使命ができたんですが、克哉さんの協力なくしては、果たせないんすよね」
「なに?」
 いったいなにを協力しろというのだろう?
 不思議に思いながら克哉はことりと首を傾けた。
「それは仕事が終わってからのお楽しみ、ってことで」
 太一は克哉の仕草から疑問を読み取ったように、にこりと笑った。
「仕事が終わったら、ロイドに来てよ。もしロイドが閉まっていたら、俺の家。いいすか?」
「いいけど……太一?」
「じゃ、約束!」
 屈託なく笑って、太一は克哉の手を取った。
 それから小さな子供のように指切りをする。
 小指同士を絡めた手を、顔の高さまで掲げて、太一はまた笑う。
「約束、ね」
 優しく囁くように言って、絡めた指をゆっくりと離した。
 呆然と太一を見つめる克哉にもう一度笑いかけて、太一は腕時計に視線を落とした。 
それから、少しだけ慌てて、
「じゃ、克哉さん、夜ね! 俺、もう落とせない講義があるんで行きます!」
 早口で別れを告げる。
「あ、本多さんと御堂さん、だっけ? あーんまり俺の克哉さんのこと苛めないで下さいよ! じゃあね、克哉さん!」
 バイバイ、と元気良く手を振って、太一はバタバタと煩いほどの足音を立てながら走り去った。
 呼び止める間もなかった。
 人込みの中にすぐに紛れてしまった背中と、明るいオレンジ色の髪の残像を追うように、克哉は太一の走り去った方向を見つめていた。
 太一らしい強引な、けれど決して嫌だとは思えない約束と、絡められた指から伝わった、労わるような温もり。
 克哉は微笑みながら、自分の手に視線を落とした。
 太一の前だと無防備になってしまう自分を嫌だとは思わない。そう思いながら、生まれたての感情に、目を伏せた。



 人込みに紛れながら、太一は一度だけ、後ろを振り返った。
 太一の言葉にショックを受けたように呆然と立ち尽くしている、本多と御堂の姿があった。
 その姿に、太一はしてやったりと舌を出す。
 まだ克哉のすべてを太一が独占しているわけではないけれど、いずれは、太一が克哉のすべてを独占する。
 その為の宣戦布告で、挑発で、牽制だった。
「でも、克哉さん、見事に聞き流してたなー」
 あまりにもさらりと言い過ぎたのだろうか、「俺の克哉さん」という重要な言葉を。
 失敗したかな。
 そう思わないでもないけれど、克哉が見せた深い後悔の表情が消え去ってしまったことに、太一はとりあえず安堵した。
 悲しそうだった。
 苦しそうだった。
 辛そうだった。
 痛そうだった。
 どんな表情を浮かべていても、克哉は綺麗だと太一は思うけれど、
「やっぱり笑ってくれている顔が一番綺麗で可愛いし。好きだし」
 ぽつりと呟いて、太一は前に向き直った。
 さあ、どうやって、克哉をずっと笑顔でいさせようか。
 必修の講義のことより、今夜のことで頭をいっぱいにさせながら、太一は人込みの中を走り抜けた。

                                  END

とりあえず、妄想第二弾。
N克哉総受けを狙いつつ、玉砕。さりげに太克。……太克になっているかな?