〜黎明 車道を挟んだ通りの向こう側で、彼女は笑っていた。――変わらない笑顔で、僕の知らない人の隣で、無邪気に。実に、彼女らしく。 僕に見せた空元気とは違う笑顔。不安も、心配も、なにも感じていない明るい笑顔は、いつだって僕たちを勇気付けてくれる、僕らの心までをも照らす、それ。 その姿に、笑顔に、胸が締め付けられるように痛んだ。 思わず歩みを止めて、僕に気づいていない少女を見つめる。 隣を歩いていたみちるも、僕に合わせて歩みを止めた。 「大丈夫、はるか?」 溜息混じりの相棒の問いかけに、僕は一度息をついて、気持ちを落ち着けた。 「大丈夫だよ。……変な心配するなよ」 軽く笑って言いながら、僕を見上げる相棒を見返すと、みちるは肩を竦めた。 「全然、大丈夫そうに見えなくってよ。『妬いてます』って顔に出ているわ」 僕をからかうでもなく、かといって深刻そうでもない口調で言いながら、みちるが細い指先で自分の眉間を指差した。 僕が眉間に皺を寄せて、渋い顔をしているということだろう。 僕は相棒の指摘に僅かに顔を顰め、視線を逸らす。 そっと横目で通りの向こう側を見ると、少女――月野うさぎは相変わらず、くるくると表情を変えていた。 笑って、ふくれて、怒って。また、弾けたように笑う。 プリンセスとしてでもなく、また、セーラームーンでもない、月野うさぎとしての表情。 「あいつ、誰だ?」 長く艶やかな黒髪。整った顔立ち。脆弱さなど感じさせない、均整の取れた肢体。――少し不釣合いな、サングラス。 同じ学校の生徒だろうと思しきそいつは、当たり前の顔をして、僕らのプリンセスの隣にいる。 本来であれば、彼女の隣はプリンスである男性のものだけれど、生憎そのプリンスは遠く離れた国にいる。 見知らぬ人間の暴走を止めて牽制する人間の、不在。 それは僕の心を複雑に掻き乱す。 「サングラスをしているから断言は出来ないけれど、きっと星野光ね」 「え?」 みちるが言った名前に、僕はきょとんと振り向いた。 「今人気絶頂の、アイドルよ。スリーライツのメインボーカル。知らない?」 「全然……」 「次のファンタスティック国際音楽祭で、わたしが共演する相手よ? 覚えていない?」 僕の言葉に、薄情だと言いたげに、少し不貞腐れた顔をしたみちるが言った。 時々、みちるは、小さな子供のように、僕たちの絆を探るように話題を共有したがる。 それは、僕と出会うまで独りで戦っていた時の心細さの後遺症だ。 意外なところで子供っぽい相棒に、僕はいつも苦笑するしかない。 僕はみちるの言葉に記憶を探った。 「……聞き覚えがある気がするな」 みちるから話を聞いたときに、そういえば、畑違いの相手と共演なんて無謀だと思った記憶があったっけ……。 「はるかは本当に、レースとうさぎのこと以外は無関心ね」 妬けるわ、と、可笑しそうに笑いながらのみちるの科白に、僕は軽く肩を竦めた。 否定はしない。みちるの言葉は真実だからだ。 「ねぇ、はるか。はるかがあの子の暴走を止めたら?」 不意に、みちるが少し厳しい口調でそう言った。 珍しく僕をけしかける言葉を不思議に思いながら、眼差しを厳しくしたみちるの視線を追って、僕も表情を厳しくした。 星野光というアイドルは、自然に、そうすることが当然のように、少女の髪に指を絡めていた。 無防備な少女の頬に、頬を寄せるように顔を覗き込んでいる。 鈍いにもほどがある、と、言いたくなるほど鈍感な少女は、顔の近さに少し驚いた仕草を見せるだけで、距離を置こうとはしない。 ねえ、仔猫ちゃん。それは隙を見せすぎだよ。心を許しすぎだ。 誰だって、勘違いしてしまうよ? 君に心を奪われた人間なら……。 「あれは、さすがに許しがたいわね」 みちるの怒りを隠さない口調に、僕も頷く。 「そうだな」 牽制が必要だ。 それから、無防備すぎる彼女には注意を。 自分が誰のものであるのか。何者であるのか。彼女はいい意味でも、悪い意味でもそれらに捕らわれない。だからこそ、隙が多い。 「ねぇ、はるか」 僕の腕を引っ張って、うさぎたちの元へ歩きながら、みちるが深刻な口調で言った。 「戦う時以外は、前の性別に戻ってはいかが?」 「みちる?」 何を言い出すんだと、僕は腕を引かれるまま、相棒を見下ろす。 厳しい表情で前を見据えたままで、みちるは言う。 「今の姿で牽制したとして、いったいどんな効果があって?」 「でも僕は……」 プリンスの存在。未来の、ふたりの間に生まれる子供の存在。何より男の性でいたのでは、気持ちを抑えきる自信がなかったから、女の性を選んで、彼女を守り、傍にいることを選んだ。 みちるは僕の覚悟を知っているのに、どうしてそんなことを言い出すんだ。 「わたしたち、少し、未来に捕らわれすぎではないかしら?」 「みちる?」 「女の性でいたって、はるかは自分の気持ちを偽っているだけで、何も昇華させられていないじゃない。我慢は良くなくってよ。どうせ衛さんはいないのだもの。羽目を外したって誰も困らないわよ」 その言葉に唖然としながらも、仔猫ちゃんは困ると思うけど、と、そっと心の中で呟く。 僕の心の声など知らない――、いや、知っていて知らない振りをしているのだろうみちるは、なおも言葉を紡ぐ。 まるで最良の解決策を見つけたというように、滔々と。 「未来なんて、変えようと言う意志があれば変えられるものよ。変えてはいけないものではないのよ、はるか。……遠慮なんてすること、なくってよ。好きなんでしょう? プリンスから奪ってみてはいかが? わたしははるかの味方だから、どんな協力も惜しまないわ」 みちるの挑戦的な口調と、眼差し。 「みちる、実は面白がっている?」 「いやね。わたしは相棒の幸せを願っているだけよ」 可笑しそうに、みちるは吹き出した。 くすくすと笑うその様を、僕は横目で見つめる。 半分本気、半分冗談というところだろうか、今の口調からすると。何にしても、面白がってはいるだろう。 相棒の言葉に呆れながら、けれど、心は揺らぐ。 僕の心の奥底が、歓喜している。 初めて邂逅した瞬間から、僕は彼女に惹かれていた。 彼女がセーラームーンであり、プリンセスだと知った後、惹かれた理由はそうだったからかと思ったこともあったけれど、すぐに違うと解った。 セーラームーンだから。プリンセスだから、ではない。彼女が『月野うさぎ』という一人の少女だから、惹かれた。好きになっていた。つまりは彼女がセーラームーンでなくても、プリンセスでなくても、僕は彼女のためになら、なんだってする。出来る。『天王はるか』として。 使命も宿命なんて関係ない。僕にそう思わせた――唯一の人。 けれども、前世からの彼女の相手が、すでに傍にいると僕には解っていた。 彼女たちには約束された未来があることも、知った。だから、それまで生きてきた性を、捨てようと思った。 彼女の傍に、ずっと、居続けるために。 今度こそ幸せになって欲しい彼女のために。彼女を混乱させ、困らせないようにしようと思った。 彼女を守ることの出来る、戦士でいようと思った。――けれど。 「やぁ、仔猫ちゃん」 僕は、たったひとりの唯一の人の前に、立った。 みちるの言うとおりだ。 僕は彼女に対する想いを昇華できてなどいない。限界が来ている。誤魔化すこともできないほど。これ以上目を逸らすことに何の意味があるのだろう。 僕の心は彼女だけを求めている。 男性。女性。どちらの姿でいたって、僕が心から求めているのは、月野うさぎたったひとりだ。 「僕の目の前で他の男とデートなんて、僕を煽って、嫉妬させるだけだよ。それとも僕を嫉妬させるのが目的なのかな?」 「はるかさん?」 きょとんと、無防備に。不意の邂逅に驚いて瞬きしている少女の大きな瞳が、僕を見上げる。 その無防備さが愛しくて、僕は少女の左手を掬い上げるように取り、少女らしい指先に恭しく唇を寄せた。 きっと驚き、戸惑いながらも、少女はただ愛らしく顔を真っ赤にしているだろう。 そう考える僕の隣で、みちるが肩を竦める気配がした。 開き直りは早いわね、と、呆れた声が聞こえた気がしたけれど、僕はそれを無視する。 そして、突き刺さるような視線を向けてくる存在に、挑む眼差しを向けた。 「誰かは知らないけれど、馴れ馴れしく僕のプリンセスに触らないでもらおうか」 牽制と挑発。そのどちらも込めた言葉を言いながら、僕は少女の腕を取って引き寄せた。 少女の髪に絡められたままだったアイドルの指が、するりと離れる様を確認して、やっと、肩の力が抜ける。 覚えるのは、深い安堵。 「はるかさん?」 僕の口調の厳しさに、少女が少しだけ戸惑った声で僕を呼ぶ。それに安心させるように笑い返して、僕はみちるの共演者らしい少年に対峙した。 僕の突然の出現と行動に、呆気に取られていた星野光というらしい少年は、我に返ったとたん、むっとした顔を隠しもせずに僕を睨み返してきた。 「なんだよ、あんた」 向けられる好戦的な眼差し。敵意にも似たそれの中には、突然現れた僕に対する警戒心と共に、腕の中にいる少女に安易に触れることができる僕に対する嫉妬が込められている。 こんなことで優越感を感じるほど子供のつもりはなかったけれど、僕は、自分で思っている以上に子供だったみたいだ。 抱き寄せた華奢な体躯を、僕は、囲うように抱き締める。 とたん、厳しくなる眼差し。露にされる感情。 あからさまな敵意は、ぴりぴりと空気を刺激して、肌を刺すかのようだ。 でも、きっと、それは向こうも同じなのだろう。 不快そうに寄せられた眉根。僅かに歪められた表情。 僕と、そして星野光を、少女が不安そうに交互に見ている。 大切な少女にそんな表情を浮かべさせたいわけではないけれど、譲れないし、引けない。 僕は少女を完全抱きこみながら、 「僕は、この子を守護する者だ」 知りたいのは名前じゃないだろうと思ったから、あえて名乗ることはせず、ただ、簡潔な事実だけを口にした。 僕の、少女に対する立ち位置も、明確にはしなかった。 ただ僕にとっての少女の存在の大切さ、少女へ向ける想いの深さ、それらが相手に伝わればいい。 僕の言葉に、星野光がかすかに目を瞠った。 言葉の真意を探るようなその仕草に、僕の胸の奥、警戒のシグナルが明滅した。 僕は目を眇め、警戒も露に星野光を睨みつける。 彼は、危険だ。とても。 僕らにとって。彼女にとっても。 戦士としての勘だった。嫌になるくらいこの勘は当たる。彼女を守るためならば。 「――お前、何者だ!?」 硬い声で問いかけると、僕の隣でみちるの空気も警戒のそれに、確実に変化したのが判った。 腕の中の少女だけが、変わらず、無防備に僕たちを見ている。 もっと警戒心を持って欲しいと願ったところで、無駄だろう。馬鹿がつくほどのお人好し。人を疑うことを知らない無垢な魂は、ただ、すべてを包むためだけに転生した。きっと。 僕は、今度こそ、このプリンセスを守りきる。どんな者からも。どんなことからも。 もちろん、目の前の得体の知れない奴からも! 僕の問いかけに、星野光の眼差しがわずかに鋭くなった。あからさまな警戒。 あぁ、これは、と思った。 彼は僕やみちると同じ匂いがする。 戦士だ、と、確信した。 「去れ。僕らの前から消えろ」 僕は鋭く命令した。 不愉快そうに星野光の顔が歪んだけれど、それは一瞬だった。 苦笑するように星野光は笑って、ふと、全身の力を抜いた。それから肩を竦めて、 「タイムオーバー」 とそう言った。 「星野?」 僕の腕の中で、プリンセスがやっぱり空気に気づいていなかっただろう声音で、どうしたのだろうと、不思議そうに少年を呼んだ。 「残念、迎えがきちまった」 おどけた口調で星野光がそういった途端、短くクラクションが鳴らされた。 それは、まるで、少年を呼びつけるような音だった。 星野光は、深い溜息をひとつ零して、僕らの横をすり抜けていく。 すれ違いざま、 「またな、おだんご」 僕の腕の中の少女に声をかけ、長い髪に指を絡ませた。 「え? あ、うん。またね、星野」 少女は嫌がる素振りも見せず、返事を返す。 むっとした僕がその手を払いのけようとするより先に、少年の手はするりと離れる。 まるで僕を挑発するようなタイミングだった。 僕がどれだけ少女を守ろうとしてガードしても、関係ない。いつでも簡単に触れることができる。攫うことだってできる。そう宣言されたのだと解った。 僕はぎりっ、と、奥歯を噛み締める。 剣呑な空気を纏ってしまっていると、自覚はしていた。 このままでは、いくら鈍い子だとしても、僕の剣呑な気配に気づくだろう。そうわかっていても、苛立ちを消すことはできなかった。 車のドアの開閉の音。二言三言交わされる会話の気配。それから、すぐにドアは閉まって、車が走り出す気配。遅れて、あちらこちらから上がる悲鳴にも似た騒ぎ声。煩いくらいの。 「スリーライツ!」 街中で叫ばれたその名前が、伝播していく。甲高い叫びは、確実に広がってゆく。 僕の中にその名前を刻み付けるように。 僕に、警戒を怠るなというように。 「……逃げられたわね」 苦笑混じり、みちるがぽつりと言った。 「あぁ」 僕は硬い声で短く応えを返す。 それから、力を抜く。思っていた以上に、緊張をしていた僕は深く息を吐き出した。 「はるかさん……」 僕を呼ぶ少女の声は、少し、心配げな音をしていた。 労わるように僕を見つめる瞳は、わずかな不安を滲ませている。 余計な心配をさせてしまった。その後悔に、僕はたっぷり自嘲の混じった苦笑を口端に滲ませた。 「駄目だよ、仔猫ちゃん。無防備な振る舞いは、勘違いさせてしまうよ」 「はるかさんもみちるさんも、星野を警戒してるの?」 少し戸惑っている問いかけに、僕は、しっかりと頷いた。ここで曖昧にしてしまえば、この少女は警戒の二文字を忘れてしまう。 「星野はアイドルなんてやってるけど、――まぁ、時々、わたしのことからかってくるし、変な奴だけど、悪い奴じゃないよ」 微塵も疑っていない言葉に、僕は溜息を禁じえなかった。 見れば、みちるも苦い顔をして少女を見ている。 言葉を失った僕らの空気に気づいたのか、僕の腕の中で、少女は困ったように言葉を続ける。 「わたしのクラスメイトまで警戒していたら、大変だよ?」 その一言に、僕は一瞬、息を詰めた。 クラスメイト。同じ教室にいるのか。 押さえようのない焦燥が、僕を支配した。 いつも、いつも、僕の手の届かない場所にいる少女。 無力な自分を思い出す。 このままじゃ……。 このままではまた、手の届かないところへ、この少女が消えてしまう。 そんな錯覚。――否、予感。 不意に、さっきみちるの言った言葉が思い出された。 『前の性別に戻ってはいかが?』 僕を唆すように、その言葉が繰り返される。 躊躇いが、ないといえば嘘になる。 このまま同じ性でいれば、友達として、この子の傍にいられる。 戸惑わせることもなく、困らせることもなく。――その代わり、醜い嫉妬を、僕は少女の傍らにいる相手に向け続けなければいけないのだけれど。 いや、そもそも、僕が男性としての性を選んだとして、すでに将来のパートナーを持つ愛しいこの子が、僕を選ぶわけがないのだけれど……。 「どうかしたの、はるかさん?」 「はるか?」 黙りこんだままの僕を訝しむように呼ぶ、ふたりの声。 僕は迷うように視線を彷徨わせ、その途中で、相棒の視線と僕の視線がぶつかった。 僕の眼差しから迷いを感じ取ったのか、みちるが苦笑を零す。 視線だけで、みちるは言う。 迷わず、躊躇わず、僕の思うままに。心に従っていいと。 僕は返事の代わりに、ゆっくりと瞼を下ろし、それから深く息を吸った。 ゆっくり、ゆっくり、吸い込んだ息を吐き出す。 まるで神聖な儀式を前に、高ぶる気持ちを落ち着かせているような気分だった。 僕は、これ以上力を込めたら、抱き潰してしまいそうだと思いながらも、少女を抱き締める腕の力を僅かに強めた。 痛いだろうに、少女はなにも言わない。 ただ僕を心配そうに見つめている視線だけを、感じる。 その視線を受け止めるために、僕は、瞼を開いた。 青い瞳が、じっと僕を見つめていた。 この星の青そのもののような瞳を、僕は、じっと見つめ返しながら口を開く。 「ねぇ、僕の大切な――誰よりも、何ものにも代え難い仔猫ちゃん。心配だし、警戒もするよ。君に近づく奴すべてを、僕は一掃してしまいたいくらいだ」 「はるか……さん?」 僕の名を呼ぶ少女の声は、掠れていた。 怖がっているのか、怯えているのか、腕の中の華奢な体がかすかに震えだしていた。 怖がらせたくない。怯えさせたくない。困らせたくない。その気持ちに、もちろん、偽りなどあろうはずはないけれど、僕は解放しようと決めた気持ちに歯止めをかけるつもりなど、毛頭なかった。 「ねぇ、仔猫ちゃん」 唇を、少女の耳に触れそうなほど近づけ、囁く。 「覚悟して」 「え?」 「僕は、遠慮なんてもうしないと決めたよ。君をこの手で守れないなんて、真っ平だ。また失って後悔するのも、誰かの隣で君が笑っているのも、耐えられない」 「……はるかさん?」 「攫うから」 「……え?」 「君の心を僕に向けさせて、攫うよ。プリンスから。あのアイドルの手の届かないところまで」 腕の中の体が、大きく震えた。 僕は車が走り去った方向を、次いで、遠いアメリカのほうを睨むように見据えながら思う。 僕が宣戦布告するのは、彼らにじゃない。君たちではありえない。 この腕の中で、怯えて震える少女唯一人に。 「覚悟しなよ、――うさぎ」 僕は囁きながら、少女の耳の裏に淡い印を刻んだ。 END |
あれ?はるかさんが黒い気がする……。