Violet color

 コーディネーターの中ではたいして珍しくもない、ヴァイオレットカラー。それなのに、その瞳は、イザークの意識をすべて奪ってしまう―――そう錯覚してしまうほど、強く惹きつけられてしまう。
 一度視線を絡めてしまうと、なかなか視線を外すことができない。
 視線を外すことに、かなりの努力を要するのだ。
 他の連中はどうなのか知らないけれど、少なくともイザークは、いつもそうだった。
 そして、やっぱり今も、キラに視線を固定してしまったまま、ほとんど瞬きもできないでいる。
 キラはキラで、イザークから視線を外さないまま、どうすればいいのか判らないと言うように、全身で困惑してしまっているらしい。
 あちらはときおり瞬きをくりかえしつつ、イザークを見つめている。
 離れている距離は、ほんの数メートルほど。
 その数メートルの距離の間の通路を、慌しく人が通って、その度に視界が遮られて、互いの姿が見えなくなる瞬間だって数え切れないほどある。
 だから、視線を外すタイミングが掴めないわけじゃない。それにもかかわらず、視線は外せない。
 ああ、いや、違う。そうじゃない。外せないんじゃなくて。そうじゃなくて、外したくないのだ。
 キラに視線を固定したまま、イザークは視線を外せないわけを頭の片隅で考えていたが、ふと、『外したくない』から視線を『外さない』という自分の気持ちに気づいて、眉を顰めた。
 どうしてそんなふうに思うのだろう。
『外したくない』と思う気持ちの理由が、さっぱり判らない。
 小さな舌打ちをしたイザークの表情に気づき――恐らく、とても不機嫌そうに見えるのだろう――、不安そうに瞳を曇らせたキラの元へと、イザークはつかつかと、靴音も高く隙のない足運びで向かった。
 ほんの数メートル先にいるキラの元に行くまでに、数人の人波を避けた。
 誰にぶつかることなく目的の人物の元へと辿り着き、イザークはキラの前に立つ。
 突然近づいたイザークに驚いたらしいキラが、ぽかんと幼い顔つきでイザークを見上げてきた。
 その表情に、イザークはにやりと笑う。
 キラの意表をつけたことが、なんとなく楽しかったからだ。
 悪戯が成功したときの気持ちに、とても似ている。
 そういえばイザークからキラに接触をしたことなど、あまりなかった。
 その逆も然り。片手で足りるほどだ。
 その少ない回数も、誰かが必ず間にいて、イザークとキラだけでの邂逅など、もしかしなくても今日が初めてだ。
 だから、なんとなく楽しい気分になるのだろうか。
 子供じみたこんな感情は、ずいぶんと久しぶりだと頭の隅で思いながら、イザークは
「キラ」
 と、ぽかんとしたままの、久しぶりに会う相手に声をかけた。
 イザークが声をかけると、その声にはっとしたようにキラが瞬きをした。
 ゆっくりと、一回、二回。
 そして、改めてイザークをじっと見るヴァイオレットアイ。
 間近にこの瞳を見るのは、実に二年以上ぶりだとイザークは思った。
「イザーク! 久しぶり、元気そうだね!」
 無邪気な子供のような声がそう言って、イザークは思わず苦笑してしまった。
「ああ、久しぶりだな」
 頷き返しながら、イザークはこっそりと肩を竦める。
 たしかに久しぶりだ。だけど、いまの状況でもそれを呑気な口調で口にできるキラの、相変わらずのマイペース振りに、全身の力が抜けてしまった。
 けれど、そうして、やっと、息をつけたような気がして、イザークは吐息をつくように笑った。
 ああ、やっと一段落ついた、と、実感できた。
 実感したとたんに解けてゆく緊張感。消えてゆく高揚感。
 ほんの数時間前まで、命を危険に晒しながら、泥沼の戦場をモビルスーツで駆けていたことが、遠い夢の中の出来事だったようにさえ、思えてしまう。
 少し気が緩みすぎだな。
 そう思って、自分を戒めるように気を引き締め、イザークは真面目な表情でキラを見つめた。
 そうすると、キラも表情を引き締める。
 そして、「力を貸してくれてありがとう」と不意打ちでキラがそう言った。
 今度はイザークがぽかんとした顔をする番だった。が、気を抜いたのはわずか一瞬だけで、キラの言葉にイザークは「ふん」と鼻を鳴らした。
 わざとらしく顔を歪め、
「別に貴様らを助けたわけじゃない。議長のやりようが気に入らなかった、信じられなくなった、それだけのことだ」
 素っ気なく言い放ち「それに」とイザークは続けた。
「エターナルはザフト軍籍のままにしてある。自軍の艦を守って、何が悪い!?」
「――そう言ってエターナルを守ることを決めてくれたんだって、ディアッカから聞いたよ」
「あのお調子者の、おしゃべり男がっ!」
 盛大な舌打ちと共に親友を罵るイザークの態度に、キラが苦笑を浮かべた。
 その表情にはありありと「相変わらずだなぁ」と言いたげな感想が表れていて、それに気づいたイザークは、ディアッカの悪口をやめて口を閉ざす。
 憮然とした表情でキラを見据えていたイザークは、ふと、体を屈めた。
「え?」
 驚いて、瞬きを繰り返すキラの瞳をイザークは覗きこむ。
 澄んだ色の瞳だ。
 変わらない感想を心のうちで呟きながら、じっとヴァイオレットカラーの瞳を見つめ続けていると、
「ちょ……っと、あの、イザーク?」
 うろたえた声が聞こえたと同時に、キラの手がイザークの肩を軽く押しのけた。
 キラとの距離が開き、なんとなくそれが不快に感じられて、イザークは眉を顰めたが、少しだけ顔を赤くして、睨みつけるようにイザークを見ているキラに気づき、首を傾げた。
「なんだ?」
「…っ、なんだ、じゃないよ!?」
 キラが声を荒らげた。
「急に顔を近づけてくるから、びっくりするじゃないか! なに!?」
 衝動的に動いてしまったので、「なに?」と問われてもどう答えていいのか。答えるべき理由がイザークには思いつかない。
 理由なんかないと言えば、キラは呆気に取られた顔をするだろうと、難なく想像がついた。
 胸を逸らせるように背筋を伸ばし、イザークを睨むように見つめてくるキラの様子は、理由を聞きだす気満々だ。
 頑固な一面があったことを思い出し、イザークはああ、厄介だなとそっと溜息を零す。
 さて、いったいどんな理由を捏造してやろうかと思ったところで、ちょっとした悪戯心が湧きあがった。
 その本音の混ざった揶揄が、どんな結末をもたらすのか、当然、イザークは予想もしていなかったし、考えてもみなかった。
「……相変わらず、きれいだと思ったんだ」
「は? なにが?」
 キラが怪訝な顔を浮かべた。
「お前の瞳の色」
「きれいって、僕の、目の色……が?」
「ああ。特別珍しくもないカラーなのに、俺は、いつもお前の瞳から目を離せない。目を離すにはかなりの努力が必要だ。どうしてだろうと、いつも不思議に思っていて、その理由が知りたくて、つい、な」
「目が離せないなんて……、そういう言い方……。ついって……そんなのっ! 僕はすごく驚いたんだ」
 小さな呟きを落とし、なぜだか傷ついたように、キラが顔を歪めた。
 それに驚いて、イザークは僅かに伏せられてしまったキラの顔を覗き込んだ。
 イザークの視線から逃れるように、キラがさらに顔を伏せる。
 頑なな拒絶にあって、イザークの中に焦りが生まれた。
 落ち着かない気持ちのままに、「キラ? どうした?」と問いかけると、キラの唇が固く引き結ばれた。
 答えたくないと、そういうことだろうか。それとも答えるつもりがない、という、完全黙秘の意思表示だろうか?
 判断がつかなくて、イザークは途方にくれた。
 かける言葉も思いつかず、もう一度「どうした?」と問いかけることもできず、困惑ばかりが増す。
 所在無い思いで、イザークはキラの前に立ち尽くすしかなかった。
 格納庫のざわめきが、徐々に小さくなりはじめる。
 整備班のクルーたちが、一時的に収容した機体の整備を終わらせて、次々と引き揚げはじめたからだ。
 やがて格納庫は閑散となった。
 イザークとキラの間には、居心地の悪い沈黙だけが横たわっている。
 しんとした静寂は、居心地の悪さを強めるばかりだ。
 こんなときにこそ、ディアッカもアスランも気を利かせて、余計なお節介を焼きに来い! と、イザークは普段なら決して考えもしないことを思う。
 思うけれど、ディアッカもアスランも、こんなときに限って姿を現さない。
 期待を込めて視線を向けた出入り口に、人影はまったくなかったし、誰かが来る様子も、気配もなかった。
 まったく、肝心なときに役に立たないやつらだ。必要ないときにはしゃしゃり出てくる癖に! と、心の中でふたりに対して毒づき、いいかげん居心地の悪さが苦痛に変わりはじめたころ、ぽつりと、キラが言葉を零した。
「? キラ?」
 小さな呟きが聞き取れず、イザークはもう一度キラの顔を覗き込んだ。
 イザークの呼びかけに応えるように、キラが顔を上げる。
 傷ついたような表情のままイザークを見るキラと視線を合わせ、イザークはもう一度、
「どうした?」
 と問いかけた。
 とたんに、キラの顔がまた歪んだ。
 今度は泣き出しそうな表情を浮かべている。
 イザークは、呆然とキラを見つめることしかできない。
 いったい、イザークの何が、どんな言葉が、キラを傷つけているのか。顔を歪ませてしまうのか。
 イザークにはさっぱり判らない。
 どうしていいのか判らなくて途方に暮れていると、今度は聞こえるようにキラが言った。
「……キスを……されるのかと思って、とても、驚いて……。……驚いたけど、期待したんだ……イザークは、僕を好きだと思ってくれているのかなって。なのに……つい、だなんて、さ」
 イザークはキラの突然の言葉にうろたえた。
 キスをされるかと思った? 驚いたけど、期待した?
 誰が誰を好きだって思ったって?
 告げられた言葉の内容を処理しきれない。
 ちょっと、待ってくれ。なにを言い出したんだ、キラは!?
 混乱した気持ちで一杯になりながら、イザークは
「おい、待て!?」
「一瞬でも自惚れた自分が、馬鹿みたいだ」
「ちょっとまて、キラ!」
 キラの言葉に混乱したまま、焦りを隠せない声音のまま呼びかけると、やはり歪められたままのキラの顔が向けられて、イザークはキラのその表情で冷静さを取り戻した。
 ゆっくりと深呼吸をして、キラの瞳を見つめた。
 きれいな、瞳。
 イザークの意識を、視線を絡め取る、不思議な瞳。
 外せない訳。
 外したくない訳。
 キラの言葉に、すとんと。イザークの中でなにかが腑に落ちた。
 ああ、そうだったのか。なんて簡単で、なんて単純な理由だったのだろう。
 一目惚れだったのだ。
 ずっと自分の気持ちに気づかずにいた自分は、なんて鈍くて間抜けだったのだろうと、イザークは思う。
「キラ」
 静かに呼びかけると、緊張で強張ったキラの肩がびくんと震えた。
 怖がっているような、怯えきっているような震えだった。
 実際、キラはとても怖がっているのだろうし、怯えているのだろうとイザークは思う。
 異性の、好きな相手に思いを伝えるのだって、相当の勇気が必要になる。
 だけどキラとイザークは同性で。
 そんな相手に恋愛感情の『好き』を伝えるには、いったい、どれほどの勇気が必要だろう。
 拒絶されてしまったら。
 嫌われてしまったら。
 気持ちが悪いと軽蔑されたら。
 色々な、考えたくもない悪い想像ばかりが生まれて、それだけが心と頭の中を占めて……。
 どれほどの恐怖が、心を支配しているのだろう。
 イザークが自分の気持ちにもっと早く気づいていたら、そんな恐怖を感じさせることはなかった。あるいは、もしかしたら、もっと早くに自覚していたら、イザークこそがその恐怖を味わうだけでよかったのかもしれない。
 もっとも、そんなふうに思うのも、思えるのも、キラの心がイザークへと向けられていると解っているから、だろう。
「キラ」
 もう一度呼びかけて、イザークはそっと手を伸ばした。
 するとキラが怯えて、後退するように一歩足を後退させ、体を引いた。
 それでも、イザークの瞳から視線を逸らすことはなかった。
 なんて真っ直ぐな気持ちだろう。
 しなやかで強い気持ちだと、自分のことのように誇らしい気持ちになった。
 そして、強く強く自覚した愛しさ。
 かすかに震えている体へと、イザークは手を伸ばした。
 はっとしたように目を見開き、逃げようと動く体を、イザークは逃さないとばかりに抱き寄せた。
 成長したはずなのに、それでもキラの体はイザークの腕の中にすっぽりとおさまってしまうほど、華奢に思えた。
 もしかしたら、キラは少し痩せたのかもしれない。
 細い体を抱きしめながら、イザークはそんなふうに思った。
「イザーク……?」
 訝しげに名前を呼ばれたと思うと同時に、イザークの腕の中から抜け出そうと、キラが身を捩った。
 暴れるようにもがく体には、怖がっているせいでたいした力が入っていない。
 だから、イザークの腕を振り払えないのだろう。
 もっとも、どんなに抵抗されようが暴れられようが、イザークにはキラを逃すつもりはまったくなかったけれど。
「キラ」
 宥めるように名を呼んで、あやすように背中を軽く叩く。
 とん、とん、とん。
 ふっと、キラの抵抗する力が弱まったところで、もう一度。
 とん、とん、とん、……とん。
 リズミカルなイザークの手の動きに落ち着きだしたのか、諦めたのか。もしかしたらその両方かもしれないけれど、キラの動きが大人しくなった。
 息を潜めるような呼吸音が、わずかに拾える程度だ。
 けれど、密着した体から伝わるキラの鼓動は、とても速い。
 自分の鼓動の速さは、キラに伝わっているだろうか?
 イザークは抱きしめた腕の力を少しだけ緩めながら、そんなことを思う。
 思いながら、囁くように名を呼ぶと、キラの瞳が切なさを湛えた。
「驚かせて、不安にさせて、悪かった」
 ストレートに謝罪の言葉を口にすると、意表を突かれたようにキラの瞳が瞬いた。
 あどけない表情になってイザークを見つめるキラの瞳を、その視線を絡め取ってしまうように覗き込み、イザークは微笑んだ。
 相手を意識して微笑むなんてことをしたことがなかったから、成功したかどうかなんて自分では判らなかったけれど、キラが意外そうに目を見開いた後に、わずかに頬を染め、視線を逸らすようにした仕草で、ああ、なんとか笑えたのだとイザークは判断ができて、少し安心した。
 今気づいたばかりの気持ちを、ちゃんと言葉にできる勇気を得たような気がする。
 躊躇いもなく。
「キラは、俺が、好きなのか?」
 イザークはキラの耳元に唇を寄せて、そう尋ねた。
 訊ねたとたんにキラの肩が大袈裟なほど跳ね上がり、また、強張った。
 意識してか、無意識か、イザークの腕の中から逃れようとする体を、また抱き寄せて拘束した。
 抱きしめる腕に伝わる混乱。戸惑い。
 それを押し隠すように、キラが怒ったような口調で言った。
「好きだよっ! でなきゃキスをされるのかな、なんて、そんな期待しない。わかっているのにどうしてそんなことを訊くのさ!?」
「ちゃんとした言葉で聞きたいと思ったからだ」
「なにを?」
 キラが怪訝そうな顔で問い返してきたのに、イザークはおどけるように肩を竦めた。
「好きだって言葉を、聞きたかったんだ」
「なんで……どうして、そんなことを訊きたいなんて……」
 呟くように問いを口にしたキラの顔色が、わずかに青褪めた。
 その顔色の変化で、どんな想像をしたのかがわかって、イザークは苦笑を零す。
 拒絶されるとか、振られるとか。きっとそんなことを考えついたに違いない。
 イザークの腕の中に抱きしめられているくせに、よくもまあ、そんな悪い想像ができるものだと少々呆れながら、イザークはキラの頬に触れるだけの口づけをおくった。
「え?」と声にならない声で疑問を上げたキラに、イザークはもう一度笑いかけた。
「どうして聞きたいかなんて、そんなこと、決まっている! 俺がキラのことを好きだから、だ!」
「ぇ……嘘……」
「なにが『嘘』だ! そんな嘘をついても、俺には何のメリットもないだろうが、馬鹿者。素直に信じろ」
「本当に……?」
「本当だ!」
「本当に、嘘じゃない? これ、夢でもないよね!?」
「本当だ。嘘でもなければ夢でもない」
 念を押すように訊ねてくるキラに頷いて、イザークは疑り深いやつだなと呆れたように零した。
 イザークの呆れた口調に、やや不安げに瞳を曇らせたキラが、「だってさ」と呟いて、信じきることができない理由を口にした。
「イザークは会うたびにいつも僕を見つめるけど、僕のことを好きだって態度に出すわけでも、そういうことを口にするわけでもなかったから……」
 キラにそう言われて、イザークは一瞬、言葉に詰まった。けれど、すぐに口を開いて言った。
「さっき、気がついた――キラのことが好きだって」
「……さっき?」
「ああ、ついさっき。言っただろう? キラの瞳から目が離せなくて、ずっとそれを不思議に思っていたって」
 ヴァイオレットカラーに引き込まれる。
 絡まって、離せない、視線。
 無自覚だった感情。
 想い。
 好きという、気持ち。
 愛しさ。
 キラの言葉で、やっと、視線を外せない理由に。外したくないわけに気づくことができた。 
 それを素直に口にすると、キラが呆れたようにイザークを見つめてきた。
 キラの呆れた眼差しを甘んじて受けていると、やがて、キラが笑った。
 柔らかく、どこか大人びた笑顔。
 しょうがないなぁ、と、そんな雰囲気で、キラが笑った。
 イザークの一歩先を歩いているような笑顔が、イザークの気に障った。
 たしかに、好きという感情に気づくのが遅くて、キラに遅れを取ったけれど。
 ちょっとばかり、大人げがないと自分に呆れてしまうけれど。
 でも、相思相愛、両思いなら、遠慮する必要などないのだ。
 イザークよりも年下のくせに、妙に大人びた微笑を浮かべるキラの頤に、イザークは指をかけた。
「? なに?」
 不思議そうに目を瞬かせるキラの顔を、僅か、上向けさせて、イザークの意図に気づいたキラが身を引こうとするより先に、キラの唇を奪い、深く深く口づけて、イザークは甘いキスを心ゆくまで堪能した。

                                   END