優しい雨が降る夜に

 全身を濡らす雨の冷たさが気持ちよくて、目を閉じた。
 静かな世界の中に、ひそやかに響く雨の音が、柔らかく優しく、耳に届く。
 季節の変わり目の、この不安定な気候の時に雨に濡れるなんて、自ら風邪を引き込む要因だと理解はしているけれど、でも、自分はコーディネーターだからきっと大丈夫だろうと、イザークは降りしきる雨の中に佇んでいた。
 どれくらいそうしていただろう。
 雨音に混じって、切羽詰った声でイザークを呼ぶ声が聞こえた気がして、イザークは閉じていた瞼を押し上げた。
 夜の世界が瞳に映る。
 ゆっくり体ごと振り返ると、雨に滲んだライトが見えた。
 だんだんと近づいてくる光と、声。
「イザーク? どこにいるんだよ、イザーク!?」
「キラ!」
 雨音の隙間を縫うように届く、イザークを呼ぶ声。
 「ここにいる」と答えるように、イザークは声の主の名を呼んだ。
 その声が聞こえたのか、懐中電灯の光が闇の中をさ迷う。
 けれどイザークを見つけられず、戸惑ったようにあちらこちらに向けられる光に苦笑して、イザークはもう一度声を張り上げた。
「キラ、こっちだ」
 呼びかけて、イザークは光に向かって足を踏み出した。
 近づく光の眩しさに、イザークは目を細める。
 暗闇に慣れすぎた目に、雨に滲んでいるとはいえ、懐中電灯の光はきつい。
 やがてイザークの姿を捉えたキラが、闇の中で安堵の吐息を漏らしたのがわかった。
「イザーク」
 心配した、と、言葉にはされなかった非難を読みとって、イザークは「すまない」と謝罪をしながら、佇んでいるキラに近づいた。
 近づいたとたん、キラの顔が盛大に顰められる。
「傘も差さないで、なにをやってるんだよ!?」
 イザークを怒鳴りつけたと思ったら、キラが足早にイザークに近づいて、傘を差しかけた。
 すっかり全身が濡れてしまっているから、今さら傘なんて無意味だろうと思ったけれど、わざわざそれを口にして、火に油を注ぐようなこともないかと、大人しく傘の下におさまる。
 キラよりも背が高いから、身を屈めたままなのが苦痛で、イザークはキラの手から傘を受け取った。
「いくらコーディネーターでも、風邪を引くときは引くんだよ!? 解ってる!? ああ、もう、冷えちゃっているじゃないか! プラントの温度調整された雨と、自然の雨じゃ違うんだからねっ!!」
 遠慮なくイザークを怒鳴りつけながら、キラが手を伸ばして触れてきた。
 頬に触れたキラの指先の温かさに、無意識に吐息が零れる。
 人の温もりに安堵した。
 ずいぶんと体温を奪われていたんだな、と、他人事のように考えていると、その考えを読み取ったかのように、キラの表情が険しくなった。
「さっさと戻って、お風呂に入って体を温めなきゃ! 肺炎にでもなったらどうするんだよ!?」
 ほら、行くよ、と、イザークの手を取ったキラに引っ張られるまま、イザークは歩きだした。
 焦っている足運びのキラに、イザークは苦笑を禁じえない。
 なにもそんなに焦る必要などないのに。
 そう思いながら、イザークは声をかけた。
「キラ、大丈夫だから」
「なにが!?」
「まあ、風邪くらい引くかもしれないが、肺炎にはならない。そのためのコーディネイトだ。だからもう少しゆっくりと歩け。でないと石かなにかに躓いて、転ぶぞ。キラはどんくさいから」
 巻き添えはごめんだ。と肩を竦めてそう言うと、ぴたりとキラの歩みが止まった。
 キラが急に立ち止まったせいで、イザークはちょうど一歩分、キラを追い越してしまう。
 そのせいで傘から滴った雫と、降りしきる雨が、キラの上に降り注いだ。
 慌てて一歩分を戻って、イザークはキラに傘を差しかける。
 いつものからかいに、また機嫌を損ねたのかと思いながら、
「急に止まるな、馬鹿者。濡れてしまうだろう。風邪を引くんじゃなかったか?」
 叱りつけるように言うと、キラの頬がむっと歪んだ。
「平気だよ。僕だってコーディネーターだ」
 イザークへのあてつけと判る言葉を吐き出すと、キラは、掴んでいたイザークの手を離し、雨の中を歩きだした。
「キラ!」
 臍を曲げたキラの後を追いかけ、イザークはキラが濡れてしまわないようにと気遣って、傘を差しかける。
 イザークを無視するように歩くキラが放つ空気は、刺々しい。
 しまった。これは完全に怒らせてしまったなと、イザークは自分の浅慮に小さく舌打ちをした。
 キラの言う通りで、いくらコーディネーターでも風邪を引くときは引く。
 イザークが風邪を引いて寝込んだら、キラが心配しないはずがないのだ。……自惚れていいなら。
 させなくてもいいはずの心配を、わざわざさせる必要なんてない。
 イザークの、完全な失態だった。
「悪かったな」
 素直に謝罪を口にすると、キラが歩くのをやめた。
 立ち止まって、イザークを睨みつける。
 視界が闇に慣れてしまっているせいか、キラの表情を読み取ることは苦にならなかった。
 イザークも立ち止まり、キラの目を見つめ返した。
 そして、もう一度、謝罪を口にした。
「すまなかった、キラ」
「――本当に、心配したんだ」
「ああ」
「黙って出て行くし。夜になっても帰ってこないし。見つけたと思ったら、傘も差さないでずぶ濡れだし」
「散歩に出たのは、気分転換のつもりだったんだ」
 散歩に出てみようと思ったときは、雨なんて降っていなくて。
 降り出したときも、こんなことを言えば、キラはさらに怒るかもしれないが、濡れることなど気にならなかった。
 プラントの人工的な雨しか知らないイザークにとって、自然の雨は珍しい。
 だから、触れてみたかったのかもしれない。
 あんなにも憎み、蔑んだナチュラルたちの、……すべての生命の源の星を潤す雨の冷たさと、温かさを。
 一度、不可抗力で地球に降り立ったときは、脚付きを追い、探すことにすべての神経を注いでいて、地球の……自然を感じることにまで神経が回らなかった。
 空を見ても、砂漠を見ても、海を見ても、山を見ても、なんの感想も感慨もなかった。なにも感じなかった。
 今思えば、ずいぶんともったいないことをしていたんだと思う。
 そんなことを考えていたイザークは、気を引きように手に触れてきた温もりに、思考を中断した。
 目線を下げると、キラが戸惑ったような、申し訳なさそうな、そして少し泣きそうな顔でイザークを見ていた。
「マルキオ導師の家は、居心地が悪い?」
 そう訊ねられて、イザークは困った。
 素直に頷いていいのか、そうでないのか、判断がしづらかった。
 居心地が悪いのは、確かなのだ。あそこにはコーディネーターもナチュラルも無関係な戦災孤児がたくさんいて、彼らが親を失った原因の一端である自分は、身の置き場がない――気がする。
 自分たちが拡大させた戦禍の現実が、目の前に突きつけられている。
 息苦しくて、罪悪感ばかりが肥大して、戦争がとりあえずの締結をした一年後の今でさえ、子供たちにどう振る舞い、どう接していいのかがイザークには判らない。
 拷問だと思った。
 気が狂いそうな空間だった。
 自分の心の弱さを、まざまざと直視させられる場所だと思った。
 イザークの過去を知っても、一時的な感情を曝け出しただけで、後はなにごともなかったように無邪気に纏わりついてくる子供たちのほうが、よほど精神が出来上がっている。
 親を奪った者たちに対する蟠りも、怒りも、憎悪もあるだろうに、それを消化する術を。許す術をもっている。
 マルキオ導師の教えの賜物だろうか。
 それとも、子供だけが持っている、無邪気さゆえの特権か。
 そんな風に、誰もが――たとえば心の中で報復を誓っても、それを実行に移さず、ゆっくりとでも、時間をかけてでも消化すれば。消化していくことができるなら、争いは、……キラたちが言うところの憎しみと悲しみの連鎖というものは、少なくなっていくのだろうか。
 排斥という極端な思想は、いつか少なくなっていくのだろうか。
「イザーク、居心地が悪いなら、当初の予定通り、カガリが――オーブが用意したホテルに戻って良いんだよ? 僕の我儘に付き合うことはないんだから」
 答えに窮したイザークに、キラがそう言ってくれた。
 残酷な優しさを提示するやつだな、と、イザークはキラに気づかれないように口元を歪める。
 自分以外の人間にだけ、簡単に、逃げ道を用意するなと思う。
 現実を直視しろと、怒鳴りつければいいものを。
 まったく、なんてお人好しだ。
 そんなことを思いながら、イザークは首を振った。
「そんな逃げ出すようなみっともない真似を、誰がするか」
「……イザーク……」
「本気で嫌だと思っていたら、最初からお前の誘いに頷いたりしない。俺は子供ほど単純じゃないから、気持ちの整理に時間がかかるんだ」
「意地っ張り」
「なんだと?」
 言われた言葉に、イザークは眉を跳ね上げた。
 意地っ張りで、頑固で、強情なキラにだけは言われたくない言葉だ。
「どうして、そう、無駄に意地を張るのさ。誰も逃げ出したなんて思わないよ」
「…………」
「思っても、きっと誰も口にしないし。あ、カガリは遠慮なく言うだろうけど」
「…………おい」
 さらりと突き落とすようなことを言われて、イザークの声音は自然と低くなった。が、キラは意に介した風もない。
 それどころか、「僕、なにか言ったけ?」と首を傾げている始末だ。
 これだから天然人種は、と、心の中で舌打ちをして、溜息を吐き出した。
 そして、宣言する。
「――とにかく、俺は予定通り、最後まであの家に滞在する!」
「頑固者」
「煩い!」
 呆れたように呟かれた声を聞き流すことなく、イザークは怒鳴った。
 怒鳴りつけた後、ふと、意地悪な気持ちが湧き上がった。
 自分でも子供っぽいなと自嘲しつつ、イザークは意地悪な気持ちを言葉にしてみた。
「それとも、キラは俺が居ないほうが良いか? もしもキラが俺と一緒に居たくないなら、俺はホテルに戻るぞ?」
「え?」
「どうして欲しい、キラ?」
 意地悪い口調で問いかけて、イザークはキラの瞳を覗きこむ。
 闇の中でキラの紫色の瞳が揺れた。――と思ったのも束の間、強気な色を湛えた瞳が、キッとイザークを睨みつけた。
「なに、それ!? イザークこそ、僕と一緒に居たくないなら、ホテルに戻れば!?」
 売られた喧嘩は買う気らしい。おまけに、さらに熨斗紙つきで売りつけるようだ。
 思わず呆れてしまったイザークだ。
「逆切れするところか、ここは?」
 素直に、「一緒にいたい」の一言が出ていい場面じゃないだろうか。
 意地悪い言い方をしたのはこちらで、素直じゃないのはお互い様だけれど。
 思わず天を仰いで――ああ、でも傘の骨組みとナイロンの布地しか見えない――、そんなどうでもいいことを考えながら、イザークは目を閉じた。
 これ以上溜息をつきたくなかったからだ。
 誰が言い出したか知らないけれど。「溜息をつくたびに幸せが逃げる」なんて、そんな迷信を本気で信じてはいないけれど、なんとなく、本当に幸せが全力疾走して逃げ出してしまいそうな気がして。
 馬鹿馬鹿しいと、自分でも思うのだけれど。
「イザーク、聞いてる!?」
 ぐい、と、手を引っ張られて、イザークは視線を戻した。
 怒っている口調の割りに、なんとなく不安そうな顔をしたキラがいて、思わず苦笑が零れた。
「聞いている。人に喧嘩を売り返しておいて、そんな不安そうな顔をするな」
 言いながらイザークは少しだけ身を屈めた。
  涙が浮かび上がりかけている目尻に唇を寄せて、すぐに離した。
「〜〜キスで誤魔化す気!?」
「なんだ、口にして欲しかったか?」
「誰もそんなこと言ってない! ちゃんと答えろって……」
「キラこそ、俺の質問に答えたらどうだ? 最初に質問したのは俺だぞ?」
 答えたらちゃんと答えてやるさ、と言い添えれば、悔しそうにキラが顔を歪めた。
「……たい」
「聞こえない」
 雨の音に掻き消されてしまいそうなほど小さな声に、イザークは意地悪をするつもりはなくそう言った。
 言ったとたんにキラの顔がまた悔しそうに歪んで、
「イザークと一緒に居たい!」
 怒鳴るというか、叫ぶというか、自棄になっているような声を張り上げた。
「僕は答えたからねっ!」
 なぜか得意そうに、偉そうに胸を反らせたキラに、思わず笑いが込み上げそうになったイザークは、けれど、それを押し殺してキラに顔を近づけた。
 制止と文句を紡ぎかけそうな唇を塞いで、情熱的なキスを仕掛けて、力の抜けたキラの腰を支えてから、イザークは唇を離した。
 縋りつくようにイザークに抱きついているキラの耳元に、イザークは囁くように告げた。
「もちろん、俺もキラと一緒にいたい。だから、ホテルなんかじゃなくあの場所に滞在するんだ」
 甘い声で答えたというのに、
「ああ、そう」
 キラからは実に淡白な返事が返されて、イザークは肩を竦めた。
 肩を竦めて、抱きしめていたキラの体を離して、イザークは代わりにキラの手を握った。
「そろそろ、戻るか」
 握った手を引いて、イザークは歩き出した。
 イザークに手を引かれるままについてくるキラの気配は、「それは僕の科白だよ」と言いたげに、憮然としている。
 マルキオ導師の家が近くなって行くにつれ、次第に、キラの拗ねた態度も薄まって、消えて。
 イザークの滞在中の空き時間は全部僕が貰う約束だったよね、と、笑顔で確認をするキラに頷きつつ、どこに行きたい、あの場所に行こう、と、とりあえずの予定を決めながら、優しく降る雨の音と、弾んだキラの声に耳をすませながら、イザークは滲んで浮かぶ家の明かりに、まっすぐに歩みを進めた。

                              END