優しい夢をみた。


アーク〜キミの夢をみたよ


 静かな。ひっそりと静かな真夜中、キラは、目を覚ました。
 優しい夢を、見た。
 夢の内容が優しくて、目が覚めた。
 見た夢の内容をはっきりと覚えてはいないけれど、あまりにも優しくて―――優しすぎて、かえって、悲しくなって。優しい夢の中で、小さな子供のように泣き出してしまったキラの目元を、白くて長い指が、拭ってくれた。
 それは見ていた夢とは違う、優しい夢だった。
 その夢のことだけは、はっきりと覚えていて、切なさが増す。
 その切なさをなぞるように、キラは目元を拭った。
 しっとりと指先が濡れて、ああ、泣いてしまったんだと苦く思う。
 夢の中で、彼女が拭ってくれた涙。
 慈しむように触れてくれた指先は、温かかっただろうか。
 どんな感触だっただろう?
 それが思い出せなくて、キラは、夢をなぞる。
 夢をなぞれば、温もりを思い出せそうな気がした。
 回想の波に身を委ねれば、すぐに思い出すのは、穏やかな声音。
「泣かないで」
 ねぇ、笑って。
 笑った顔を見せて。
 わたしだけが見たことないのよ、と、困ったようにぎこちなく笑いかけてくれた少女、――最後に別れた姿のまま、永遠に年を重ねることのないフレイの、たいして難しくない要求に応えるため、キラは懸命に、涙を止めようとした。
 けれど、流れ出す涙をとめることはできず、キラも、そして幼さを脱ぎ捨てる前の少女の姿のままのフレイも、途方に暮れてしまった。
 お互いにどうすることもできずに、ただ、見つめあうように立ち竦んでいると、不意に、フレイが呆れたように言った。
「もう、キラは相変わらず泣き虫ね」
 そう言って、もう一度キラの目元を拭うと、フレイが伸ばした腕でキラを抱きしめた。
 抱きしめてくれた温もりは、けれど、どんなに頑張っても思い出せなかった。
 昔――それでも、一、二年ほど前のことだ――壊れそうだったキラを抱きしめてくれた腕のぬくもりも、もう、薄れてしまっている。
 どんなにあの優しい腕の感触を思い出そうとしても、思い出せない。
 胸を軋ませ、傷つける痛みも、そういえば最近では感じたことはなかったと、夢の中のことを思い出しながら、キラは思う。
 キラを抱きしめる腕を解き、フレイがキラの顔を覗き込んだ。
「泣くことなんてないのよ。泣かなくていいのよ。わたしのためにキラが泣くことないんだから」
「でも、フレイ!」
「泣かないでよ。笑ってくれたほうがいいわ。――ねぇ、キラ、笑って。あなたを笑えなくした張本人のわたしが言うのも変だけど、キラが心から笑った顔を、わたし、知らないのよ」
 わたしだけが知らないのって、なんだか悔しいじゃない。
 拗ねたフレイのその子供じみた口調に、唇を尖らせた仕草に、キラは可笑しくなって、笑った。
 不思議と涙は止まった。
 キラが笑うと、フレイの優しい顔がいっそう優しくなる。優しくなって、彼女も笑った。
 カレッジに通っていたときに何度か見かけた笑顔に、似ていた。
 無邪気で、華やかな笑顔。キラが好きだった表情だった。
 長く。本当に、長く奪われていたものだった。
「ミリアリアの言ったとおりね。キラの笑顔って、かわいい」
 満足そうに、けれど、少しだけ嫉妬を滲ませた口調でフレイにそう言われて、キラは一瞬、言葉を失う。
「……フレイの笑顔のほうが、かわいいよ!」
 我に返るなり叫んだキラに、フレイは肩を竦めた。
「それに僕は男なんだよ! 笑顔が可愛いとか言われても、全然、嬉しくないし!」
「……それって一般的な反論過ぎて、説得力に欠けるわ、キラ」
 落第点ね、と、さらりと告げられて、キラは夢の中、呆然と立ち尽くした。
 言葉をなくして立ち尽くしたキラをちらりと見やり、フレイが可笑しそうに笑う。
 くすくすと悪戯が成功した子供のように、楽しそうに笑って。――不意に、表情を曇らせた。
 後悔の滲んだ表情だった。
 なにを悔やんでいるのかキラにはすぐに判ったけれど、それには触れないでおこうと決めた。
 だって、せっかく夢の中とはいえ会えたのだ。
 会えて、笑いあえて。仲の良かった友人同士のようにじゃれあうことさえ、できた。今までずっとそうしてきたように。
 そんな心地良い空気を、壊すことはないと思った。
 そして、その気持ちはフレイも同じだったらしい。
 溜息をついて、ふるりと緩く頭を振って、後悔を振り払う。
 振り払って、彼女はキラを見て、もう一度笑った。
「キラ」
 呼びかける声が、とても、遠く感じられた。
 キラの中に焦りが生まれた。
 邂逅の時間は、もう、終わりなのだ。終わってしまうのだ。
「フレイ!」
 慌てて呼びかけて、けれど、伸ばしかけた指先を。彼女を繋ぎとめるために伸ばしかけた指先を、だらりと、下ろした。
 もう、掴まえられない。
 夢の中でさえ、フレイを捕まえ、留めておくことはできない。
「キラ、忘れないで。わたしはずっと、一緒にいるから。キラの中からわたしが消えてしまわない限り。消えても、忘れられても、わたしはずっと見守っているから。だから、泣かないで。――ううん、泣いてもいいけど……ひとりきりで泣かないで」
 約束して。
 囁くように届く声に、キラは約束する、と、返した。
 そのキラの返事に「ありがとう」と、遠くなった声がそう言って、そこで、キラは完全に目が覚めたのだ。
 思い出せる限りの夢の回想を終えて、キラは手で目を覆った。
 温もりを思い出すどころではなかった。リアルすぎる夢は、キラの精神を容赦なく痛めつける。
 まだ、すべてを過去にはできていない。吹っ切れてなどいない。後悔が、押し寄せる。
 どうして彼女を守れなかったんだろう。守りきれなかったんだろう。
 最高のコーディネーターだと言われたけれど、フレイを守れなかったキラは、非力な存在だった。きっと、誰よりも――他の誰とも変わることなく、非力な存在だった。
 それを思い知らされたような気分になった。
 震える吐息を吐き出して、キラは、そっと起き上がった。
 ベッドの上に膝を抱えてうずくまり、心を閉ざすように体を小さく丸める。
 大きく開いたままの窓から、波の音が忍び込んだ。
 耳に優しいその音は、けれど、なんの慰めにもならない。
 耳の届く波の音が邪魔に感じられて、だったら窓を閉じてしまおうとキラが顔を上げた、そのときだった。
 デスクの上に置いたままのパソコンのディスプレイが、淡い光を放出した。
 それから、通信を告げるコール音。
 こんな時間に誰だろうと、キラはデジタル時計を振り返った。
 時間は午前零時を回って、もうすぐ一時になろうとしていた。
 キラが出るまで鳴らし続けるつもりなのか、コール音はなかなか止まない。
 仕方なくベッドを降り、キラはキーボードに触れた。
 通信を繋ぐためのキィを叩き、繋がった通信画面に現れた人物に、驚きの声を上げた。
「イザーク?」
『久しぶりだな』
 いつも、どんなときも変わらない挨拶の言葉に苦笑を浮かべて、キラは「ひさしぶり」と返した。
「どうしたんだよ、こんな時間にイザークが通信をしてくるなんて、珍しいね。なにか急用?」
 キラがそう訊ねると、イザークの顔が苦々しいものへと変わった。
「ちっ」と舌打ちまでして、画面の中から睨みつけてくる。
「なに?」
 いきなり睨みつけられるその理由がわからないキラは、怪訝そうに画面越しのイザークを見た。
『また、泣いていたんだろう』
「え?」
 不機嫌な顔つきのまま言われて、キラは軽く目を見開いた。
『目が赤い』
「……照明をつけていないのに、よく判るね」
 隠す理由はなく、また、隠しても無駄なこともわかっているキラは、ひょいっと肩を竦めて、否定もせずにおどけたように言った。
 キラのおどけた口調に、イザークの瞳が一瞬細められたけれど、イザークは何も言わずに、「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。
『怖い夢でも見たか?』
 揶揄かう響きはなく、だからと言って特別心配をしている風もなく、淡々と問われる。
 素っ気ないと言ってもいいくらいの淡白な口調に、キラの顔に小さな笑みが浮かんだ。
 ゆっくりと頭を振って、キラは言った。
「優しい夢を見たんだよ」
 ぽつりと返した答えに、やはり淡々と『そうか』と返される相槌。
「内容は覚えていないけど、凄く優しい夢で。あんまり優しすぎて、夢の中で泣き出しちゃってさ。――そしたら、フレイが僕の涙を拭ってくれて……よけいに切なさが増して、目が覚めちゃったよ」
 情けないね。そう言って乾いた笑いを零すと、イザークは何も言わずに肩を竦めただけだった。
 それから、やはり淡々とした口調のまま、彼は言った。
『良かったじゃないか、優しい夢を見られて。泣けるくらい優しい夢が見られるようになって、おまけに会いたいと思っている人間に夢の中で会えて。いいこと尽くしだな』
「え? あ……、うん。そうだね」
 イザークの言葉に少しだけ驚いて、けれど、彼の言う通りなのかもしれないと思ったキラは、素直に頷いた。
 そして、イザークの言葉を心の中で反芻する。
 泣けるほどに優しい夢。――以前は、苦しい夢を見ても、悲しい夢を見ても、怖い夢を見ても。どんな夢を見ても、感情と心が麻痺していたせいで、泣けなかった。涙など、流れなかった。
 何もかもが心に、暗く、重く、圧し掛かってくるばかりだった。
 けれど、もう違うのだと、イザークの言葉で気づいた。気づかせて、くれた。
 嬉しくても泣くことがあるように、優しいだけの夢を見ても涙が出ること。
 感情のままに泣けることを、思い出させてくれた。
 イザークに言われるまで、キラはそんなことに気づかなかった。忘れていた。
 それに。
 会いたい人に夢の中で会える幸運。
 会いたくても、彼女はもう生きていなくて。現実の中で、キラの生きている世界の中で、もう会うことはできない。けれど夢の中では会えるのだということ。
 いつも、というわけにはいかないけれど。
 それでも、そう……夢の中で、会えるのだ。
 まだ傷は塞がっていなくて。苦しくなって、後悔に押しつぶされるような気持ちになるけれど、それでも、夢の中ででも彼女に会えるのは、嬉しい気持ちももたらしてくれる。
 切ないけれど、温かなものを、キラの心の、冷たくなりかけた部分にもたらしてくれる。
 過去に囚われて、忘れそうになるたびに、イザークはそれを思い出させてくれる。
「ありがとう、イザーク」
 キラが言うと、イザークが怪訝な顔つきをした。
『なんだ、急に』
 言いながら迷惑そうな顔をされる。
 礼など言われる筋合いはない。そう言いたげな顔だった。
「うん……なんとなくっていうか。イザークっていつも、僕が現実から目を逸らしてしまいそうになるときや、ひとりで泣いているときに、通信をくれるなって。全部分かっているみたいに、タイミングがいいなぁって。それに助けられているから。だから、ありがとう、かな……?」
 そう言うと、イザークは顔を歪めたまま、素っ気なく肩を竦めた。
 当然のことをしているのだ、と、そんな風にも受け止められる態度だった。
 イザークらしいその態度に、キラはそっと笑う。
 夢の残滓を引きずった心が。切なさが軽くなったキラは、改めて、イザークに問いかけた。
「あのさ、イザーク。なにか用事があるんじゃないの?」
 確かに、見計らったかのようなタイミングで通信をしてくるイザークだったけれど、いつもは真夜中に通信を寄越したりしない。
 連絡を取る時間として、非常識にならない。そんな時間帯を選んで通信をしてくる人だと知っているから、真夜中に連絡を入れてくるなど、よほどのことなのだろうと思ったのだ。
 切羽詰った空気はないから、悪い知らせがあるわけではないだろうけれど、それなりに緊急の用事なのだろうと、キラの表情が自然と引き締まった。
 が、しかし、そのキラの表情と対照的に、画面越しに見るイザークの表情が、居心地が悪そうなものへと変化していた。
 バツが悪そうな顔をするのは、珍しい。
 そう思いながら、キラが「イザーク?」と重ねて声をかけると、イザークの唇から溜息に似た吐息が零れた。
 諦めたような、観念したような。それでいてどこか開き直ったような。表現に困る空気が、イザークの周囲にあった。
 通信機越しでも、それは確実に伝わってきていた。
 なんだろうと首を傾げると、イザークが言った。
『最初に、祝わせてやろうと思ったんだ』
「は?」
 祝わせてやる? 突然すぎて、おまけに主語まで抜けているものだから、意味が判らない。
 眉を顰めて、キラはまた首を傾げた。
「あの、イザーク、意味が判らないんだけど。僕になにを祝え、って言っているのさ?」
『俺の誕生日だ』
「は?」
 告げられた言葉がとっさに理解できずに、キラはマジマジとイザークを見つめた。
 一秒、二秒、三秒…………。きっかり五秒の間イザークを見つめたキラは、イザークの言ったことを理解すると同時に大きく目を見開き、
「えええぇぇ!?」
 奇妙な叫び声を上げた。
『煩い』とイザークが顔を顰めて言ったけれど、そんな言葉はキラの耳には届いてなかった。
「誕生日って、今日!? ……今日って何月何日!?」
 言いながら、キラの視線がカレンダーを探してさ迷った。
 しかし、暗闇の中で目的のものは見つけられない。
 レトロな感じが気に入って、ペーパータイプの、スタンド式にしたのは間違いだった。
 暗闇でも分かるように蛍光タイプのデジタルカレンダーにしておけばよかった、と、舌打ちしつつ、キラは「照明オン!」と早口に叫んだ。
 キラの声に反応して、部屋の照明が煌々と灯る。
 部屋の明るさに目を細めながら、キラはカレンダーを見た。
 しかし、ベッドサイドのテーブルに飾ったカレンダーの日付を確認するより早く、イザークが、
『今日は八月八日だ』
 と、淡白に答えるほうが早かった。
「……八月八日……イザークの誕生日って、今日だったんだ?」
『ああ』
「そっか。――おめでとう」
『ありがとう』
 キラの言葉に、イザークの表情が優しく緩んだ。「ありがとう」と答えた声も、柔らかなものだった。
 少し照れたような空気を纏っているイザークを見つめ、キラは、
「でもどうして最初に僕に祝わせようなんて思ったのさ?」
 素朴な疑問を口にした。
 とたんにイザークがにやりと口角を持ち上げる。
 涼しげな色の瞳が、楽しそうに輝いたのは、どうしてだろう。
 首を傾げかけたキラの耳に、イザークの、面白がるような声が届いた。
『それを聞くのか?』
 答えなど分かっているのに? 暗にそう問われているような言い方を怪訝に思う間もなく。
『好きな奴に、誰よりも早く、一番に「おめでとう」と言ってもらいたいからに決まっているだろう』
 さらりと言われて、キラは、言葉を失った。
 時折、思い出したように告げられる「好き」という告白の言葉を思い出し、キラの頬に朱が走った。
 言葉を失ったままのキラに、イザークが笑いかけた。
 悪戯が成功して喜ぶ子供のような、屈託のない、笑顔だった。
 その滅多に見ることのない笑顔に、キラは、さらに言葉を奪われて、ただただ呆然としていると、
『じゃあな、キラ。お休み。次もいい夢が見られるといいな』
 イザークの、少し早口のその言葉が終わると同時に、唐突に、通信は切られた。
 ぶつん、と、パソコンの画面が黒くなって、それでも瞬きすら忘れていたキラが我をとり戻したのは、通信が切られてから数分後のことだった。
 真っ黒になって、イザークの姿を映してもいない画面をじっと見つめていたキラは、ふと、唐突に、フレイの夢を見る前に見ていた夢の内容を思い出した。
 優しくて、優しくて、優しすぎる夢。
「そっか……イザークの夢、見ていたんだっけ……」
 不器用な優しさで、いつもキラを救ってくれるイザークの夢を、見ていた。
 自然と顔が綻んだ。
「明日起きたら、一番に、イザークに通信を入れてみようかな」
 今日、誕生日を迎えて、新しく生まれ変わったイザークに、
「キミの夢を見たよ」
 そう告げたら、きっと、今夜驚かされた分の意趣返しはできるはずだ。
 優しい、優しい夢。泣きたくなるほど、優しい夢を。
 キミの夢を見たよ。
「好き」という言葉を、まだ、返せないかわりに、そう言ってみよう。
 部屋の照明を落としベッドに潜りこんだキラは、もう一度、あの優しい夢が見られるといいなと思いながら、瞼をおろした。

                                 END