―瞳・げんき

「水野と風祭は理想的なMFとFWの関係だね」
 東京選抜、何度目かの練習の帰り道。その途中、背後からいきなりそんなことを言われて、将は驚きながら振り返り、言った相手の姿を認めたとたんきょとんと目を見開いた。
「え……っと、郭くん……?」
 確認するように名前を唇に乗せ、将は数ヶ月前にチームメイトになったばかりの少年を見返した。
 郭と一緒に居ることの多い若菜と真田の姿がなくて、将はそれに少しだけ安堵した。
 やはり三人一緒のときに対峙すると、かなり緊張する。
 しかし、まともに口を利いたこともなく、それどころか足手まとい、邪魔扱いされていた覚えがあって、まさか声をかけられたうえに、認めるというか……褒めるようなことを言われるとは思っていなかった将は、ただただ驚くしかない。
 聞き間違いでもしたのだろうか。どんな反応を返せばいいのか判らず、将は困ったように唇を引き結び、郭を見返すばかりだ。
 同い年の少年はそんな将の仕草に、少し大人びた苦い笑いを浮かべて、もう一度口を開いて言った。
「水野と風祭は理想的なコンビネーションプレイができている、って言ったんだよ」
「…………ありがとう」
 どうやら、聞き間違いではないらしい。
 困惑を隠せないままだったけれど、とりあえず、将はそう言った。すると郭の苦笑が深まる。
 どうして苦笑なんて浮かべるんだろう、と将が思っていると、
「お礼を言われるとは思わなかったよ」
 将の心の中の疑問を読み取ったかのように郭が言って、少し笑った。
「……そう、かな? 郭くんは、嬉しかったらお礼を言わないの?」
「さあ、どうだろうね」
 肩を竦めて答えをはぐらかし、郭は将の瞳を覗きこむようにして、将を真っ直ぐ見つめた。
 急に至近距離で見つめられた将は驚いて、少しだけ郭から離れるように距離を置いた。
 くす、と、楽しげに郭が笑う。
「ねぇ、風祭」
「な、に……郭くん?」
「そんなに警戒されたら、話もできないでしょ」
「話……僕と?」
「そう、風祭と。今さらなんだと思うかもしれないけれど、風祭との溝を埋めたいって思って」
 郭に言われて、将は良い印象の残っていない出会いを思い出す。出会いだけでなく、その後のやり取りも、なにもかもが、将にとっては嬉しくないものばかりだった。
 郭たちにしても、それは同じだろう、と将は思う。だから言った。
「どうして?」
 郭の言うとおり、いまさらじゃないかな、と思ったからだ。
 確かに、嫌われたままだったり、嫌がられたままなのは嫌だと思うけれど、でもあえて近づく理由が見当たらない。
 郭たちのような、自分に自信と信頼を強く持った、いい意味でも悪い意味でもプライドの高い選手が、格下と決め付けている選手に近づくメリットなど、ないと思う。
 冷静に分析をしつつ、将は唇を噛んだ。
 そうだ。まだ、自分は正式なメンバーでもなく、ただの補欠で……。練習もまともにできていなくて、雑用が主な仕事で……。
(あれ?)
 ふと首を傾げる。
 郭は、いつ水野と将の連係プレイを見たのだろう?
 選抜チームを決める合宿のときも、その後も、将が水野とプレイをしたことはない。
「郭くん、いつ……?」
 疑問をそのまま口にすると、ひょい、と郭が肩を竦めた。
「いつだったか、風祭、水野と一緒に練習後に居残っていたでしょ?」
「あ……、うん」
 言われて思い出す。
 桜上水のグラウンドを使って練習をしたときだ。
 選抜練習が終わった後、慣れたグラウンドということもあって、水野と二人でちょっとボールを蹴ってから帰ろう、ということになった。
「見てたんだ……?」
「なかなか着替えに来ないし、どうしたんだろう、って藤代が騒いでいたら、渋沢がきっと練習しているんだろう、って言ってね」
 帰るときにグラウンドを覗いたら、渋沢の言うとおり、将と水野がボールを蹴っていた。
 水野のパスを受けてゴール前に走りこむひたむきな姿が、なぜか郭の心に焼きついた。
 まっすぐ、前だけを見つめて。
 水野の視線だけをちらりと確認して、走りこむ。
 水野の技術。それだけでは生まれようもない、プレイ。ふたりの間にある『信頼』という絆の深さに、正直驚かされた。
 アイコンタクトだけだった。
 ぴたり、将の足元に吸い付くように納まるボール。
 早くなる水野からのパスのスピードに、将は必ず追いついた。
 何度も、何度も繰りかえされた、パス&ゴール。
 二人だけの、練習。
 一馬や結人と、あんな風にアイコンタクトだけでプレイができたことなど、数えるくらいしかなかったように思う。
 一馬と結人を信頼している。けれど、長年一緒にプレイをしているから、お互いの癖、プレイスタイルを把握しきっている、その延長でのコンビプレイだったのだと、将と水野の練習を見て、思い知らされた気がした。
 将の表情が、なによりも綺麗な瞳が生き生きと輝いているのを見て、後から出てきた渋沢が眩しそうに目を細め、一緒にボールを蹴りたがった藤代に「邪魔をするな」と一睨みくれて、門限があるんだからと引きずって帰って行った。
「そっか……見てたんだ、渋沢さんたちも……」
 はにかみと困惑を織り交ぜた表情で将は言った。
「声、かけてくれたら良かったのに」
 邪魔なんかじゃなかったのに、と、呟いて、将は微笑した。
「集中していたから、遠慮したんじゃないの。風祭も水野も、波に乗ってる感じだったし、中断させるのは気が引けたんじゃない?」
 郭がそう言うと、将はことりと首を傾げた。
「そう……かな?」
 困惑を隠せない表情で言って、将は思い出す。
 冷やかし混じりで、からかわれたことがあったのだ。渋沢に。
「……たぶん、それだけじゃなかったと思うけど……」
 練習の邪魔になるからと、それだけからの厚意では絶対なかったと、将は苦笑を零す。
 あの頼りになるキャプテンは、時々、思いだしたように意趣返しをしてくれる。
 まだ、諦めていないよ、と、そう告げるように。
 その度に、ああ、まだ引きずられそうになる、と将は苦く思う。
 憧れと、淡い気持ちと。
 全部、切り捨てて。でも、痛みがあって……乗り越えられなくて。
 思い出だと思えるようになったのは…………。
「それだけじゃなかった、って?」
 将の言葉に郭が首を傾げた、そのときだった。
「風祭!」
 尋常でない声音で、将を呼ぶ声が聞こえて、将は郭の肩越しに水野を見つける。
「水野くん!」
 強張った表情で、睨みつけるように視線を当ててくる水野に、将は困惑する。
「悪い、待たせた」
 大股に歩み寄って、郭を追い越し、将の前に立つ。
 整った容貌の眉間に寄った、皺。
 隠しきれない、焦り。
 大丈夫なのに、と、将はこっそり笑ってしまう。
 心配することなんてないのに。
 誰になにを言われても、心は動かない。
 動くのは、水野の言葉に反応を返すときだけだ。
 だって、出会ってしまった。
 過去も、現在も、未来も、委ねて大丈夫な人に。
「待ってないよ」
 機嫌が悪いまま表情を歪めている水野の手に、将はそっと触れた。
 軽く、指先を握りこんで、恥ずかしくなって放す。
 郭の視線を、痛いほど感じたからだ。
「風祭」
 放すなよ。言いながら水野の手が将の手を取って、引き寄せた。
「え……ちょ……、水野くん!?」
 そのまま抱きしめられてしまいそうな勢いに、人の目があるからと、将は焦った声を上げた。
「いいんだよ」
「なにがいいの!? 人前だし、恥ずかしいし」
 だいたい、どんな噂が立つか判らない。
「噂なんて、立てられないさ」
 周囲に認めさせるような真似を、郭がするわけないだろう。水野が確信をこめて言うと、郭が唇を歪めたようだった。
「最近、こいつを見る目が変わったと思ったら」
 油断も隙もあったもんじゃないな。
 吐き捨てるように言って、水野は将の体を抱きこんだ。
 苦しいぐらいに抱き寄せられて、顔を真っ赤に染め上げつつ、けれど将は届く鼓動に安堵する。
 大丈夫。
 全部、委ねられる人の腕の中だ。
 恥ずかしさはあるものの、安堵のほうが強い。
 ことり、と、額を水野の胸に預けるようにくっつけると、将を抱きしめる手が少し緩んだ。
「……負けたなんて、認めないつもりだけど」
「勝手に思い込んでろ」
「随分、余裕だね」
「こいつが選んだのは、俺だ」
「ちょ…、もう、水野くん!」
 恥ずかしいことを、堂々と人前で口にしないで欲しいと思いつつ、でも嬉しさが恥ずかしさを上回る。
 そっと目を伏せて、名を呼ぶ。
 聞こえるか、聞こえないか、それくらいの小さな声で呼んだ。
 驚いたように目を見張って、水野が将を見返した。
 見つめてくる瞳に、将は微笑を返す。
「竜也」
 唇の動きだけで呼ぶと、優しい笑顔が返される。
「……風祭」
 呼ばれて、将ははっと我に返って、咄嗟に郭を見た。
 すっかり存在を忘れてしまっていた。
 いたのだ。人が。
 人前で、随分恥ずかしい真似をした自分に、将は真っ赤になりつつ、かろうじて、
「なに?」
 問いかけた。
 呼ばれたからには、無視をするわけにもいかない。
「俺は、まだ、諦めたりしないから」
 にっこりと、たぶん、極上と呼ばれる類の笑みを浮かべて言った郭に、将は首を傾げる。
「郭くん?」
 諦めない? なにを言っているのだろう? 不思議に思いつつ郭を見つめていると、返されたのは苦笑。
「鈍いね」
「……ごめんね、鈍くて」
 むっとなって言い返すと、「そうだね」と肯定された。
「水野には負けないよ、って話。風祭の、生き生きと輝いた目とか、表情とか、水野に独占させるつもりはないよ。いつか、俺に向けさせるから、って話をしているんだけど」
 これで解ってくれた? と問いかけられて、将は驚いて目を見張った。
 じっと郭を見返していると、ふたたび将を抱きしめる水野の腕の力が強まって、低く絞り出だされた声が、唸るように言い放った。
「恋人の目の前で、口説くなよ。将も、聞くんじゃない」
 言うなり、耳を片腕だけで塞ぐように抱きしめられてしまう。
 ちょっと息苦しいな、と思いつつ、将は汗と埃の匂いの混じる体臭を、嗅ぐ。
 一番、安心できる場所。
「郭くん」
 水野の胸に頬を寄せたまま、将は郭を呼んだ。
「将!」
 窘めるように名を呼ぶ恋人に、「大丈夫、違うよ」と安心させるようにその背中に腕を回し、抱きしめる。
 心は動かない。
 水野の言葉以外に、この心は動きはしないのだ。
 誰に、なにを言われても。
 どれだけ想いを込めた告白をきかされても。
 将の想いは、まっすぐに、ただ水野だけに向かう。
「ボクの全部を、ボクは水野くんにあげちゃったから、ダメだよ。ボクは水野くん以外見る気はないし、水野くん以外にボクを委ねたりしない」
 諦めて。
 無理でも、絶対、諦めて。
 心は一人の人以外に動かない。
 駄目押しのように言うと、郭が呆れた顔で将を見返した。
「ずいぶん、きっぱりと言うね」
「だって、はっきり言わないと、郭くん諦めてくれないでしょう?」
「言われても諦めるつもりはないけどね」
 にっこり笑って言うチームメイトに、将は呆れた眼差しを投げかけた。
「諦めちゃったら、そこで全部が終わるからね」
 諦めちゃダメだって、俺たちに気づかせたのは風祭だよ、と、不敵な表情で言った郭は、
「まあ、今日は、宣戦布告したからね」
 退散するよ、と、ひらひらと手を振って、水野と将を追い越して、去って行く。
 その背中を将は呆然と、水野はぎりぎりと睨みつけつつ、見送った。
 見えなくなるまで見送って、苦虫を噛み潰したような顔でいる恋人に、将は柔らかく笑いかけた。
「水野くん」
 呼びかけると、不安そうな表情が将を見つめる。
「大丈夫、だよ? 本当に、全部、水野くんに預けたから。ボクの全部を水野くんだけが自由にできるよ」
 好き、と小声で付け加えると、痛いほど抱きしめられた。

                                                  END