大好きなあなたへ


 ゆっくりと、――――触れる。
 ためらいを含んだ指先で、瞬きひとつしないで英士を見上げる将の目元。
 かすかに滲んだ涙を、指先で拭う。
 ふわり。
 花が綻ぶような。そう形容したくなる柔らかな微笑が、将の面に広がった。
 それだけで、全面降伏を決めさせられた。
 惚れた弱味とはこのことだ。英士は苦く口元を吊り上げた。
「好きだよ、風祭」
 自然に零れた想い。
 ずっと、言いたい言葉だった。その言葉だけを、英士は将に告げたかった。
 変わらない想い。
 募るばかりの、想い。
 伝える相手を、その術を失ってから、いっそう想いは強くなるばかりだった。
 将が英士からの告白に、軽く目を見張った。
「うん、ボクも郭くんが好きだよ。―――ごめんね、郭くん」
 英士の告白に応じた後、心底、申し訳なさそうに紡がれた言葉。ことりと、小さく傾けられる首。
 不安そうに揺れる瞳は、英士を見上げている。
 将の黒い瞳に映る自身の表情は、思わず目を逸らしたくなるほど情けない。けれど、目を逸らすわけにはいかない。
 英士が最初に、全面降伏をしてしまったのだ。
 退路は自ら塞いでしまったようなものだ。
 意地を張って、謝罪を受け入れないなど、できるわけがない。
 真摯な将の瞳を見返しながら、英士はそっと手を伸ばした。
 英士が覚えているよりも、将の頬はすっきりとしていた。
 幼さを残していた頬の面影を、探して、見つけるほうが難しい。
 しかし、それもあたりまえのことだ。最後に将と会ってから、もう、三年近くは過ぎているのだから。
 それでも、かつての面影を探すように、英士は将の頬に指を辿らせた。
 擽ったそうに首を竦めた将は、けれど、英士の指から逃げようとはせずに、英士の行動に身を任せるように、じっとしている。
 寝不足のせいなのか、少しだけかさついた唇に指を伸ばし、そっとその輪郭を辿り……ふと、英士は指先の動きを止めた。
 ずいぶんと遠い日に思えて仕方のない、『はじまりの日』をなぞる行為だと、自嘲する。
 将と出会って、惹かれて。奇跡のような確率で二人の想いを重ねあった、あの日。
 ぎこちなく、衝動のままに口づけようとして。けれど英士をきょとんと見上げる将の幼い仕草に、口づけることはできなくて、誤魔化すように唇を指で辿った。
 いつか、この唇に触れさせてもらうから、と、唇を辿る指先の仕草で告げたそのときを、英士は思い出した。
 言葉にもしなかった、一方的な宣言。
 その日はすぐに来るのだと、英士は信じて疑っていなかった。
 別離など考えたことはなかった。思いつきもしなかった。当たり前に、一緒にいられる日々がずっと続くのだと思っていた。信じてさえいた。
 あの頃、周囲からは「大人びた子供」と良く称されていた英士だけれど、例に漏れず、ずいぶんと幼い思い込みをしていた。
 そんな思い込みを一蹴するように、別離は簡単に訪れて、その現実に英士はただ呆然とするしかなかった。
 少しばかりの羞恥と自嘲を抱きつつ、英士がそれら日々を思い出しているとは思ってもいないのだろう。将は動きを止めてしまった英士を、不思議そうに見つめた。
 目を瞬かせている様子に、案外、将はそんな些細な出来事は忘れてしまっているのかもしれないと、英士は思った。
 言葉で伝えなかった、キスの予約。
 将は、きっと、気づいてもいない。
 気づいていないから、一言もなく英士の前からいなくなったのだ。何もかもを独りで決めて、渡独した。
 サッカーに対する将の情熱を思えば、渡独を責めることは筋違いだということを、英士は良く判っていた。
 相談をしてもらえなかったこと。黙ったまま、英士の前からいなくなったこと。それらが英士を打ちのめしたのだと言えば、きっと、将を傷つけてしまうことも、英士は良く判っている。
 英士の言葉に傷つくのではなく、英士を傷つけたということに、将は傷つく。
 英士の言葉を受け止めて、傷ついて、自分を責めて。
 それでも、きっと、何もなかったように笑うのだろう。
 そんなことはさせたくない。
 やっと、会えたのに。
 曇りのない顔で、笑ってくれているのに。
「郭くん?」
 呼ばれて、英士は我に返った。
 記憶よりも少し低くなった、けれども甘さを含んだ音に呼ばれて、それだけで英士の胸は一杯になる。
 ながく、失われていた音。
 もう二度と、取り戻せないと思っていた。
 大事なものを失ってしまったのだと信じて疑わなかった、あの頃。
 けれど、ずっと欲していた音が。人が、英士の目の前に居る。
 夢でも、幻でもなく、確かな現実として、やっと帰ってきたのだ。
 それを、強く実感した。
「郭くん、どうしたの?」
 再度、問いかけられて、英士は答えようと口を開いた。けれど、言葉が出てこない。
 言うべき言葉があるはずなのに、言えない。
 胸中に渦巻く思いが、言葉を奪う。
 唯一の手段を、奪ってしまう。
 もどかしくて、英士は将を力の限り抱きしめた。
 苦しいだろうに、将は文句も言わずにされるがままだ。
 英士を労わるように背中に回された将の手が、ぽん、ぽん、と、リズミカルに英士をあやす。
「……俺は、小さな子供じゃないよ」
 搾り出すようにして出した声でぽそりと告げると、英士の腕の中で将が忍び笑った。
 可笑しそうに笑いながら、「だって」と歌うように将は言った。
「郭くん、迷子の子供が母親を見つけたときのような顔をしているんだもん」
 情けない表情のままだとか、将の指摘どおりだとか、そんなことは充分に自覚があったので、英士は否定しなかった。
 否定の言葉の代わりにそっと腕の力を緩めて、将の顔を覗き込む。
 穏やかに、静かに微笑を浮べた将が、英士を見返す。
 相変わらず大きな瞳は、英士の記憶の中よりもずっと綺麗だ。
 その綺麗な瞳が、悪戯な光を湛えて近づく。
 少しだけ戸惑いを残しつつ、けれど強引な力に引き寄せられて、ぶれる、視界。
 あたたかな温もりを唇に感じて、将に口づけられているのだと気づき、英士は軽く目を見張った。
 予想外のできごとだった。
 労わるような、触れるだけの口づけは一瞬。
 はにかんだ将の頬は、うっすらと赤く色づいている。
 呆気にとられて、英士は将を凝視した。言葉もなく見つめていると、やがて将は困ったように眉根を寄せた。
 頬を紅潮させたまま、将は軽く英士を睨んで言った。
「郭くん、リアクションがないのは困るんだけど……?」
「え? あ、ああ……ごめん……ちょっと、驚いて……」
「どうして驚くの?」
 驚かれるのは心外だとでも言いたげに、将が眉根の皺を深くする。
「キスをしたいって、そういう意味じゃないの?」
 言って、将の指先が英士の唇に触れた。
 ためらいもなく英士の唇に触れる指に、少し眉をひそめる。
 英士の仕草をなぞる動きは、誘っているとしか思えない。
「……ずいぶん、大胆になったね、風祭」
「ぼくだって、いつまでも何も知らない、幼い子供のままじゃないよ」
 肩を竦めた将の言葉を、英士は複雑な気分で聞いた。
 約三年。英士以外の誰かと、恋愛の経験があってもおかしくない月日だ。
 英士がそう思っていると、将の表情が少しだけ険しいものへと変わった。
 怒ったように英士を見つめ、将は言った。
「ぼく浮気なんてしてないからね? ずっと、ずっと、郭くんだけ想っていたよ?」
「風祭?」
「愛情表現のオープンな海外に三年近くもいたら、いくら鈍いぼくでも、さすがにそういうことも判ってくるし、慣れるよ。だから、勝手に誤解しないでよ。他の誰とも、……郭くん以外の人とキスしたことなんてないよ」
 もちろん、キス以外もだよ。茶目っ気たっぷりに付け加えられた言葉に、英士は呆気に取られた。
 本当に、ずいぶんと変わったなと思う。
 甘い雰囲気に照れていた幼さは、すっかりなくなってしまった。おまけに、心情に聡くなった気がする。
 まるで英士の心の中の読んだように、不安を否定する言葉を言ってくれたことが、嬉しかった。
「風祭」
 呼びかけて、英士の唇に当てられたままだった将の指先を、そっと掴んだ。
 それで判ったのだろう。淡く頬を染めて、将が瞳を閉じた。
 英士は、将に口づける。
 羽毛のような柔らかなキスを何度か繰りかえし、真っ赤に染まった将の頬に気づいて、苦笑を零した。
 最後に額に口づけて、英士は将を抱きしめて言う。
「もう離さないから、覚悟してよ、風祭」
 拘束を宣言すると、将の腕が英士の背中を強く抱きしめ返した。
 強く抱き締め返され、
「ぼくだって、もう二度と郭くんから離れたりしない。だから、郭くんこそ覚悟してね」
 不敵で、それでいて、英士にとっては嬉しいとしか言いようのない言葉を返される。
 英士は小さく笑った。
 笑いながら、ふと、大丈夫じゃないのかと思った。
 英士が、いま、あのときの気持ちを口にしたとしても、大丈夫なのではないだろうか、と、そう思った。
 英士の言うことを静かに受け止めて、そして、真摯に言葉を返してくれるのではないだろうか。英士を傷つけたと、そんな後悔に囚われたりしないで、真っ直ぐに、正直な心で。
 だから正直に、英士は自分の心情を吐露してもかまわないのかもしれない。きっと、将もそのつもりだから、英士に会いにきてくれたのだろうから。
「風祭」
「なに?」
「風祭が黙って渡独したとき、俺は、とても淋しかったよ」
 そう言うと、英士を抱きしめ返す将の力が強くなった。
「ごめんね、郭くん」
 繰りかえされる、謝罪。そして、続けられる言葉。
「ぼくは、怪我なんかに負けたくなかった。怪我に負けて、夢を諦めて過ごすことに、耐えられなかった」
 英士は返事を返さず、ただ頷いた。
 将の気持ちは、良く判っているつもりだった。
 逆の立場であったなら、きっと、英士もそうするだろうと思うからだ。
「黙って決めてドイツに行ったのは、決心が揺らぐのが怖かったからだよ。郭くんと離れてしまうのは、たまらなく怖かった。ぼくだって、淋しいと思っていた。でも……」
 いったん言葉を切って、将が息を吸い込んだ。
 英士は先を促すことなく、将の言葉を待ち続ける。
 少しの沈黙の後、将が再び口を開いた。
「でも、郭くんと肩を並べて歩いて行きたかった。同じものを目指して、生きていきたかった。夢を諦めて、郭くんを、みんなを羨んで卑屈になりたくなかったんだ。だから……」
「だから、怪我が治る可能性に賭けたんでしょ」
 英士が先回りして言うと、将がこくりと頷いた。
「ごめんね」とか細い声で謝られて、英士はそっと嘆息した。
 少しばかり、先走りすぎたようだった。
 将にとっても、相談をしなかったという事実はしこりなのだろう。
 英士は、そっと体を離して将の顔を覗き込んだ。
 泣き出しそうに歪んだ表情に、笑いかけながら言った。
「風祭を責めているんじゃなくて、俺は、……ちょっと、拗ねてみせて、風祭に甘えてみたかっただけだよ」
 おどけた風を装って英士がそう言うと、驚いたように見つめ返された。
 思っても見ない言葉だったらしい。
 大きな瞳を、さらに大きく見開いて、ぽかんと口を開けている仕草に、英士は苦笑するしかなかった。
 しばらく将の顔を眺めていた英士は、まだ告げていない言葉があったことを思い出す。
 大事な、言葉。
 表情を引き締めて、英士は口を開いた。
「風祭」
「なに?」
「おかえり」
 口にしていなかった言葉を、音にする。
 やっと、英士の隣へ。腕の中へ帰ってきた、愛しい人へ。
 将の顔に、ゆっくりと微笑が広がって――――

「ただいま、郭くん」

 優しい音が、返ってきた。




                           END