〜雨やどり〜 ぱしゃん。 小さな水溜りの水が跳ねる音に、英士は俯けていた顔を上げた。 視界に飛び込んでくる、小柄な体躯。 出会ったときからの印象は、なかなか消え去らないものなのか、それなりに身長が伸びたはずの彼の印象は、英士の中ではいまだに「小柄な」まま。 黒く艶やかな髪は、降り出した雨に濡れて色味が濃く見える。 髪を伝い、顔中に流れる雨雫をときおり手の甲で拭いながら、彼は英士がいる場所を目がけて走ってくる。 その姿を見るともなしに見ていた英士は、彼の姿が近づくにつれて、落ち着きを失いつつある自分に気づく。 緊張に、自然と鼓動が速くなった。 「彼」はくるのだ、ここを目指して。 予想に違わず。 恨めしそうに空を見つめていた瞳が、諦めたように伏せられたのは一瞬。次の瞬間には、大きな瞳がまっすぐに英士を見た。 正しくは英士を見たのではなく、雨宿りをするつもりの建物の軒下を、見たのだけれど。 きょとん、と、不思議そうに瞬かれた瞳。ことりと傾げられる首。 盛大に降りしきる雨のことを忘れたように、彼――風祭将は足を止め、不思議そうに英士を見つめた。 なぜ英士がいるのか判らないらしい。 まあ、それも当然かと英士は思う。 練習が終わったのはすいぶん前。今日は将のように居残って、自主練をしていたやつはいない。とっくに帰途についている。 英士の忠告を半信半疑に聞きながら。 「郭くん?」 「……もうずいぶん濡れてるし、意味ないかもしれないけど、でもそのままそこにいたら確実に風邪を引くよ。とりあえず、こっちに来たら?」 「あ……、うん、お邪魔します」 英士が呼ぶと、恐縮した様子で将が近づいてきた。 「お邪魔します」って、別にここは俺の家じゃないんだけどね。思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んで、英士は少しだけ体をずらした。 わざわざ気まずい空気を作って潰すこともない。せっかくの、滅多にないチャンス。 場所を提供してもらったと思っているのか、申し訳なさそうに将が英士の隣に肩を並べ、困りきった様子で全身を眺めていた。 深い溜息をつきながら、濡れて体に張り付くシャツをつまんでいる。 肌に張り付くシャツの不快感は、良く判る。まして、練習の後の、汚れたシャツ。気分的に嫌なものだ。 「これ、使いなよ」 英士はバッグから新しいタオルを取りだして、将に差し出した。 差し出されたタオルに驚いたのか、将がぽかんとした顔で英士を見つめた。 無言で差し出すと、将が慌てて手を振った。 「いいよ! 駄目だよ、汚れちゃうよ!! でも、あの、気持ちだけは受け取るね。ありがとう、郭くん」 「でも、風邪を引くよ、風祭」 くりかえして言うと、将が困った様子で眉根を寄せて、どうしようかと逡巡する素振りを見せた。 英士は押し付けるように将にタオルを渡す。 押しに弱いのは相変わらずのようで、将は遠慮がちにタオルを受け取った。 「ありがとう」 恐縮したように呟くと、髪から滴る雨雫を丁寧に拭き、顔や腕を拭きだした。 それを眺めていた英士は、もう一度バッグに手を伸ばして、大判のタオルを取り出し、雨で冷えているだろう将の肩にタオルをかけてやる。 一応の用意をしてきて良かったな、と、内心で呟きつつ、弾かれたように英士を見つめる将の瞳を見返し、自分の姿が映っているのは不思議な感じがするなと思った。 こんなに間近で話をするのは、もしかしなくても初めてだ。 「郭くん?」 戸惑いを隠しきれない声が、問いかけるように英士を呼ぶ。 「雨で冷えてるんでしょ? 少しはマシじゃないかと思って」 「でも、それを言ったら郭くんだって……あれ?」 首を傾げた将は、曇天から落ちてくる雨粒と、自分の濡れた体と、まったく濡れた様子もない英士を順番に見比べた。 「……ずるい」 しばらく英士が濡れていない理由を考え込んでいたらしい将が、ぽつりと零した言葉に、英士はかすかに眉根を寄せた。 ずるい? 「なにが?」 疑問はそのまま英士の口をついて零れ、将の恨めしげな視線に晒される。 「郭くん、雨が降る前に雨宿りができた?」 「ああ、まぁね」 「いいなぁ」 拗ねた口調でそう言った将は、視線を空へと向けた。 「今日、雨が降るなんて、天気予報では言ってなかったよね?」 そう不満を洩らした将に、英士は「そうだね」と頷いた。 確かに、今日の雨量予想は0%だった。けれど、英士はその予報が外れることが判っていた。 人に言い触らしたりしないが、天気に関する英士の勘が外れることは滅多にない。気象台の発表より信用性が高い、とは、英士の勘に絶対の信用を寄せている両親や、親友たちの言葉。 「困ったなぁ、今日は傘を持ってないのに……」 言いながら、将が無意識に視線を落としたことに、英士は気づいた。 自然と英士の視線も、将の視線を追う。 ジャージに隠された、手術の痕。 それを思い出して、英士はかすかに眉を寄せた。 嫌でも忘れられない、瞬間。 関西選抜との試合中、突然倒れた将の様子に気づいたコーチや監督の声に、一気に混乱したフィールド内。飛び交っていたのは、「担架!」「救急車もだ!!」そう怒鳴る声。それから将を呼ぶ、たくさんの声。 重苦しく、不安を孕んだ緊張の中、英士は倒れた将に駆け寄りながらも、なにもできず、声をかけることもしないで、ただ呆然と立ち尽くしていた。 痛めた膝を抱え込んで、苦痛に呻く将を、ただ見ていた。 こんなふうに天気の悪い日は、古傷が痛むものだ。 「……膝」 「え?」 「痛むんじゃないの、膝」 「――うん、ちょっとだけ」 頷いて、将は吐息を零した。 もう一度空を見上げて顔を顰め、ついてない、と、口の中で呟くその様子に、英士はもしかして思う。 「今日は、お兄さんは迎えに来ないの?」 「……デートだって」 呆れ気味に呟いた将の言葉に、英士は苦笑を零した。 過保護が過ぎる将の兄は、いまごろ、デート先で顔を真っ青にして慌てふためいていることだろう。 突然の雨に困っているだろう大事な弟を心配しつつも、デートの相手を放り出すわけにいかない。 ご愁傷様。 将には聞こえないように呟いて、英士は傘を取り出した。 「よかったら送って行こうか?」 「え?」 「迷惑でなければ」 英士と、英士の手にある傘を見比べ、将は瞬きを二回した。 「用意がいいね、郭くん」 「今日は雨が降るって判っていたからね」 「え? でも……?」 「天気予報では、確かに天気がいいって言っていたけれど、雨が降るって俺には判っていたからね」 「え? え……判ってたって、郭くん?」 英士の言っている意味が理解しきれないらしく、将は困惑して首を傾げている。 その、思わず小動物を思わせる仕草。 ああ、変わっていないな、と安心してしまう。それを嬉しく思っている自分がいる。 やっぱり好きだな、と思って、英士の表情は自然と綻んだ。 英士を良く知る親友たちが、今の英士を見たら、きっと、すごく驚くことだろう。 自分自身がそう思うほど、いま、英士は穏やかな表情を浮べていた。 「郭くん、気報予報士になりたかったことでもあるの?」 将の唇から漏れたその一言に、英士は思わず呆気に取られて、吹き出した。 なるほど、そういう発想もあるのか。 天然なところも変わっていない。 くくく、と、肩を震わせて笑っていると、英士が笑っていることに驚いていたらしい将が、むっと頬を膨らませた。 「郭くん」 可愛らしい仕草としか言いようのない表情で睨まれて、けれど、迫力なんか全然なくて。 「ごめん、風祭が思ってもみなかったことを言うから」 ずっと笑ったままだと将の機嫌を損ねからと、英士は笑いを噛み殺してそう言った。 「だからって、そんなに笑わなくても……」 納得いかないらしく、そんな風に呟く将に、英士は「ごめんね」ともう一度謝って、言った。 「俺は…って言うか、俺も、ずっと、サッカー選手になりたかったよ、ずっと小さい頃からね。それ以外になりたいものなんて、なかった」 「うん」 頷いた将の瞳に浮かんでいる好奇心。英士に対する興味。知りたいと思ってくれているのだと驚くと同時に、嬉しくなった。 将がそう思ってくれていることが、嬉しくて仕方がない。 同じチームに属していながら、決して、近い存在ではなかった、出会った頃。 見下して、言葉で、態度で傷つけていた。 あの頃は意地やプライドに邪魔されて、なかなか伸ばせなかった手。かけられなかった声。 そんな過去がなかったように、将は気軽に英士に近づいてくれるから。 少しでも近くなれるなら、近づきたい。 将に自分のことを少しでも知って欲しいと、沸きあがってきた欲求を抑える必要はない。 「だから、勘だよ」 「勘?」 「そう。天気を当てるのは勘。特技に近い勘だよ」 「すごい!」 向けられる瞳に浮かんだ、純粋な感心。 なんとなく照れくさい気持ちになった。 まっすぐな賞賛は、正直、慣れていない。 照れくさくて、くすぐったくて、少し居心地が悪いような落ち着かなさ。 けれど、嫌な感じも、悪い気もしない。 むしろ、温かくて、優しい空気。 「郭くんにそういう特技があるなんて、ぼく、全然知らなかった。……一緒にフィールドに立ったこともあるのにね」 知り合ってずいぶんと時間が過ぎたのに。 少しだけ淋しそうな、残念そうな口調で言った将に、英士は頷いた。 いつでも悔いていた。 近づけなかった、過去。 邪魔をしたのは、プライド。見栄。 近づかなかったのは、英士自身。 意地を張っていた。 くだらないものに、囚われていた。 「そうだね」 「でも、これからもっとたくさんの、お互いのことを知っていけばいいよね!」 あっけらかんと。 親しい人にあったとき、あたりまえに挨拶を交わすような気軽さで。まるで、過去になにもなかったかのように、将はそう言った。 そんな気軽さに英士は驚いたけれど、それは一瞬の間だけだった。 すぐに、ああ、そうだ。こういう奴だ、と苦笑する。 将は、簡単に、他人が勝手に作った壁を壊して、境界線を越えてくる。 最初から、将にはそんなものはないから。 純粋な気持ちを、捨てずに、忘れずに存在している人。 一度は知った「確実」とまで言われた絶望でさえ、将を壊すことができなかった。 強く、まっすぐに。 名は体を表すというけれど、確かにそうだ。 「風」の名を持つ将が、いつだって、心地の良い風を運んで、淀んだ空気を清浄にしてきたのだ。 「風祭は」 「うん、なに?」 「……いや、なんでもない」 「? そうなの?」 不思議そうに首を傾げる将に、 「なんでもない」 ともう一度言って、英士は傘を開いた。 「帰ろうか――っと、その前に風祭はシャワールームだね」 「え、でも、郭くんを待たせちゃうことになるよ!」 「別に、気にしないよ。シャワーで汚れを落として、温まって、着替えて帰ったほうがお兄さんも安心すると思うよ」 「う…ん、だけど……」 「もちろん、風祭が俺と一緒に帰りたくないって言うなら、俺は先に帰るよ」 「そんなこと言ってないよ!」 「だったら、一緒に帰ろう。傷痕が痛むなら誰か一緒のほうがいいでしょ。練習後に自主練して酷使したなら、なおさら。痛み方が普段よりは酷いと思うしね」 誰かと一緒なら、他愛ない話に、一時、傷の痛みを忘れられる。不安に押しつぶされることもなく。 心の奥底に封じただけの、消えることのない、あの「絶望」を思い出すことはないだろう。 傷と痛みが齎す仮定の未来を、思い描くことはないだろう。 「……ありがとう、郭くん」 優しいねと、雨に紛れて聞こえた言葉を無視して、英士は軒下から一歩出た。 振り返って、将を手招く。 躊躇は一秒足らず。 英士の傘の中に、将が体を滑り込ませた。 並べた肩。縮まった距離。 はじまりの、第一歩。 傘を持っているのに雨やどりをした理由を、英士が将に告げるのは、もう少しあとの話。 END |