〜瞳の奥の未来つなぐ願いごと


 背中に感じた気配に、ぴんと、背筋を伸ばした。
 全身で、気配を追う。
 楽しげに、リラックスして笑っている声。
 英士を前にしたときには、聞かせてくれない、音。
 自業自得とはいえ、それでもそれを悔しいと思いながら、気に入りの音楽を聴くときのように、英士は瞼を閉じ、音を拾うことに集中する。
 耳が追いかける声は、成長期をすっかり終えたいまでも、少し高い。
 それが耳に心地好く響く。
 好きな、音。空気の振動。そのなかのひとつ。
 柔らかく、優しい、声。
「英士?」
 不意に、無粋なノイズが混じった。
 結人の声に、英士は少々苛立ちながら、閉じていた瞼を開いた。
 結人が英士を呼んだことで、背後の会話が一瞬途切れたようだったけれど、すぐに会話は再開された。
 その様子を背中で探りながら、英士は目の前で怪訝そうな顔をしている腐れ縁の友人を見返す。
 尖りそうになる声をなんとか押さえこみながら、問う。
「なに、結人?」
「……なにって、急に黙り込んだと思ったら、目を閉じているからどうしたのかと思って。もしかして、体調悪いのか?」
「大丈夫か、英士? 顔色は悪くなさそうだけど」
 心配そうに声をかけてくれる友人たちに、英士は苦笑を浮かべながら、
「大丈夫だよ」
 そう言った。
 でも、と続けられる前に英士はにっこりと笑って、それ以上の追及を拒絶する。
 隠しもしない英士の断固とした拒絶に、結人と一馬が視線を交し合って、仕方がなさそうに肩を竦めた。
 英士に向けられる二人の眼差しの中には、隠しきれない呆れ。
「……ま、慣れているけどな、英士の我儘と唯我独尊には」
「そうそう、伊達に英士の友人はやってないし」
 冗談交じりとはいえ、言いたい放題言ってくれる友人たちを、英士は軽く睨みつけた。
「調子に乗りすぎじゃないの、結人も一馬も」
 口は災いの元っていうでしょ。にこり、笑うと、友人たちは大袈裟に怖がって見せた。
 他愛ないじゃれ合いを続けていると、ふと、視線を感じた。
 ゆっくりと肩越しに振り返ると、きょとんと見開かれた大きな瞳と視線が合う。
 風祭将の瞳がゆっくりとまたたかれて、ふわりと柔らかな笑みが英士に向けられた。
「いつも楽しそう。本当に仲が良いよね、郭くんたち」
 穏やかな、優しい声でそう言って、将はもう一度にこりと微笑んだ。
 幼い頃と変わらない、穏やかで、無邪気で、優しい笑顔だと英士は思う。
 サッカー選手としての絶望を、一度は知ったはずの将の笑顔には、けれど、少しの曇りも翳りも残っていない。
 将の芯の強さを、英士はこんなときに思い知る。
 誰よりも小柄で、けれど、一番したたかな精神力を誇っている。
 英士が知るサッカー選手の中の誰よりも、将はしたたかで貪欲だ。
 羨望すら抱いてしまうほどに。
 あるいは、嫉妬をしてしまうほど。
「風祭たちも、仲が良いでしょ」
 思わず呆気に取られてしまうほど、将と、将の周囲にいるチームメイトたちは仲が良い。
 一緒にいられなかった数年間。その時間の隙間を埋めようとするかのように、時間さえあれば会っているのだと、そう小耳に挟んだことがある。
 暗にそれを含めて言うと、将がそっと苦笑するように笑った。
 それは、意外な反応だった。
 将の性格を考えれば、仲が良いと言われて、嬉しくて仕方がないというように笑うのだと思っていた。
 将の苦笑の意味を図りかねて、英士は怪訝な顔をしてしまった。
 それに気づいた将の苦笑が、少し、困ったようなものに変わる。
 小首を傾げて英士を見返す将の表情は、記憶の中よりも成長しているけれど、それでもどこかまだ幼さを感じさせた。
「風祭?」
 問いかけるように呼ぶと、将が一歩、英士に近づいた。
 それに、英士は驚く。
 手を伸ばせば触れられそうな距離。
 試合中や練習中以外で、こんなに近い距離で接したことはなかった。
 なぜだか、少し、緊張してしまう。
「……仲が良いように、見える?」
「え?」
「ぼく、みんなと、ちゃんと仲が良いように見える?」
「風祭?」
 意味が、解らない。
 英士は怪訝な顔を浮べることしかできない将の発言に、戸惑った。
 まるで、そう見えるように振舞っているのだとも取れる発言。
 言葉を見つけられずに黙り込んでいると、将が何かに気づいたように「あ」と小さな声を上げた。
「ええっと、ごめん」
「は?」
「誤解をさせるような言い方して、ごめんなさい。そうじゃなくて……別に、ぼくがみんなに合わせているとかじゃなくて、今までみたいに、みんなとぼくはちゃんと仲が良く見えているのかなって……、ええっと、だから、どこかぎこちないとか、不自然には見えてないのかなって」
「ああ、そういうこと」
 やっと将の言いたいことが判って、英士は得心がいったと頷いた。
 思わず失笑してしまう。
 無用の心配だと教えてやるほうが親切だろうか。
 別に、誰一人として、義務感で将の傍にいるわけではないだろう。
 傍にいたいから、傍にいる。
 将の怪我のことを、心の奥底で引きずっているらしい人間はいるだろうけれど、罪悪感にも似た感情を上回る想いを抱いて。そして、怪我のことを気遣いながら、やはりそれを上回る想いを抱いて将の傍にいる。
 誰もが、ただ純粋に将の傍にいたい。それだけ。
 けれど、その想いは将に届いていない。
 伝わっていない。
 近すぎて言葉が足りないばかりに、負い目を持っているから、みんなは傍にいるのだろうかと、そんなことを将が思っているなんて、きっと、誰も思っていないだろう。
 英士も、今の今まで、将がそんなことを考えているなんて思ってもいなかった。
 怪我のことも、なにもかも、きれいに消化してしまっているのだと思っていたくらいだ。
「……今までどおりって言うか、前以上に風祭にべったりだね、みんな」
 将の肩越し、談笑しているチームメイトたちを見つめ、揶揄をこめて言うと、軽く睨まれた。
 意外な反応に英士は、軽く驚く。
 揶揄に、ストレートな反応を返すとは思っていなかった。
 ……いや、仲が良い相手になら、ストレートな反応を返すだろうけれど、悲しいかな、英士と将はチームメイトという垣根をいまだに越えていない。
 だから、当たり障りのない反応を返されるだろうと思っていた。
 それなのに、将の反応は英士が思っている以上にストレートな上に、ころころと表情を変える将を間近で見るのは初めて。
 ああ、そうだ。それに、こんなにゆっくりと話をしたのも、初めてだ。
 将の反応に驚いている英士の耳に、拗ねた声が滑り込んできた。
「……甘やかしてくださいって、ぼくがお願いしているわけじゃないからね」
 くすり、と、英士は小さな笑いを零した。
 幼い子供のような言い方が似合っていて、なんだか、微笑ましい。
「知ってる。風祭がどうこうより、周囲の連中が風祭にかまっているんだってこと、見ていれば判るよ。だから、みんながべったりだって言ったんだよ」
 過保護、溺愛。
 そんな言葉がぴったりだと思うほど、英士たちよりも早くから将のことを知っていたやつらは、将にかまっている。
 そして、常に、誰も寄せつける気はないといわんばかりの堅固なガード。
 将のことを受け入れず、認めなかった人間が、あとからその存在の大きさに気づいて、近づこうとしても近づけないくらいに。
 割り込む余地はないのだと、見せつけるように。
 ずっと、それが腹立たしかったけれど。
 周囲にいるチームメイトたちは、どういうわけかいま、ガードを怠ってくれている。
 きっと、英士と将が話をしていることに、誰も気づいていない。
 一馬と結人も、どういうわけか、せっかくのチャンスに気づいていない。
 ふたりだって、将とちゃんと話をしてみたいと言っていたのに。
 英士と将の存在を置き去りにしたまま、周囲はそれぞれの話題で盛り上がっている。
 たくさんの人間がいる中で、英士と将しかいない錯覚を抱いてしまいそうだ。
 英士はこの好機を見逃すような人間じゃなかった。
 いまよりももう少しだけ親しくなるために、言葉を継いだ。
「甘やかされているって思われるのが嫌なら、交友関係に変化をつけてみたら?」
「え?」
 英士が言った言葉に、将が虚をつかれたような顔をした。
 大きな瞳を何度かまたたかせて。首を傾げる様は小動物のようで、微笑ましい。
 気持ちが自然に和む。
 僅かに表情を緩めながら、英士はきょとんとしている将を見ていた。
 しばらく英士の言葉を考え込んでいたらしい将は、しかし、言葉の意味を理解できなかったらしい。
 言葉どおりに受け止めてくれればいいのに、難しく考えでもしたのだろうか。
 そう思うと、苦笑が零れてしまった。
「あの、郭くん……」
「そんなに難しく捉えることはないよ、風祭。そのままの意味」
「え?」
「だから、風祭を甘やかしそうにない人間と友達になってみたらどうかな?」
「ぼくを甘やかさない人と……? あ、そうか。黒川くんや翼さんみたいな?」
「………………」
「郭くん?」
 不思議そうに英士の顔を見つめる将に、英士は緩く首を振った。
 黒川や椎名は、充分、風祭を甘やかしている。――というか、甘やかしすぎでしょ、と言おうとしてやめた。
 甘やかされているという認識が、将の中で確立していないのだ。
 英士の指摘に将が納得するとは思えなかった。
 こほん。英士は空咳で一瞬の沈黙を誤魔化し、口を開いた。
「――まあ、そうだね。黒川や椎名のようなタイプの人間でもいいけど、たとえば……そう、俺を友人に加えてみる、とか?」
「えっ!?」
 素っ頓狂な声を上げて、将が目を見開いた。
 呆然とした顔で英士を見つめ返す将の表情に、英士はかすかな自嘲を禁じえない。
 今日、このときまで、どんなに将と親しくなりたいと思っても、友好的な態度を取った記憶も、素振りを見せたことはないから、予想もしていなかった言葉を言われて驚くのは、当然の反応だとわかっている。
 解っていても、それを目の当たりにすると、やはり、気分は沈みこんだ。
 それを態度に出すことはなかったけれど。
「…………冗談だよ」
 考えたこともなかった。そう言われるのが怖くて、英士はなるべく淡々とした口調でそう言った。
 とたん。
「え、冗談なの?」
 将の唇からそんな言葉が零れ出て、英士は咄嗟に反応できず、半ば呆然と将を見つめ返した。
「冗談……だったんだ?」
「風祭?」
 自嘲めいた微笑を浮べた将の、どこか気落ちした様子に、英士は戸惑った声をかけた。
 ちらりと英士を見返した将の瞳に落ちている、翳。
 ゆっくり、ためらいがちに開かれる唇を、英士はじっと見つめた。
「嬉しかったんだけど……そっか、冗談だったんだね」
 続けられた言葉に、英士は目を見開いた。
 英士の思惑から大きく外れた言葉。
 将の言葉、仕草は、英士の予想をことごとく裏切る。それも、嬉しい意味で。
「風祭」
 呼びかけると、将がそっと英士と視線を合わせた。
 まるで怯えているような、傷ついているような、そんな仕草だった。
「風祭は、俺と友達になりたいって、そう思ってくれていたの?」
「ずっと、昔からぼくはそう思っていたよ」
「ずっと、そう思っていた?」
 将の言葉を繰り返すように問いかけると、将はこくんと頷いた。
「ずっと。……選抜チームを選ぶための合宿で出会ったときから、ずっと、……ずっと、ぼくは郭くんに片想いしているままだよ」
「……えっ!?」
 驚きに、英士は心臓が止まった気がした。
「……片想いって……風祭が、俺に?」
 呆然と繰り返した言葉に、将が苦笑とも自嘲とも取れる笑みを浮かべて頷いた。
「ごめんね、気持ち悪いことを言って。迷惑だよね」
 信じられない思いのまま、英士がじっと見つめていると、居心地が悪いのかそっと視線が外されて、将がぽつりとそう言った。
 英士の視線から表情を隠そうとするように、俯いた横顔。
 英士は躊躇いながら、その横顔――頬に指を伸ばした。
 温かな体温が指先に伝わるのと、将が弾かれたように顔を上げ、英士を振り仰ぐのは同時だった。
 信じられないものを見つめるように開かれた瞳に、笑いかける。
 作ったものじゃなく、自然と浮かんだ笑顔だった。
「気持ち悪くないし、迷惑じゃないよ。実を言うと俺もね、ずっと、風祭に片想いしていたよ」
 告げることにためらいはなかった。
 それどころか、将の誤解を一秒でも早く解いておきたい。いや、解いておかなければ、と、焦燥に駆られた。
 伸ばされた手を。想いを、振り払い切り捨てる勇気は必要ない。
 欲しいのは、それを掴み、引き寄せる勇気。
 将の傍らで生きて行く未来。
 一緒に生きて行く、未来。
 英士の言葉に、将が大きな目をゆっくりと瞬かせた。
「え?」
「ずっと、ずっと、風祭を知れば知るほど仲良くなりたいと思っていたけど、なかなか言い出すチャンスがなくて」
「郭くんが? 本当に? 冗談じゃなくて?」
「同じ気持ちだったって知って、冗談にするほど馬鹿じゃないつもりだけど」
 肩を竦めて言うと、「そうだね」と言って、将がふわりと笑った。
「嬉しいな」
 ぽつりと零された言葉。
 独り言めいたそれに、英士は「うん」と頷く。
「俺も嬉しいよ。風祭に好きって言ってもらえて。好きだって言えて」
 頬を撫でるように指を滑らし、掌で将の頬を包み込んだ。
 恥ずかしそうに顔を赤くした将が、けれど、その手に頬を摺り寄せてそっと瞳を閉じたから、英士は顔を寄せてキスをしようと思ったのだけれど、ぱっちりと開かれた瞳に無言で抵抗される。
 上目遣いに軽く睨まれて、
「ダメだよ」
 早口に言った将が、英士の腕から逃れるように身を引いた。
 掴まえる暇も、繋ぎとめる暇もない、素早さ。
 眉を顰める英士に、将が困ったように笑いかけた。
 そして、そっと、英士の背後と将自身の背後を窺っている。
 その動作で、英士はここがどこであるのか思い出して、肩を竦めた。
「仕方ないね」
 なぜか邪魔が入らないままだけれど、気は抜けない。
 もしかしたらみんなは気づいていて、知らん顔をしているのかもしれないけれど、その気まぐれがいつまで続けられるのかは判らない。
 なにより、焦る必要はもうない。
 離れたことで安心しているのか、無防備なままの将の腕を取り、英士はその指先に素早く口づけた。
 きょとんとした将が、顔を真っ赤にして「郭くんっ!!」と抗議の声をあげ、将と英士のやり取りに本気で気づいていなかったみんなが顔を青褪めさせるまで、あと、十秒。



                                  END