たいせつなひと〜帰る場所

 自分の部屋を飛び出した将は、躊躇うことなく、一年間だけ通った武蔵森学園へ向かった。
 こんな時間に向かっても、門扉は閉ざされている。
 いや、昼間にあの学園へ足を運んだとしても、門前払いをされるだけだろう。
 最近は、どこの学校も警備が強化されているから。
 そんなとりとめのないことを考えながら、目的地までの切符を買って、将は駅構内へ入った。
 階段を駆け上がり、丁度、ホームに入ってきた電車に乗った。
 ちらほらと空席が目立つ車内を見渡した将は、けれど座席には座らず、邪魔になるかなと思いつつも、戸口に立つ。
 車内の電気の明るさと外の暗さが、窓ガラスを簡易の鏡に作り上げている。
 そこに映る自分の顔は、少し、泣き出しそうだ。
 情けない表情を消すように、将は瞬きを数回繰り返した。そして、じっと、目を凝らすようにして窓の外に視線を注ぐ。
 ビルやマンションの灯りが、ほんの数秒だけ目に映って、流れた。
 一駅停まるごとに、目指す場所が近くなる。それに比例するように、将の鼓動も速さを増す。
 乗り換えの駅に着いて、将は電車を降りた。
 何気なく振り返った車内は、一瞬閑散としたけれど、降りた人と同じだけの人が乗って、また、電車はホームを滑るように出て行く。
 それを見送るようにして佇んでいた将は、心を落ち着けるように深呼吸をして、乗り換え口へと足を進めた。
 かつて住んでいた町へ行く路線に乗り換え、将は、さきほどと同じように戸口に立つ。
 やはりさっきと同じように、流れる景色を見るともなしに眺めていると、やがて懐かしいけれど、あの頃と少し違う空気を纏っている景色が、窓越しに見えはじめた。
 見覚えのある建物。見たこともない建物。
 車内アナウンスが「桜上水」と駅名を告げて、電車がスピードを落としはじめる。
 ゆっくりと電車は停車して、ドアが開いた。
 夜気を含んだ、ひんやりとした空気が、心地好かった。
 東京とは思えないほどのんびりした空気が流れるホームに、将は降り立つ。
 ずいぶんと長い間、この場所には足を向けていなかったことを、ぼんやりと思う。
 ドイツから帰国して、強化合宿に参加して。合宿が終わるとすぐにこの町を訪れたけれど、もしかしてここに来たのはそれ以来、かもしれない。
 本当は、すべてのはじまりであるこの町に住みたかったけれど、物件条件と交通利便の事情から、ここから離れた場所に部屋を借りることになってしまった。
 住んでいた当時より綺麗に整備された改札口を抜け、記憶を辿るようにして将は歩き出した。
 住宅街を通り、母校である桜上水中学の前を通り、武蔵森学園へと向かう道を、将は逸る心を落ち着かせるようにゆっくりと歩いた。
 一夫歩みを進めるごとに、当たり前だけれど、目的地が近くなる。
 逸る気持ちと、緊張で、将の心臓は壊れそうなほどだ。
 そのくせ、足取りは少しずつ重くなっていく。
 いまさら、冷静な部分が、囁きを落とす。
 約束をしたわけでも、待っているというメッセージがあったわけでもないのに、なにも考えずにこんなところまで来てどうするんだ、と。
 一人相撲じゃないのか?
 竹巳のプレゼントしてくれたCDを聴いて、いてもたってもいられなくて、衝動に突き動かされるままに足を運んだけれど。
 何も考えないで、ここまで来たけれど。
 笠井竹巳がいる可能性と、いない可能性は半々。――いや、いて欲しいと、将が望んでいるだけだ。
 いない可能性が高い。
「……ぼくは、ばかだな」
 自嘲をこめて呟いて、将は足を止めた。
 電柱ごとに取り付けられた街灯に照らされて、ぼんやりと武蔵森学園周囲の塀が見える。
 あの頃は、桜上水よりももう少し離れた距離にあったような気がしたけれど、思いのほか近かったことに少し驚く。
 でもこんなことを言ったら、きっと、みんなは口を揃えて「それはコンパスの差だ」と苦笑気味に言うのだろう。
 いまでも背が高いと口が裂けても言えないけれど、確かにあの頃の将は、標準よりもずっと小柄だった。
 標準を上回る仲間たちと並んで立てば、居た堪れない気持ちになったほどだ。……いまでも、できれば真横に並んで立ちたくないなぁ、と思うけれど、それは内緒だ。
 そんなことを考えていた将は、数歩分だけ歩いて、また止まった。
 そっと傍らの塀を意味もなく見つめ、息を潜めるような呼吸をくり返す。
 あまりにも静か過ぎて。
 時折届く、車の走る音やバイクの走る音は、この静寂の前には、音だと認識するのも間違っているように思えた。
 将は迷うように数歩歩き、また止まり。また数歩分歩いては、止まりをくり返した。
 それをくり返しているうちに、正門の近くに辿り着いていることに気づく。
 鼓動は、壊れそうだった。それほど早く心臓が高鳴っている。
 立ち止まったまま目を凝らす。
 街灯に作り出された濃い闇のなかに、人影は見えなかった。
 失望と、やっぱりという思いが湧きあがって、将の口元は歪んだ。
「……バカみたいだ」
 ぽつりと呟きを落として、将は足元に視線を落とした。
「でも、会いたかったな……」
 竹巳くん、と、声にならない声で名前を呼ぶと、不意に泣き出したい気持ちになった。
 耳の奥に、竹巳がくれたCDの音がよみがえって、切なくなった。
 衝動だけでここに来たけれど。
 勝手に会えると確信を抱いていたけれど。
 竹巳の姿はなく、誰もいない現実に、心の一部が凍りついてしまった。
 会いたかったのは将だけだった。
 もう一度。離してしまった手を、もう一度掴みたいと思ったけれど、将だけが望んだことだったのだ。
 竹巳にはもう、将は必要がない存在だと、そういうことだろう。
 だから、竹巳はここにはいない。
 そもそも竹巳が、どんなつもりでCDをくれたのか。まだ、竹巳も将に対して好意を向けてくれているのか。
 知りたかったけれど。訊いてみたかったけれど、それすら、もう、知ることはできない。訊くこともできない。
 その手段は絶たれた。
 将は竹巳の現在の連絡先を、知らない。藤代か、渋沢あたりに訊ねれば分かるかもしれないけれど、訪ねることはできない。
 将と竹巳の間にあったことを、誰も知らないのだ。
 将と再会した地区予選の日でさえ、竹巳は将とは無関係を装っていた。
 それがわかっていたから、将も竹巳とは面識がないように振舞ったのだ。
 一年のときのクラスメイトで、席も前後で。クラスメイトの中でははじめて言葉を交わした相手。
 おかしいと解っていても、好きで。大事な人になるのに、時間なんてかからなかったほど、親密だった相手だったのに、意外なほど簡単に、お互い知らん顔ができていた。
 あのプレゼントは、だから、竹巳のただの気まぐれだった。
 そう思うしかない。
 気を取り直すようにして息をつき、将は顔を上げた。
 仕方がない。
 竹巳と将の想いが交わることは、二度とない。これがはっきりとした現実だ。
 過去、一方的に手を離したのは、自分。
 だからこれは自業自得が招いた結果。当然のことだ。
 身勝手にも落ち込もうとする心を叱咤して、将は踵を返した。
「ひどいな、風祭。俺に会わないで行っちゃうんだ?」
「え……? 竹巳……くん?」
 突然、背中にかけられた声に驚いて、将は振り返ろうとした。振り返ろうとしたけれど、強張った全身は、持ち主の将の思いを裏切って動かない。
 信じられない。
 あの頃より少し低くなったけれど、聞き間違えようもない声。
 笠井竹巳の、声。
 居て欲しいと望んでいて。でも、姿は見えなかったはずなのに。
 いないんだと。いなくて当然だと諦めて、だから、将は踵を返したのに、それを引き止めるようにかけられた声は、竹巳の、声?
 本当に?
「竹巳くん?」
 確かめるように呼んで、将はもう一度振り返ろうとしたけれど、やっぱり、体は動かなかった。
 がちがちに緊張している。
 呆れるくらいに怖がっている。
 会いたかったのに。
 振り返れば、竹巳が居るのに。
 それなのに顔をあわせるのが怖いなんて、なんて矛盾しているんだろう。
「風祭」
「うん……」
 竹巳に呼びかけられて、将は頷いた。
 頷いたけれど、やはり体は動かない。
 焦りが生まれた。
 竹巳はきっと、将の緊張に気づいている。
 身じろぎひとつできない自分に、呆れているんじゃないかと将が思うのと、竹巳に名前を呼ばれたのは、ほぼ同時だった。
「将、振り返って」
 大丈夫だから。そう言われた気がして、不思議と将の緊張が解けた。
 呆気ないくらいに、将の体は動作を取り戻す。
 陳腐な表現をするのなら、それこそ、竹巳の放った言葉の魔法にかかったみたいに。
 強張っていたことが嘘のように、将は振り返ることができた。
 振り返ってみると、驚くほど近くに竹巳が立っていた。
 街灯があるとはいえ、夜の闇の中。それでも表情の判別がつくほど近くに竹巳がいた。
 埋まらなかった身長差に、こっそりと溜息をつきながら、将は竹巳の顔をじっと見上げる。
 記憶の中よりもずっと大人びた竹巳の姿に、将は見惚れてしまった。
 将の視線に、少しだけはにかんだような、照れたような顔をした竹巳が言った。
「久しぶり、将」
「――ひさしぶり」
「将の活躍、見てるよ」
「ありがとう」
 言われたことに答えることしかできない。
 言いたいこと、聞きたいことがあるのに、それが言葉にできなくて、もどかしくなる。
「将」
「うん」
「来てくれて、ありがとう」
「……っ」
 不意打ちで竹巳にそう言われて、将は頷くこともできずに、息を詰めた。
 泣きたいような気持ちになって、けれど、泣けなくて。顔を歪めると、竹巳が苦笑した。
 苦笑した竹巳が、将に向かって手を伸ばしてきた。
 竹巳の指の動きを、将は目で追った。
 将が知っている誰よりも繊細そうで、神経質そうな指先が髪に触れる。
 触れると同時にくしゃりと髪を掻き撫でられて、竹巳の指先に髪が乱された。その髪を乱した同じ指先が、将の髪を元通りに整える。
 居心地がいいような、悪いような。
 どちらとも言えない空気の中で、そっと、将は目を閉じた。
「CD……聴いてくれて、ここに来てくれて、ありがとう」
 もう一度、竹巳がそう言った。
 将が何かを言う前に、続けられる言葉。竹巳の声に、将は耳を傾けた。
「将がいま住んでいる部屋を俺は知らないから、あのCDは届けてもらったんだ」
 竹巳の言葉に、そういえば住所のない、ただ『風祭将様』とだけ封筒に書かれていたことを思いだした。
 差出人のことばかりに気を取られていて、将は住所が書かれていなかったことに気づいていなかった。
 そういうところが無防備で、鈍感なのだと、常々、周囲から指摘されるのだが、将自身が気をつけているつもりで、実は全然、まったく気をつけていないために、無防備さは改善される気配がない。
「功さんに」
「功兄に!?」
 竹巳の口から零れた名前に驚いて、将は閉じていた目を開いた。
 その仕草で、将の言いたいことが判ったのだろう。竹巳が茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべて言った。
「言っただろう、将の活躍を見てるって。都合がつく限り、俺、観戦しに行ってるんだ。いつの試合だったか忘れたけど、偶然功さんに会って。昔、どこかで見たことのある顔だなって思いながら、色々話をしているうちに、前に将に見せてもらった写真で見た人だって思いだして、訊いてみたんだ。「もしかして、風祭くんのお兄さんですか?」って」
「功兄、そんなこと一言も……」
「うん。言わなかったと思うよ。だって俺が黙っていてくださいって、お願いしたんだ。気まずいまま、将とは疎遠になっていたから」
「ああ、……そっか。そうだったよね」
 頷いて、将はまた目を伏せた。
 武蔵森を辞めて、転校することを、どうしても打ち明けられなくて。
 自分の壊れそうな気持ちに精一杯で、周囲の人の気持ちにまで気がまわらなくて、裏切るような真似をした。
 それはいまでも将の心にしこりとなって残っている。
 心を侵食する後悔に、竹巳の顔をまともに見ていられない。が、そんな将の気持ちを勇気付けるように、「将」と竹巳が名前を呼んでくれた。
 竹巳に呼ばれるままに目を開けて、将は竹巳を見た。
 優しく笑っている顔があって、将は安心する。
 将と同じ気持ちを汲み取ることができて、安心した。
「竹巳くん」
 呼びかけると、竹巳の瞳がいっそう優しさを増した。
「竹巳くん、ここに居てくれて、ありがとう」
「お礼を言うのは……」
「ううん」
 竹巳の言葉を、将は遮った。
「ぼくにもお礼を言わせて」
 まっすぐに、竹巳を見つめて将は言った。
 迷いはなかった。
 望むものが、ある。
 ずっと、ずっと、心の奥底で求めていた人が、目の前にいる。
 だから、手を伸ばす。
 拒絶されないと、解っているから。
 将の髪に触れているままの竹巳の服の袖を、将は掴んだ。
「傲慢な言い方だって、解っているけど。こんな言い方、竹巳くんは呆れるだろうけど、言わせて」
「うん、聞きたい。将の気持ち。将の言葉を」
 竹巳がしっかりと頷いてくれた。それにさらなる勇気を得て、将は口を開いた。
 押し込めて、押し殺してしまわなくてもいい想いを。
 受け止めてくれる、目の前の、大好きな人に。
「いまでもぼくを好きでいてくれて、ありがとう。ぼくに手を差し出してくれて、ありがとう。ぼくにチャンスをくれて、ありがとう。――ぼくはいまでも、誰より竹巳くんが好きです。大切な人です。もう二度と、手を離したくない。だから、竹巳くん、ぼくともう一度付き合ってください」
「よろこんで」
 心の底からだと判る笑顔を、竹巳が返してくれた。
 そして、強く、抱き締められる。
 懐かしく、温かな腕の中に抱きしめられて、将は安堵の息を漏らした。
 それに気づいた竹巳が、囁くように
「おかえり、将」
 そう言ってくれて。
 嬉しくて、嬉しくて。
 それ以外、もう、なにも思えないほど嬉しくて、将は、
「ただいま」
 と呟くように返しながら、竹巳の背中に回した腕に、力を込めた。

                                END