「先輩」と。いまでもそう呼んでくれる声が、本当に嬉しくて、愛しい。
 けれど、「先輩」じゃ満足できない。
 物足りない。
 だから、一度掴まえ損ねた手を、今度こそ、掴まえよう。
 なりふりかまわず。
 多少は残っていたはずの余裕など、かなぐり捨てて。
 そうしないと、キミを捉まえることなどできやしない。


リスタート

「渋沢先輩!」
 呼ばれて振り返った先には、最近になってやっと聞き慣れはじめた声の主、選抜チームの仲間であり、元後輩の姿があった。
「風祭」
 苦笑を滲ませた、いくぶん困った声で克朗が呼びかけると、「あ」と、思い出したように、将が小さな声を漏らした。
 同時に困惑したように眉根を寄せて、大きな瞳で克朗を見上げてくる。
 その大きな瞳の中に自分の姿を見つけて、克朗は嬉しいような、照れくさいような気持ちになった。
 純粋な輝きを失わない将の瞳は、ずっと綺麗なままだ。
 ずるいことも、汚いことも、挫折も欲望も知っていてなお、生まれたての赤ちゃんのように、キラキラした瞳。
 風祭将という人間の存在を知ったときから、変わらない輝き。
 濁りを知らないその輝きの中に、自分の姿が映っていると認識したとたん、どうすればいいのか判らなくなってしまう。
「渋沢先輩?」
 不思議そうに呼びかける声に、克朗ははっと我に返った。
 そして、やっぱり、苦笑を滲ませた声で
「風祭」
 と呼びかける。すると、やっぱり将が困ったように眉根を寄せて……。
 選抜チームで一緒になってからというもの、いつもくり返しているやりとりだ。
「えっと、……あの……」
 戸惑いを残したままの将の声が、途方に暮れたように途切れた。
 克朗を映す瞳が瞬きの後、懇願するように凝視してくる。それに内心うろたえながら、克朗はゆっくりと首を振った。
 とたんに将の唇から漏れた落胆の溜息。
 いつも明るい色をしている瞳が、悲しそうに曇る。
 目に見えてしょぼくれた将の姿に、克朗の動揺は大きくなった。
 意気消沈している姿を見たいわけでも、悲しませたいわけでもない。
 笑って欲しくて。
 曇ってしまった瞳に輝きを取り戻させたくて、だから、
「風祭」
 と声をかけようとした克朗の声は、しかし、別の人間の声に遮られてしまった。
「あんまりキャプテンを困らせるなよ、風祭」
 呆れを含んだ声に、将がおずおずと振り返った。
 克朗も将の背後の人間に視線を移し、その姿を認めたとたん、僅かに顔を顰めてしまった。
 克朗の視界に映ったのは、当たり前のように、将の傍にいつもいる水野竜也だった。
 頼むから、余計なことは言ってくれるな。
 そんな気持ちをこめて水野竜也を凝視した克朗の心の声に気づいているのか、いないのか――おそらく前者だ――、水野竜也が言った。
「もう先輩じゃないのに、風祭にそんなふうに呼ばれたら、渋沢キャプテンも返事に困るだろう?」
 言いながら竜也が将の隣に立って、挑発的な眼差しを克朗に向けてきた。
 水野竜也の眼差しから感じ取ることができるのは、優越。そして、警告。
 まるで克朗に見せつけるかのように、自然に将の肩に置かれた手。
 克朗は水野竜也のように、将に手を伸ばすことができない。
 後ろめたい気持ちが、まだ、消えない。
 どれだけしても、し足りない後悔。
 そんな克朗の後悔を見透かしたように、将はもう武蔵森ではなく、桜上水の人間だと。武蔵森とは無関係だと。いまさら先輩面して将に近づくなと、水野竜也の眼差しが言っているのは、きっと、気のせいじゃない。
 将の力に気づかず、ただ背が低いというだけで不要だと判断を下し、みすみす手放してしまった武蔵森サッカー部の愚かさを嘲笑されているように感じるのも、気のせいなんかじゃないだろうと、克朗は溜息をつきたい気分で思う。
 過保護と称していいほどに、水野竜也は将に執着しているから、将を切り捨てた部の人間に近づけさせたくないのだろう。
 水野竜也の気持ちは、手に取るように解る。
 風祭将という人間に惹かれ、執着をしている克朗にとって、水野竜也の牽制は理解しやすいものだ。
 もし、逆の立場なら、克朗も水野竜也と同じ行動に出ていた。
 自分以外の誰かが将に近づき、その心に近づくことなど、許せない。許したくない。
 ずっと隣にいるのは自分だけだと、将に近づく他人に見せつけてやるだろう。
「水野くん」
 竜也の言葉に困惑を深めた将が、隣に立った水野竜也を見上げていた。
 そして、また克朗へと視線を移し、なんとなく感じられる居心地の悪い空気に、いったいどうすればいいのか判らないというように視線を落とした。
 そしてぽつりと落とされた呟き。
「……解っているんだけど……。渋沢せんぱ……渋沢さんにも、何度も言われているんだけど、なかなか改められなくて……」
 すっかり落ち込んでしまった声に「すみません」と謝られて、克朗は慌てた。
「謝らなくていいんだ、風祭」
 克朗は急いで言った。
「別に、先輩と呼ばれることが嫌なわけじゃない。むしろ、そう呼んでもらえることは嬉しいんだ」
「え?」
 克朗の言葉に顔を上げた将が、驚いて克朗を見ていた。
 将の表情を見て、当然の反応だと克朗は苦笑する。
 選抜選考会のあと、「渋沢先輩、よろしくお願いします」と将に挨拶をされたとき、元先輩、元後輩の関係を壊したいという下心をたっぷり含ませつつ、
「風祭に先輩と呼ばれるのは、なんとなく戸惑うよ。だから、もう先輩なんて呼ばなくていい」
 克朗はそう言ったのだ。
 その克朗が、「本当は先輩と呼ばれるのは嬉しい」と、自分の言葉を翻すようなことを言えば、将が驚くのは当然だろう。
 苦笑を浮かべる克朗の前で、将がぱちくりと目をまたたいている。
 克朗は、将の隣で苦々しい顔つきをしている水野達也の存在を、意識的に排除しつつ言った。
「風祭が武蔵森サッカー部に在籍していたときに、俺はなにもしなかった。それなのに、今でも俺を慕って「先輩」と呼んでくれる……。それが嬉しいんだ」
 克朗が、心の中で蓄積している後悔を口に出して言うと、将が驚いたように目を見開いた。
 そして、まるで克朗に酷いことを言わせてしまったとでもいうように顔を歪め、口を開いた。
「ぼくは渋沢先輩を尊敬しているんです!」
 早口に告げられた言葉に、克朗は苦く口端を歪める。
 尊敬、なんて。欲しいのはそんな言葉じゃない。もっと、違う言葉。
 欲張る気持ちが将に求めるものは、克朗が抱いている感情を表現する言葉。
「好き」という、シンプルな、たった一言。
 けれど、それ以上の気持ちを将に求めるのは、無理だろう。
 誰もが認める、将のサッカー好き。
 それ以外のことなど。まして、恋愛に関することなど、将の眼中にはない。サッカーほど意識したこともないだろう。
 将の言葉に、克朗とは逆に、水野竜也がほっとした表情を浮かべている。
 将の中の克朗の存在位置がわかって、水野竜也としては安心したということだろう。
 それが妙に癪に障って、克朗は顔を顰め、それに気づいた水野竜也が、同じように顔を顰めた。
 選抜のチームメイトという枠組みを離れたところで、相手を気に入らないのはお互い様。
 克朗と水野竜也の間の険悪な空気が増したことに、しかし、相変わらず鈍い将が気づいた様子はない。
 それがいいのか、悪いのか。苦い笑みを克朗は浮かべるしかない。
 将は、克朗の中に巣くったままの後悔を、全て消してしまおうとでもいうように必死な様子だった。
「だから、ぼく、渋沢先輩のこと、学校が違ってしまっても先輩って呼びたいです。先輩が迷惑じゃないって言ってくださるなら……」
「風祭……」
 嬉しい言葉だと、素直に思う。
 けれど、将を好きな克朗としては、簡単に頷きたくない気持ちがあって、なかなかに複雑な心境だ。
 さてどう言おうかと考え込んだ克朗の耳に、静かなささやきのような音で、将の言葉の音が届いた。
「特別なんです」
 その音に惹かれるように将の瞳を見つめると、とても透明な瞳が克朗を見ていた。
「ぼくにとって、他の誰よりも特別な存在なんです、渋沢先輩は」
「特別って、……風祭?」
「ずっと……フェンスを隔てた場所から、一軍の練習風景を見ていたんです。いつか、先輩が卒業してしまうまでには、――一度でもいいから、同じフィールドに立てたらいいなって。先輩がぼくに気づいてくれたら、って。そんな我儘なことを考えてしまうくらいには、ぼくにとって渋沢先輩は特別な人です。今までも、これからも」
 透明な将の瞳に浮かんだ、一瞬の激しい感情。
 それに気づいて、克朗の胸が、どくん、と。大きく高鳴った。
 勘違いじゃない。自惚れでもない。間違ってもいない。
 将が克朗に向けている「特別」は、克朗が将に対して持っている感情と、ほとんどかわりがないものだ。
 好きという、シンプルで、複雑なもの。
 克朗が、将に対して求めていたもの。得られないと、心のどこかで諦めていたもの。
「ぼくは、先輩が好きです。だから先輩に「先輩って呼ばなくていい」と言われたら、すごく戸惑ったし、拒絶されたようで悲しかった。どうすればいいのか、わからなかった。いまもわからない。だって、ぼくは、もう同じ学校に通っていなくても、それでも渋沢先輩を「先輩」って呼ぶ以外に、好意を伝える呼び方を知らないんです」
 克朗からの制止を怖がるように、将が早口で言い切った。
 言いたいことを言い終えたというように息をついた将が、まっすぐに克朗を見ている。
 心ごと絡め取られてしまいそうな視線だった。
 逸らすこともできなかった。
 視界の端で、克朗に向けた将の告白を聞く羽目になった水野竜也が、顔を青褪めさせ、頬を引き攣らせているけれど、そんなことにかまっていられないと、克朗は思った。
 将からの言葉を聞いて、だけど、優越など感じている暇もない。
 いま、この瞬間に、手を伸ばして、掴んで、引き寄せないといけない。
 そうしなければ、二度と将の手を掴むことなどできない。
 また、手の届かないところへ、将の存在が遠ざかってしまう。
 取り返しがつかないことになってしまう。
 同じ後悔を――いや、前よりもずっと重苦しくて、強い後悔を、また抱え込まなければいけなくなる。
 そんなことはごめんだった。
「風祭」
 克朗が呼びかけるより先に、将の傍らで表情をなくしている水野竜也が、将を呼んだ。
 邪魔をされたような気がして水野竜也を軽く睨むと、返されたのは以外にも苦笑だった。
 まるで、仕方がないと。諦めきった表情をしている水野竜也に、怪訝な眼差しを向ける。そんな克朗の目の前で、水野達也に呼びかけられた将が、その存在をやっと思い出したように慌てふためいていた。
 混乱しているせいか、わたわたと慌てふためく仕草が妙に可愛く思えて、自然と口元が綻ぶ。
「あ…。あのっ、水野くんっ! その、あの……、ごめん!」
 顔を真っ赤にした将が謝ると、水野竜也の苦笑が深くなった。そして、
「いい。気にしてない」
 と、言葉ほどにはすっきりしていない、克朗から見れば我慢していると丸判りの顔で、水野達也は言った。
 将と水野竜也のやり取りの意味が、最初解らなかった克朗は、しかし、すぐに将が水野竜也の存在を忘れてしまっていたことに対してだろうと、思い至った。
 克朗は意識して水野竜也の存在を排除していたけれど、将は本気で忘れていたらしかった。
 将らしい天然さに、克朗は苦笑を零す。
 そんなところも愛しいと思える自分は、誰からみても本当に恋愛の末期症状患者で、盲目者なのだろう。
「俺、先に帰るから。また明日、学校でな、風祭」
「じゃあな」と将の肩を軽く叩いた後、水野竜也は挑戦的な眼差しを克朗に向け、けれど、すぐにその眼差しを和らげて、皮肉げに口元を歪めた。
「それじゃあ、お先に」
 克朗には簡潔すぎる挨拶を向けた水野竜也の唇が、将に気づかれないよう動いた。
『負けたわけでも、諦めたわけでもないからな!』
 声には出さずに告げられたその言葉に、克朗は呆気にとられた後、苦笑した。
 水野竜也だけに限らず、それは、将に思いを寄せている人間すべての気持ちだろう。
 克朗が水野竜也と逆の立場なら、やはり、同じ言葉を返していた。
 いまは将の幸せと笑顔のために、自分の気持ちを押し込めるだけ。
 付け入る隙が少しでも見えれば、遠慮はしない。
 将に思いを寄せる人間たちの考えることは、同じ穴の狢として、簡単に理解ができる。
 苦笑を浮かべたまま水野竜也の背中を見送った克朗は、
「渋沢先輩?」
 訝しげに呼ばれて、我に返った。
 視線を落とすように下ろすと、不安そうな眼差しが克朗を見つめている。
 黒曜石のような漆黒の大きな瞳が、なぜだか潤んでいるように克朗には思えて、克朗は指先を将の目元へと伸ばした。
 涙を拭うような仕草で指を動かすけれど、克朗の指に濡れた感触はなかった。
 将が驚いたように目を見開いて、けれど、幼い顔を歪ませた。
 なぜ、そんなふうに顔を歪めるのだろうと、不思議に思う克朗の前で、克朗の指先から逃れるように顔を伏せた将が、痛みを堪えているような声でぽつりと、「どうして」と問いかけるように呟いた。
「風祭?」
 克朗は膝を折るようにして身を屈め、将と視線を合わせやすくする。
 そっと呼びかけると、将が「どうしてですか?」と、克朗の目を見返して聞いてきた。
 なにが、と克朗が問いかけるより早く、まるで怒ったように、
「どうしてそんな簡単に僕に触れられるんですか? 僕は渋沢先輩を好きだって言ったんですよ!? 男の僕に好きなんて言われて、気持ちが悪いと思わないわけじゃないでしょう?」
 将の言い方が、まるでそう言われることを望んでいるように聞こえて、今度は克朗が顔を顰めた。
 克朗の表情の変化に気づいた将の肩が、びくんと、怯えたように跳ねる。
 それを見つめながら、克朗は言った。
「気持ち悪いなんて、そんなことを俺は思ったりしないさ」
「え?」
 不思議そうな顔をした将に、克朗は微笑みかけた。
 まっすぐに、将の瞳を見据えて、克朗は言った。
「俺も、風祭が好きだよ。もちろん、恋愛感情の意味で、風祭のことを好きだよ」
「嘘……、だって、渋沢先輩が僕なんかのこと……」
「風祭」
 強い口調で将の言葉を遮り、克朗はすっと背筋を伸ばした。
 ずっと膝を折っていたせいか、少し古傷が痛んだ気がしたが、そんなことにかまっていられなかった。
 今、掴まえなければならないのだ。
 きっと、これが克朗に与えられた最後のチャンスだ。
 この機会を逃せば、もう二度と掴まえられない。
 そんな気がしてならない。
 さっきも思ったことを、克朗はくり返し思った。
 そして、互いの身長差のせいで威圧感を与えるとわかっていながら、克朗は将を見下ろし、強い口調のまま言う。
「俺の言葉をすぐには信じられないと思う。それは仕方がない。でも、「なんか」なんて、そんなふうに自分を卑下するような言い方はやめてくれないか。風祭のことを、俺は尊敬してもいるんだ」
「先輩が、僕を!?」
 驚いた声を上げた将に、克朗は頷いた。
「ああ、尊敬しているよ。誰よりも純粋に、サッカーに対して真摯な姿勢を持っていることや、努力を惜しまないところを、とても尊敬しているんだ」
 惹かれているんだよ、と。囁くように付け加えれば、将の顔がまた歪んだ。
 疑い深く「嘘だ」と呟く将に、克朗はどうしたものかと途方に暮れる。
 なにを、どんなに言い募っても、信じてはくれないらしい。
 何もこんなときに、頑固さを発揮しなくてもいいじゃないか。いつもは素直な性格なのに、と、思わず恨めしい気持ちになってしまう。
 さあ、本当に、どうしようか。
 どれだけ言葉で言い募ったとしても、目の前の元後輩は信じてはくれないだろう。
 言葉のやり取りも平行線を辿るばかりに違いない。
「風祭」
 克朗は顔を歪めたままの将の肩を、そっと掴んだ。
 ずるいと解っている。卑怯だと、十分、承知している。
 ちゃんと信じてもらえるまで。平行線を辿ると解っていても、同じことをくり返すばかりでも、言葉を重ねて、信じてもらうことが先決だ。
 けれど。
 でも、と克朗は思う。
 そんな当たり前のことは解っていても、もう気持ちが限界だった。
 焦りばかりが広がっていく。心のうちに。
 後悔はしたくない。
 元先輩後輩の関係も、選抜のチームメイトという関係も、克朗が一番望んでいるものじゃない。
 曖昧なものなら、いらない。
 そんなもので満足なんかできない。
「風祭」
 もう一度、将を呼んだ。
 将の表情が克朗の突然の行動に虚を突かれて、とても驚いたものになる。
 近づく将の瞳に映っている余裕のない自分の表情に、克朗は苦笑を浮かべた。
「渋沢先輩っ!?」
 将の焦り、戸惑った声に、克朗は動きを止めた。
 唇に感じる吐息が焦れったくて、くすぐったかった。
「……しぶさわ……せんぱい」
 ぎこちない呼び方に、将の混乱度合いが表れている。
 触れたいと思った。
 触れるのは、きっと、とても簡単なのに、触れられないと思った。
 こんな中途半端な状況と気持ちのままでは、触れられない。
「風祭」
 お互いの吐息が絡まる距離を保ったまま、克朗は言った。
「このままキスをすれば、風祭は俺の言葉を信じてくれるのかな?」
「せんぱい?」
「……やっぱり、先輩じゃ満足ができそうにないな」
 先輩と呼ばれて、それでは嫌だと思う我儘に、克朗は自嘲した。
 困りきった様子で将が眉根を寄せる。そして、少しだけ怒った口調で、
「じゃあ、僕は先輩のことをなんて呼べばいいんですか!? なんて呼んだら、満足してくれるんですか!?」
 強い口調の割に、迫力なんて感じられない声が、言った。
 将の、常では聞くことのない激しい声音。それに内心驚きながら、けれどそれを押し隠して、克朗は口を開いた。
 将の激しさとは対照的に、克朗の声は静かだった。
「じゃあ、あと何回「好きだって」言えば、俺の言葉を信じてくれるんだ? それとも、本当にキスをしないと信じてくれないか?」
 後の言葉は茶化すように口にした。
 からかわれたとでも思ったのか、将が不機嫌な顔をする。
「答えてくれないなら、僕も答えません!」
 克朗を睨むように見据えてくる瞳の、その意志の強さに思わず引き込まれそうになりながら、克朗は、
「名前で呼んでほしいって言ったら、風祭は俺の言ったことを信じて、名前で呼んでくれるのかな?」
 問いかけるように訊いた。
 克朗の言葉に、ふと、将が怯む様子を見せる。克朗はその様子を、自嘲を浮かべて見つめた。
 将は克朗のことを特別だと言って。好きだと言ってくれて、克朗も将にずっと抱いていた想いを告げて。同じ思いのはずなのに、どうしてこんなにも複雑なのか。もっと簡単に、単純に、掴まえられると思っていたのに。
 特別という言葉をもらっても。好きという言葉をもらっても、それが同じ想いでないなら、意味はない。
 元先輩に対する、チームメイトに対する、憧れの意味の特別も、好きも必要ない。むしろ不要だ。
 たとえ将と克朗の想いが同じものだとしても、将が頷いてくれないのなら、やはり意味はない。
 いっそのことはっきりとそう言ってしまおうか、と、克朗は考えた。が、ふと、いまはなにを言っても言葉も状況も空回るだけのような気がして、克朗は将から体を離した。
「……渋沢、せんぱい?」
 訝しそうに呼ばれて、克朗は苦笑を浮かべる。
 それが答えなのかと訊ねそうになって、口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
 頷かれたら、立ち直れそうにない。
 なにも自分から、わざわざ落ち込むための状況を作り出す必要はない。
 それがただ答えを先延ばしにしている、悪足掻きだとしても。
「――ずいぶん遅くなったな。そろそろ、帰ろうか、風祭」
 時計に目を落として、克朗は言った。
 移動時間を入れても寮の門限には十分間に合う。間に合うけれど、これ以上一緒にいることは苦痛に近い。
 傷つきそうだった。
 傷つけそうだった。
 将を見ないまま踵を返した克朗は、歩き出そうとして、その動きを邪魔された。
 ぐいっと、強い力で手を引かれたからだ。
 驚いて振り返った克朗の視線の先で、心持ち俯き加減の将が克朗を呼んだ。
 小さく、けれど、はっきりとした音で、名前を呼ばれた。
「かつろう……、さん」
「――風祭……?」
 俯いた将の旋毛を、克朗は驚きながらもじっと見つめた。
 将の黒髪の隙間から見え隠れしている耳が、真っ赤に染まっている。
 思わず笑みが浮かんだ。
「風祭、もう一度……」
「嫌です!」
 もう一度呼んで欲しいと言おうと思ったら、きっぱりとした声に拒絶される。
 克朗の名前を呼んでくれた後以上に真っ赤になった耳が、かわいそうなくらいだった。
「――名前を呼んでくれたってことは、風祭は俺の言葉を信じてくれたと、そう解釈しても?」
 将の旋毛を見つめたまま克朗が問いかけると、躊躇うような沈黙の後、こくりと将の首か縦に振られた。
「ありがとう」
 頷いてくれた将にそう言うと、勢いよく将の顔が上げられた。
 真っ赤な顔のまま克朗を見上げる将の瞳は、驚きに大きく見開かれていた。
 零れ落ちそうだなと思っていると、「あの……」と、将が小さく声をかけてきた。
「あの、嘘じゃないですよね?」
 そう問いかけられて、克朗はぽかんとしてしまう。
「いま、風祭は頷いてくれただろう?」
 克朗の言葉を信じてくれたから、名前を呼んでくれたんじゃなかったのだろうか。
 苦笑を抑えきれないまま言うと、将がまたこくりと頷いて、「でも!」と慌てた様子で言葉を継いだ。
「やっぱり、先輩が僕を尊敬してるなんて……好きなんて、信じられなくて。夢じゃない……ですよね?」
 不安そうに見上げてくる瞳に、克朗は「俺のほうこそ夢を見ているんじゃないかという気分だよ」と笑ってやる。
「フェンスを隔てた場所から、ずっと、見ていた。いつか声をかけようとしていた矢先に姿が見えなくなって、とても、後悔したよ」
 大きな瞳を隠すように伸びた将の前髪を、克朗は伸ばした指先で優しく払いのけた。
「風祭と再会して、試合もできて、この選抜チームで一緒になれて……。でも俺は我儘だから、それだけじゃ満足できなかった。絶対に、今度こそ風祭を掴まえようって決めていたよ」
 そう言いながら、克朗は身を屈めた。
 将の瞳を覗きこむように視線を合わせ、そっと、触れるだけのキスをする。
「風祭が、好きだよ」
「僕も先輩が…………克朗さんが、好きです」
 克朗の告白に、今度は素直に頷いてもらえて、ほっとした。
「じゃあ、改めて。風祭、俺と付き合ってくれるか?」
「はい――――あっ!」
 こくりと頷いた将が、慌てた声を上げた。
「どうした?」
「あ……の、その、すみません!」
 わたわたと慌てた将の視線を追いかけて、克朗は「ああ」と何度目になるのかわからない苦笑を零した。
 克朗の腕を握っていた手が完全に離れて行ってしまう前に、克朗は将の手を握った。
「せ、先輩っ!?」
さっき以上に顔を真っ赤にしてうろたえる将に、「せっかくだから、手を繋いで帰ろう」と言って、克朗は歩き出した。
 ゆっくりと駅までの道を歩きながら、克朗は
「風祭」
 と声をかけた。
「なんですか?」
 大きな瞳が克朗を見上げる。
 ああ、やっぱり将の瞳の中に映っている自分の姿を見るのは、照れくさいなと思いながら、克朗は
「今すぐ名前で呼んで欲しいとは言わないが、やっぱりせめて、先輩と呼ばないようにして欲しいと言ったら、やはり困らせてしまうか?」
 そう言った。
 とたんに困ったように寄せられる眉根。
 迷うように逸らされた眼差しが、もう一度克朗を見つめるまで、きっかり十秒。
 大きな瞳で克朗を見上げながら、「努力します」と将が小さな声で応じて、克朗の手をしっかりと握り返してくれた。

                                 END