A happy new year

「チイパパ!」
 玄関のドアを開いた瞬間、幼い声とともにぶつかる勢いで足に抱きついてきた温もりに驚いて、将は慌てて視線を下げた。
 見慣れた色素の薄い髪が目に映ったと同時に、髪同様に色素の薄い大きな瞳と視線が合う。
 お互いにきょとんと目を見開いて見つめ合うこと、数十秒。
 先に表情を変化させたのは、将の足に抱きついたままの幼子だった。
「しょう!」
 舌足らずな声で呼ばれた将は、にっこりと微笑みかえした。
「こんばんは、虎治くん」
 笑いながら抱き上げると、「きゃあ」と虎治が歓声のような声を上げた。
 満面の笑みを浮かべた虎治が、かじりつくように首に抱きついてくる。
 子供特有の体温をそっと抱き返しながら、将は虎治の色素の薄い瞳を覗きこんだ。
「虎治くん、パパとママは?」
「あっち!」
 言いながら虎治が指差した方向に、桐原夫妻の姿が見える。
 親しげに手を振ってくれる真里子と、その隣で表情を緩めて将に視線を合わせているふたりに、将はぺこりと会釈した。
 桐原夫妻に会うのは、ずいぶんと久しぶりだ。
 将がそう思ったとき、背後に人の気配がした。
「風祭、誰だった……て、虎治?」
「あ! チイパパ!」
 驚いた声を上げる竜也を、将は振り返る。
 将の腕の中で、虎治の声が喜色に弾んだ。
「水野くんを訪ねてきたみたいだよ。虎治くん、お兄ちゃんに抱っこしてもらう?」
 竜也を見て笑顔を深めた子供に、将は聞いた。
 虎治が将と竜也を交互に見つめて、「うーん」と考え込むように首を傾げる。
 それからもう一度将と竜也を順番に見つめて、虎治が首を振った。
「しょうがいい」
 そう言って、虎治はぎゅうっと将に抱きついた。
「あれ、いいの、虎治くん?」
 お兄ちゃんっ子の虎治を知っているだけに、将は不思議な気持ちで虎治の顔を覗き込む。
「うん、いいの。チイパパよりもしょうがいいの!」
 満面の笑顔で言い切って、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる小さな体を、将は苦笑を浮かべながらも抱き返した。
 虎治を抱き返しながら、隣に立った竜也をそっと見上げ、将は
「ごめんね、水野くん」
 申し訳なさそうに謝罪する。
 水野も虎治のことを十分に可愛がっていることを知っている将としては、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 せっかくの家族水入らずを、自分は邪魔してしまっているのだ。
 将がそう思いながら少しだけ項垂れると、
「しょう、どうしたの? なんでそんなにかなしいかお、してるの? チイパパにいじわるされたの?」
 大きな瞳を心配そうに曇らせながら、虎治がそう言った。
 虎治の言葉に、将はきょとんとなる。
 意地悪?
 心の中で虎治の言葉を咀嚼して、理解したとたん、将は慌てて首を振った。
「違うよ、誰にも意地悪なんてされていないよ。心配かけてごめんね、虎治くん。――虎治くんとお兄ちゃんの時間を、邪魔しちゃっているんじゃないかなって、そう思ったから」
「だからしょうはかなしいかおをしてるの? じゃまじゃないよ! ぼくはね、しょうといられてうれしいの」
 そう言ってにっこりと笑った虎治に、将も笑顔を返す。
「うん。僕も虎治くんといられて、嬉しいよ。水野くんだって嬉しいよね?」
 そう言いながらもう一度竜也を振り返った将は、なんだか苦々しい顔つきをしている恋人に首を傾げた。
「水野くん?」
 どうしたの、と。将が問いかけるより早く、竜也が硬い声音で言った。
「虎治くん、お兄ちゃんが抱っこしてあげるから、こっちにおいで」
 有無を言わせない口調でそう言った竜也が、手を差し出した。が、虎治は嫌々と首を振って、将にしがみつくように抱きついてくる。
「我儘はダメだって、いつもお兄ちゃんは言っているだろう、虎治くん?」
 そう言い聞かせるように言う竜也の頬が、なんとなく引き攣っているように見えるのは目の錯覚だろうか。
 将がそんなことを思いながら見つめる先で、
「や! しょうがいいの。しょうじゃなきゃいやなの! チイパパがいじわるいう〜〜」
 大きな瞳に涙を浮かべて、虎治が将を見つめた。
 いつの間にか玄関のすぐ傍にきていた桐原夫妻は、口を挟む気はないらしく、傍観者然としている。
 それになんだか、どことなくこの状況を楽しんでいるようにも見えるのは、気のせいだろうか?
 将は黙っている桐原夫妻と、なぜか不機嫌な様子の竜也、それから虎治を順番に眺めて、溜息をつきたい気分になった。
 この場を収めるのは、どうやら自分の役目らしい。
「ええっと、あのね、水野くん」
 将がそっと声をかけると、竜也が少しだけ嫌そうな顔をした。
 まるで将のいうことが判っていて、その予想通りの展開に辟易していると言いたそうな顔だった。
「我儘って言うほどの我儘じゃないと思うんだよ。だから、このまま抱っこしていてもいい? 虎治くんに会うの、僕、久しぶりだし」
「おい」
 抗議の声を上げようとした竜也の声を、虎治の元気な声が遮った。
「しょう、だいすき!」
 にっこりと天使の笑顔で虎治が言って、
「あはは。ありがとう、僕も虎治くんのこと大好きだよ」
 虎治に負けないくらいの笑顔で、将がそう返した。
 すると虎治が、
「ほんとう? しょうもぼくのこと、すき? じゃあ、ぼくのおよめさんになってね!」
 真剣な顔つきでそんなことを言い出した。
「え……? え…と、あのね、虎治くん」
 幼い子供らしいその言葉に、けれど、将は困惑してしまった。
 冗談でも「いいよ」と約束してはいけない気になったからだ。
 それから、そうっと。そうっと、竜也を盗み見る。
 恐ろしいくらいに、竜也は笑顔だった。
「虎治くん」
 虎治に目線を合わせるように、竜也が身を屈めた。
「虎治くんは別のお嫁さんを探そうな?」
「やだ!」
「風祭はお兄ちゃんの恋人だから、虎治くんのお嫁さんにはなれないんだ」
「しょうはぼくのおよめさんになるの! チイパパにはあげないの!」
「わたしは風祭くんが家に来てくれるなら、どっちのお嫁さんでも……」
「母さん!」
 母親の言葉にぎょっとして、竜也が叫ぶように真里子の言葉を遮った。
 竜也の声の大きさに、真里子がうるりと瞳を潤ませた。
「なによ、竜ちゃん。怒鳴らなくてもいいじゃないの。――虎くん、お母さんが応援してあげるから、頑張って将くんをお嫁さんにもらうのよ!?」
 そして、長男に文句を言ったあと、やたらと真剣な顔で次男の顔を見つめると、そう発破をかけた。
「ちょ…! なにを勝手なことを言ってるんだよ、母さんは!!」
「あら、だって、竜ちゃんよりも、虎くんのほうが甲斐性ありそうだもの。お兄ちゃんよりも先にちゃんとプロポーズができて、えらいわね、虎くん」
「うん!」
 母親から褒められた虎治は、にこにこと嬉しそうに笑って頷いている。
 虎治を抱きしめたまま、将は三人の間で途方に暮れていた。
 口を挟みたくてもそのタイミングが掴めないまま、母と息子たちの会話がヒートアップしていく。
 ご近所のほとんどが帰省していて良かったなぁ、と、こっそり溜息をついたところで、桐原と目が合った。
 昔よりもずっと柔和な顔つきになった竜也の父は、言い合いという名のコミュニケーションを取り続けている妻と息子を横目に見やり、
「新年早々騒がしくてすまないね、風祭くん」
 溜息混じりにそう言った。
 将は首を横に振り、
「楽しいからいいです。――と。あ、そうだ! 監督、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 慌ててそう言った。
 昔の癖が抜けないまま、将は今でも桐原のことを監督と呼んでいる。
 周囲にも、竜也にも、そして桐原本人にも何度となく「もう監督ではないのだから」と苦笑混じりに指摘されたが、なかなか直らない。自然と「監督」と呼んでしまうのだ。
 言っても仕方がないと諦めたのか、匙を投げたのか、最近ではもう誰も指摘をしなくなった。
 だから将の中で桐原は、今でも「武蔵森の桐原監督」のままだった。
 将の目礼に、桐原も表情を緩めた。
「ああ。おめでとう。こんなに騒がしい家族だけれど、こちらこそ、これからもよろしくお願いするよ」
「はい!」
 ふたりで新年の挨拶を交わしていると、
「ずるいわ、あなた! 風祭くん、明けましておめでとう。今年もよろしくね。ほら、虎くんも未来のお嫁さんにご挨拶は?」
 真里子の中では、すっかり将は虎治のお嫁さんと決定しているらしい。
 真里子の言葉に竜也の周囲の空気は、オーバーヒート気味だ。
 ああ、これはあとで宥めるのが大変だなぁ。真里子さん、もう黙ってくれないかなぁと将が考えていると、将の気を引くように、虎治が将の服の胸元を小さな手で引っ張った。
「ええと。しょう、あけましておめでとうございます。これからもよろしくおねがいします」
「明けましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくね、虎治くん」
 ちゃんと言えて偉いね、と将が笑顔を浮かべると、嬉しそうに虎治が笑った。
 さきほどまでの騒ぎなどなかったかのようにほのぼのとした空気が流れたところで、将は桐原夫妻を玄関先に立たせたままだったことを思いだした。
 慌てて竜也を振り返る。
 不機嫌な顔つきのまま、竜也が「なんだよ?」と将を見返した。
「水野くん」
 将が呼びかけてそっと目配せすると、将の言いたいことに気づいた竜也の眉間に、深い皺が刻まれた。
 せっかく両親が新年の挨拶に来てくれたというのに、それを迷惑そうにしている様子が、本当は半分ポーズだと将は解っている。
 もっとも、なぜ半分なのか、それは解らないのだけれど。
 意地っ張りな竜也を促すように、将はもう一度「水野くん」と呼びかけた。
 いつまでも冷たい空気の中に立たせたままでは、風邪を引いてしまう。
 呼びかける声にその意図を含ませると、心底嫌そうに溜息をついて、竜也が体をずらした。
「どうぞ」
 愛想の欠片もない声で竜也が言うと、不満そうに真里子が唇を尖らせた。
「もう、本当に竜ちゃんてば愛想の欠片もないんだから! 似なくて良いところばっかり、お父さんに似ちゃって。ねぇ、風祭くん、絶対、虎くんのほうが愛想もいいわよ? 竜ちゃんなんてやめて、虎くんのお嫁さんになっちゃわない? 愛想のよさは保障するから」
「えぇ!? え、と。でも、あの……」
「母さん」
 それが母親の科白かよ、と毒吐く息子に、真里子が反論しようとすると、さすがに桐原が止めた。
 呆れを隠さない、少し疲れた口調で「やめないか」と桐原が言うと、真里子がぺろりと舌を出してこっそりと、「怒られちゃったわ」と将に囁いた。
 そして将と抱っこされたままの虎治を追い抜くと、不機嫌なままの長男を追いかけるようにリビングに入っていった。
「風祭、早く来いよ。風邪引くぞ。今日も寒いんだから」
 リビングからひょっこり顔を覗かせた竜也に呼ばれて、将は「うん」と頷いた。
「虎治くん、お兄ちゃんたちのところに行こうね」
「うん!」
 虎治の笑顔に釣られるように笑った将は、虎治を抱きしめたままでリビングへと向かった。

 少しだけ騒がしく、将の新年はこうしてはじまった。

 竜也と虎治の間で将の取り合いがはじまるのは、また別のお話。


                                END