Birthday

「郭くん」
 練習からの帰り道、思いがけず、ふわふわと柔らかい真綿のような声に、呼びとめられた。
 歩き出していた足を止めて、英士は振り返る。
 距離にして、ちょうど三歩分離れた場所に、彼――風祭将がいた。
「なに?」
 答える声が冷たく響かないよう、細心の注意を払いながら問いかけると、将が英士の顔を窺うように見つめ、
「うん、……その、あの……」
 言いにくそうに口を開いた。
 将の様子は、なんだか落ち着きがなく、そわそわしている。
 居心地が悪そうにも思える態度に、英士の顔は怪訝なそれになってしまった。
 そして、まだ完全には打ち解けてくれていないのだと、こんなときに思い知る。
 自業自得が招いた結果だとは言え、……いや、だからこそ、英士との距離を計るような将の態度に、英士の胸は痛んだ。
 将に心を惹かれてからは、将の遠慮がちな態度に傷ついたりもしてしまう。
 優越に浸っていただけのあの日々。自分たちよりレベルが落ちる者たちを見下していた、あのときの自分の幼さを、どれだけ悔やんでも、消したいと思っても、それは叶えられないこと。
 なかったことにできないのなら、せめて歩み寄ろう。チームメイトという関係だけでなく、親しい友人と言ってもらえるくらいにはなりたいと、英士なりにその努力をしているけれど、将と親しい連中の予想以上のガードの固さと、なにより将の、必要以上に英士に接しないよう心がけているような態度に、英士の努力はつねに玉砕気味だ。
 だからいい加減、本気で気持ちが沈みそうになっていた英士にとって、将から話しかけてくれたこのチャンスをみすみす逃すような、そんなバカな失態など、あってはならないことだった。
 はじめて会ったとき、将に対してとった態度と言動を謝る、絶好の機会。
 謝罪して、嫌ってなんかいないと誤解を解いて、せめて気兼ねなく話ができる関係を築きたい。いや、築かなくては、現状維持のままになってしまう。
 いつまでも英士の印象は悪いままだ。
「風祭、俺に用事?」
 将を萎縮させてしまわないよう気をつけながら、英士は話し出しやすいように問いかけた。
 英士が問いかけると、躊躇うような仕草の後、将がこくんと頷いた。
 そして、ためらいの残った声音で話し出す。
「……あの、さっき、偶然っていうか……あ、別に聞こうと思って聞いていたわけじゃないんだよ……!」
「うん?」
「盗み聞きしたわけじゃないけど……、あ、でも、結果的には若菜くんと真田くんの話を盗み聞きしたことになるんだけど……」
 申し訳なさそうな顔をしている将に、たいしたことじゃないよというように、英士は先を促した。
「結人と一馬がなにか言っていたの、俺のこと?」
「あ……、うん。あの、郭くん、二十五日が誕生日だったって……」
 英士自身も忘れていたことを、気にかけてくれていた友人たち。
 その友人たちの話を偶然聞いて、それを気にかけてくれているらしい将。
 些細なことなのに、英士の心は温かいものに包まれた。
「ああ、そういえば……」
 将の言葉に頷くと、呆れと戸惑いを含んだ声が返された。
「郭くん、淡白だね。まるで他人事みたいな反応……」
「そう? でも、忘れていたしね、誕生日のことなんて」
 軽く肩を竦めて返すと、
「忘れてたの?」
 将の口から驚いた声が上がった。
「うん、忘れてた」
「そっか……」
 頷いた将の顔には、苦笑のようなものが浮かんでいた。
「ところで風祭の用事って、俺の誕生日のこと?」
「え? あ、うん……。あの、僕に言われても嬉しくないだろうけど、「おめでとう」って郭くんに言いたくて」
「嬉しくないなんて、そんなことないよ。ありがとう、風祭」
 英士がそう言うと、将の顔が安心したように綻んだ。
「よかった。迷惑じゃなくて」
 ほっとした将の唇からそんな言葉がこぼれ落ちて、英士は少しだけ苦い思いをする。
 やはり将は、英士に嫌われていると思っているのだと実感する。
 これは一秒でも早く誤解を解かなければいけない。
「迷惑じゃないよ。むしろ嬉しいよ、風祭」
 英士は将の誤解を解くために、慌てて言った。
 驚いたような将の眼差しが、英士をじっと見つめている。
 その眼差しを見返し、英士は繰り返し言った。
「迷惑じゃないよ。風祭におめでとうって言ってもらえて、俺はすごく嬉しいよ」
「本当に? だって、郭くん、僕のこと嫌っているんじゃ……」
「嫌ってなんていない」
「え?」
「俺は、風祭を嫌ってなんかいないよ。――はじめて会ったときの態度は、本当にごめん。風祭を傷つけた。後悔してる。ずっと、謝りたいと思っていたんだけど、なかなかそのタイミングがなくて」
「本当に? 本当に、郭くん、僕のこと嫌いじゃない?」
「嫌いじゃないよ。それどころか、風祭と仲良くなりたいって、そう思っているよ」
 英士が言うと、将の顔が明るく綻んだ。
 大きな瞳が、きらきらと嬉しそうに輝いていて、英士は将の表情に見惚れてしまう。
「僕もね、郭くんと仲良くなりたいって、ずっとそう思ってたよ」
 嫌われていなくて良かった、と。嬉しそうに笑う将の表情に、英士の視線は釘付けになった。
 全開の笑顔は、ちょっと反則じゃないかと心の中で呟く。
 これ以上英士の心を捉えて、どうするつもりなのだろう。
 将のことを好きになって以来、ずっと、将のことを考えてばかりで。将のことで頭がいっぱいで、どうしようもないくらいなのに。
 英士に向けられたことがない笑顔を、こんなにも間近で見せられてしまっては、完全降伏するしかない気になった。
「あ、それでね、郭くん」
「ん、なに?」
 将に呼びかけられて、英士ははっと我に返った。
「僕、プレゼントとか用意してなくて……」
 申し訳なさそうな将に、英士は「気にしなくて良いよ」と首を振った。
 将からのプレゼントは、確かに魅力的だけれど。英士に「おめでとう」と言ってくれる。プレゼントを渡したかったと思ってくれる、その気持ちだけで十分だと英士は思った。だから、それを素直に口にした。
「風祭の気持ちだけで十分」
「そう言ってもらえると、助かるけど……でも、おめでとうって言葉だけじゃ、なんとなく、僕の気がすまなくて……あ!」
 なにを思いついたのか、将が大きな声を上げた。
「ね、郭くん。ちょっとだけ目を瞑ってくれる?」
 窺うように小首を傾げ、上目遣いに見つめられて、英士が否と言えるはずがなく。
 英士は将に言われるまま目を閉じた。
 空気が揺れる気配がする。
 小さな声が、英士の耳に届く。
「お誕生日おめでとう、郭くん」
 その言葉が終わると同時に英士の右の頬に触れた、一瞬の、熱。
 それが将の唇だと理解するのに、英士は数秒を要した。
 はっと目を開けると、真っ赤な顔をした将と目が会う。
「風祭……?」
「あ、あの、う……ごめんね。いやだった……よね?」
 怖がっているような声で将が言った。
 英士は将の問いかけに、ゆっくりと首を振った。
「嫌じゃないよ。だけど、風祭……」
「……なに?」
「俺に都合よく解釈しちゃうよ?」
「ええぇ……、や、えっと……うん、どうぞ」
 これ以上はないというくらいに顔を真っ赤にした将が、英士の言葉に頷いた。
 英士は軽く目を見張る。
 忙しなく視線を泳がせている将の肩を掴んで、引き寄せながら、英士は言った。
「あとでそんなつもりじゃなかったって言っても、受け付けないけど、いい?」
「…………え……あ、……うん」
「それじゃ、遠慮なく好きなように解釈させてもらう。――っと、でも一応、言っておこうかな。好きだよ、風祭」
「…………」
「返事はくれないの?」
「………………言わなきゃだめかなぁ?」
「もちろん。当然でしょ。言葉にしてくれなきゃ、実感できないし」
「う……、そうだよね」
 恥ずかしそうに、将は視線を彷徨わせる。
 数十秒間しっかり躊躇ったあと、か細い将の声が聞こえた。けれど。
「聞こえないよ、風祭?」
 微かな声は、英士の耳にちゃんとした言葉として届かなくて。
 ちゃんと聞き取りたくて英士がそう言うと、将が困ったように英士を見つめた。
「風祭?」
 促すように名前を呼べば、軽く睨みつけられる。
 可愛いだけで、全然迫力など感じられなかったけれど。
 英士がじっと将の言葉を待ち続けていると、小さく、本当に小さく将が嘆息した。
 そして、諦めたように、将がその口を開いた。
「僕は、郭くんが好きです」
 今度はしっかりと耳に届いた将の告白の言葉に、英士の表情が柔らかく緩んだ。
 そして微笑んだまま、英士は将の唇を掠め取る。
 ぱくぱくと魚のように唇を開閉させている将の顔は、熟れたトマトのように真っ赤になっている。
 その真っ赤な顔の将の耳元に唇を寄せて、英士は言った。
「俺を好きになってくれてありがとう、風祭。最高のプレゼントを――一生分のプレゼントをもらった気分だよ」
 言い終えると同時に将を抱きしめると、背中に回された将の腕。
 英士が抱きしめる直前に見た将の笑顔は、くすぐったそうにはにかんだものだった。
「誕生日おめでとう、郭くん」
 英士の腕の中から聞こえた声に、もう一度「ありがとう」と返した英士は、今日のこの日のことは、これから先なにがあっても、忘れることはないんだろうと思いながら、将の髪に口づけを落として、そっと瞳を閉じた。

                                END