White day

「……今年もまた、ずいぶんと安上がりだね……」
 呆れた口調を隠しもしない恋人の言葉に、将は「だって」と困った顔で恋人を見返した。
「あのね、将、知ってる? 三倍返しが相場なんだよ?」
「知ってるよ。去年も、その前の年もその前も。英士くんにそう言われたから。でも、……思いつかないんだもん」
「だからって、どうしてチョコレート菓子なの……」
「思いつかないんだってば! もう、そんなに呆れなくても。僕がこれを欲しいって思っているんだから、ね、英士くん?」
 将は呆れ顔のままの英士を見つめた。
 懇願するような眼差しで見上げる恋人の欲のなさに、英士は溜息をつきつつ、頷いた。
 本音を言えば、我儘だと思うくらいのお返しを強請って欲しいのだけれど、遠慮と謙虚の塊じゃないかと疑うくらいの恋人の慎ましさに、それは無理なことなのだろうと諦める。
 将と出会って、数多のライバルたちを出し抜いて恋人におさまって、数年。その時々のイベント毎に、同じようなやり取りを繰り返している。
 きっと、ずっと、このやりとりを英士と将はくり返すのだろう。
 たぶんこれは、とても幸せな悩みなのだろうと思いながら、英士はいつもと変わらない科白を口にした。
「わかったよ。将がこれでいいって言うなら、今年のお返しもこれにするよ」
 言って、英士は期間限定で発売されているチョコレート菓子を籠の中に入れた。
 将が今でも一番好きなお菓子を籠の中に入れながら、英士はまた妥協をしてしまったな、と、内心で自分を叱咤する。
 有名ブランドの靴とか、スーツや、時計。そういったものを強請ってくれたらいいのに、将は英士の提案に首を振るばかりだ。
「高価なお返しなんて、もったいないよ。僕はブランド物を着こなしたりできないし。それより、僕が好きなものを買ってくれるほうが、ずっと嬉しいな」
 そう言って、いつでも、簡単に手に入るものばかりを口にする。
 レジに並んで会計を済ませた英士と将は、店を出ると家に足を向けた。
 ゆっくりと、家までの道を歩く。
 温かな空気に、春が近いことを感じる。
「英士くん、まだ呆れてるでしょう?」
 英士の様子を気にして、将が顔を覗き込んできた。
 少し不安そうな表情に、英士は微笑み返した。
「呆れているけど、それで将に対して不満があるとかじゃないよ。ただ、どうしていつも簡単なものばかりで満足するのかなって、ね。まだ俺に遠慮をしているの?」
 出会った頃も、つき合いはじめた頃も、英士に対していつも遠慮をしてばかりだった将を思いだしながら、英士はそう聞いてみた。
「そういうわけじゃないよ……」
 英士の問いかけに、将は困ったように首を振った。
「本当にね、なにも思いつかないんだよ。英士くんが言ってくれるように、服や時計を見たりするけど。これいいなと思っても、どうしても欲しいと思わなくて」
「将は欲がないね」
「そんなこと……。僕は、自分ほど我儘で勝手な人間を他に知らない」
 溜息と自嘲の篭った将の言葉に、英士は驚いて足を止めた。
「将が我儘だって言うなら、俺なんかどうなるの? 俺だけじゃないよ。世界の半数以上の人間は我儘の権化。自分勝手の塊だよ?」
「そんなことないよ」
 英士の言葉を冗談だと思っているのか、可笑しそうに将が笑った。
「あのね、英士くん。僕が欲しいものを全部手に入れたから、きっと神様がこれ以上の我儘を許してくれないんだよ。日常のささいなものでも、もう欲しがるんじゃありませんって」
「大袈裟だね。それに神様って、俺と同じで無神論者のくせに」
「うん、そうだけど」
 頷いて、おどけた仕草で将が肩を竦めた。
「サッカーがしたくて武蔵森を辞めて、桜上水に転校して。選抜に残って。……足を怪我して、二度とサッカーはできないって宣告されて、もうサッカーはしないで欲しいって言った家族の思いを裏切って、僕はサッカーを選んで。今も……、大好きなサッカーを諦めなくていい環境にいる。僕を支えてくれたみんなの好意に甘えて」
「将が頑張っているからだよ。将からサッカーを取り上げるなんて、きっと、誰にもできない。……神様にだって、それはできなかったことだよ」
 将の言葉を遮るように言って、英士は肩を竦めた。
 きっと真面目が過ぎる将は、サッカーを選んだことを後ろめたく感じたままなのだろう。
 誰も、それを責めたりしていないのに。
「あのね、将が好きなものに一生懸命な姿を、誰も悲しい思いで見ていないと思うけど? 確かにサッカーを続けたいって言ったのは、我儘なのかもしれないけど、それは譲れない……将にとっては一番大事な、妥協できない、必要なものだった。そういうことでしょ。だいたい、自分勝手っていうのは、誰の理解も得ないまま、突っ走ることを言うんだよ。将はちゃんと説得して、理解を得て、頑張れって言ってもらえたんでしょ」
「でも………」
 父親と、母親に悲しい顔をさせてしまったことを思い出したのか、将の顔が悲しく歪んだ。
「将が頑張っている姿を見て、喜んでくれているんでしょ?」
「うん……」
「じゃあ、もっと、いま以上に頑張れば? とりあえず、レギュラー目指して」
 いつになったら同じフィールドに立てるんだろうね? と、英士が挑発をこめて言うと、将が苦笑いを浮かべた。
「だいたい、好きなサッカーを選んでそれが手に入ったから、それ以外は与えられないなんて、馬鹿げた発想だよ。将がそんなふうに思っているって知ったら、ご両親が悲しむよ」
「うん、そうだね。でも欲を出したらキリがないよ」
「それを知って、判っているなら、大丈夫だよ。――それで?」
「え? なにが?」
 きょとんと英士を見つめる将に、英士は微かな笑みを返しながら言った。
「将のことだから、サッカー以外にもうひとつくらい、欲しいものを手に入れているからと思っているんでしょ?」
「お見通し……、かぁ」
 敵わないや。そう呟いて、将が息をついた。
 それから照れたように目元を染めて、英士を見上げる。
 大きな瞳を見返した英士に、将が言った。
「サッカーだけじゃなくてね」
「うん?」
「僕が欲しかったのは。手に入れたのは、サッカーだけじゃなくて、英士くんもだよ」
「え?」
 悪戯が成功したような顔で笑って、将が英士を見つめる。
「英士くんに出会ったときから、ずっと、焦がれて、焦がれて。英士くんを。英士くんの心を、欲しいと思ってた。独占したいって、思ってた」
 ほら。大好きなものを全部手に入れた僕は、誰よりも欲深いよ。
 そう言いながら、それでも幸せな笑顔を浮かべる将に、英士は手を伸ばした。
 英士よりも細い腕を掴んで、英士は将を抱き寄せようとする。
「英士くん、ダメだよ。いまは昼間で、ここは往来だよ。抱きしめるのも、キスするのも、禁止」
 抱き寄せようと力を込めたとたんに、将にストップをかけられてしまった。
 悪戯めいた笑顔をそのままに、英士の手から将が逃れる。
「いま、すごく抱きしめて、キスしたかったのに。残念」
 英士が言うと、将の笑顔が困ったようなものにかわった。
「ダメだってば」
「昼間で、往来だから?」
「そう」
「俺は気にしないけど……」
「僕は気にするの! もうっ!」
 可愛らしく頬を膨らませた将に、英士は肩を竦めた。
「わかったよ」
 抱きしめたいも、キスがしたいも、今は言わない。
 英士が言うと、将がほっとしたように笑みを返した。
 そして。
「あのね、英士くん」
「なに?
 将に手招かれて、英士は呼ばれるままに少し身を屈めた。
 英士の耳元に、将の囁きがおとされる。
「家に戻ったら、……そうしたら、いっぱい抱きしめて。いっぱいキスをくれる?」
 お返しに何かを買ってもらうのも嬉しいけれど、抱きしめてくれたり、キスをしてくれたり、それだけでも十分、嬉しいよ。
 はにかんだ笑顔で告げられた言葉に、英士は目を見張って、けれどすぐに柔らかな笑顔を浮かべて頷いた。
「将の望むままに」
 将の耳元に囁いて、少しだけ頬を赤く染めた将が頷くのを見た英士は、
「帰ろうか」
「うん!」
 止めていた足を、動かして、ふたりで家路に着いた。

                              END