〜音にならない君への言葉〜 「風祭」 そう呼ぶ声に、隣でスポーツドリンクを飲んでいた風祭が、体ごと向きを変える気配を感じた。 風祭と同じようにスポーツドリンクを飲んでいた俺は、そのまま飲料を喉に流し込みながら、近づいてきた人物を横目に見る。 風祭の前に立ったのは、渋沢克朗。 武蔵森と我らが東京選抜のキャプテンを兼任している、守りの要。そして風祭が個人的に――恋愛感情を含んだいわゆる「おつきあい」をしている相手、だ。 男同士なのに、という嫌悪感は、ない。 そんなもの持てるわけがない。 俺だって風祭を恋愛対象として好きだし、渋沢と付き合っている今だって諦められずにいて。 できれば風祭とつきあいたいと思っている。 恋人になりたい。 風祭の恋人の、ゴールを守っているときの鋭いまでの眼は、いまは優しく、人当たりがよさそうな――渋沢は風祭の次に人当たりが良い――眼差しで風祭を見つめていて、ふだん練習中は公私混同しない声も、休憩中とあってか、柔らかい。 渋沢と風祭、ふたりの醸し出す空気は、のんびり、ほわほわとしていて、その空気に当てられたように俺の気も抜けて、まだ後半の厳しい練習が残っているにもかかわらず、うっかり全身で脱力してしまいそうなほどだった。 あまり気を抜きすぎると、にっこりと笑いながら、とんでもないことを要求する監督のオーダーに応えられない。それどころか、嫌味という名の叱咤激励を飛ばされかねないので、俺は慌てて気を引き締めるように、ふたりから視線を逸らした。 ペットボトルから口を離し、キャップをしめると、スポーツバックの上に投げるように置いた。 残っている飲料がボトルの中で大きく揺れて、たぷんと音を立てる。 風祭と反対側の隣にいた一馬が、「投げるなよ」と神経質そうに眉を顰めて小言を言った。 一馬は、書道を嗜むせいかどうかは知らないけど、物を乱暴に扱うと英士より口煩い。……まあ、でも、飲み物を投げた俺が悪いんだから、素直に「悪い」と謝罪を口にした。 俺は首にかけたままのタオルで汗を拭いながら、一馬と英士の話に耳を傾ける。――傾けているつもりだけれど、意識は自然と、斜め後ろのふたりの会話に向かっていた。 耳をそばだてて盗み聞きなんて、最低だけど。でもどうしても気になるんだよな。 いつもよりぐっと声を潜めて、こそこそと「恋人同士」の会話を交わすふたりが。 その内容が。 離れたところで大騒ぎしている藤代や、鳴海。英士と一馬の会話。他のメンバーのざわめきが邪魔をして、すぐ傍にいるっていうのに、渋沢と風祭の話し声は途切れ途切れにしか聞こえない。 意識を完全にふたりに向けてしまえばきっと、会話の内容を聞き取ることはできるけれど、英士や一馬の話に相槌を打ちながらなんてそんな器用なこと、俺にはできない。 そんな器用なことができるのは、英士くらいだ。……あ、杉原もできるかも。そう思ったところで、杉原と目があったような気がしたけど、――気のせいだよな。うん、気のせいだということにしておこう。心の平穏のために。 ライバル心というより同属嫌悪で英士を嫌っているらしいチームメイトから視線を逸らし、親友たちの会話に適当に混じる。 それでも半分上の空で、風祭と渋沢に意識を向けていると、その音だけがやけにはっきりと、鮮明に、耳に飛び込んできた。 「将」 渋沢が風祭のことを名前で呼んだのを聞いたのは、初めてだった。 渋沢が風祭を名前で呼んだことに、俺は自分でも驚くほど動揺して、なのになぜか慌てて後ろを振り返ってしまった。 振り返ったとたん、渋沢と目が合う。 渋沢は不思議そうに瞬きをして、それから困ったように、はにかんだように笑って、俺から視線を外した。 牽制も優越もなく。ごく自然に風祭を促して、渋沢は俺の傍らから離れていく。 ゆっくりと離れていくふたり分の背中を視線で追いかけ、けれど、虚しくなってやめた。 俺の様子に英士と一馬は気づいていながら、けれど、知らん顔で会話を続けていて、その気遣いがありがたくもあり、照れくさくもあり、なんとなく拗ねたいような気持ちにもなりながら、今度こそ親友たちの会話に加わろうと思ったところで、監督の「集合」という声が休憩の終わりを告げた。 タオルをバックの上に置いて、駆け出す。 スパイクが立てる音を聞きながら、ふと、晴れ渡っている空を見上げた。 密やかに囁かれたにもかかわらず、鮮明に届いた音。 渋沢の紡いだ名前を。 「将」 と、大切に呼ばれた名前を、この先、俺が音に出して呼ぶことは、ただの一度だってないだろう。 END |