トリック オア トリート 〜水野竜也 さあ、今年はどんな笑顔を見せてくれるのだろう? 「おかえり」 玄関を開けると同時に聞こえてくるはずのその言葉は、なかった。そのかわり、出迎えの言葉より先に飛び出してきたのは、そろそろこの小さな国でも浸透し始めてきたイベントの、お決まりの文句。 「trick or Treat!」 将より背の高い恋人が甘い笑顔で、大きな掌を差し出している。 いつもはわりとすまし顔をしていることが多い恋人の、どこか無邪気な顔に、将は一瞬、見惚れる。 「将?」 訝しげというよりは心配そうに顔を覗きこまれて、将ははっと我に返った。 見惚れた、なんて、目の前の恋人を舞い上がらせる言葉など言えない。 恥ずかしくて。 「ううん、なんでもない」 うっすらと頬が赤らんでいるような気がして、それを誤魔化すように首を振った将は、 「ただいま」 と早口に言った。 将のその言葉に、恋人――竜也が思い出したように「おかえり」と言葉を返してくれる。 そこで、やっと、帰ってきたんだなぁと実感が湧いて、将は小さく「ただいま」とくり返していった。 二度目の言葉に返されたのは、深い微笑。 もともと整った顔立ちをしていた恋人は、歳を重ねるごとに僅かに甘さを残したまま、それでも精悍な顔つきになった。 酷く不器用で、気心知れた友人たち以外――時折その友人たちに対してさえ、無愛想なところは変わっていないけれど。 それでも出会った頃に比べたら、ずいぶん、角が取れてきたというか、親しみやすくなったような気がしているけれど。 そんなことを思いながら靴を脱いで、部屋に向かおうとした将は、首を傾げた。 「水野くん?」 玄関先に立ったまま、通路を譲ろうとしてくれない竜也を、将は不思議に思いながら見上げる。 たいした段差のない上がり框。それでも身長差はいつもより開いて、随分と見上げなくてはいけない錯覚。それに将は少々苦い気持ちになりつつ、竜也を見つめ、竜也はといえば、どこか悪戯っぽく笑いながら、一度は引っ込めていた手をもう一度将に向かって差し出していた。 「なに?」 判らなくて首を傾げると、 「trick or Treat!」 玄関のドアを開いたときに聞いた言葉を、くり返される。 「え? あ、――ええっと、待って!」 将は着ていたジャージのポケットをがさごそと探る。右ポケット、左ポケット。 けれど、練習からの帰り。ポケットに都合よくお菓子が入っているわけもなく。 だったらバックの中になにか入っていないかと、手を伸ばそうとしたところで、 「時間切れ」 くつくつと可笑しそうに喉を鳴らしながら、竜也が言った。 「時間切れ……って。そんなルールあった!?」 少なくとも将が今まで聞いた話の中に、そんなルールがあると聞いたことはなかった。誰も言っていなかった――はずだ。 「なかったよね、時間切れルールなんて」 今まで誰にも、一度だって時間切れなどと言われたことはなかった。だから、時間切れなどというルールはなかった。 それでも確信がなくて、楽しげな恋人に確認するように問いかけると、 「んー、なかった、と、思う」 けろりとした顔で、恋人は頷く。 その言葉にほっと胸を撫で下ろしつつ、将は抗議を込めて竜也を睨んだ。 「もう、驚かせないでよ」 竜也がどいてくれないなら、仕方がない。強引に上がってしまえばいい。そう思いながら上がり框に足を伸ばそうとしたところで、それを邪魔するように竜也の手が将を追いかけるように伸ばされた。 「あのね、水野くん……」 こんな子供染みた真似、竜也のプライドの高さを考えるといつまでも続けるはずがない。真意を図るように凝視していると、竜也の瞳がさらに楽しげに細められた。 「お菓子がないなら、悪戯していいんじゃなかったっけ?」 「……今はないけど、冷蔵庫か、……探せばあると思うよ。探してくる。なかったら、買いに行ってくるよ」 「用意不足。今から用意なんて認められないな。それに時間切れってさっき言っただろ」 にやにやと竜也が笑いながらそう言う。 悪戯決定と言いたげな眼差しに、将は、 「時間切れルールはないって、さっき水野くんも言ったよね?」 むきになったように言い返す。 しかし、竜也は将の抗議の声を無視するように、将の腕を取った。 そして、軽く、けれど、将に否を言わせない力加減で抱きこんで。 ふわりと、額に、瞼に、鼻先、両方の頬に、落ちてくる唇の感触。 「水野くんっ!」 こんな玄関先で、と、将は真っ赤になった頬を隠すように俯き加減に抗議の声を上げた。 きっと楽しげに笑っているだろう恋人は、将の声など届いていないかのように、バードキスをくり返している。 触れては、離れ。離れては触れる唇の感触が、くすぐったい。……そして、少しだけじれったい、と感じる。 それを言葉にするには、きっと人よりも倍以上はある羞恥心が邪魔をする。 居た堪れない気持ちで、さらに顔を俯けようとすると、将の右耳に触れた、吐息。 かすかに感じた、唇の感触。 竜也の唇だと意識した瞬間、驚くと同時に、ぎゅっと胸を掴まれたような、切ないような、嬉しいような、わけのわからない鼓動の跳ね方をした。心臓。 「……ぁ……」 音になりきっていないような音で、声が漏れた。 掠れた将の声に、竜也は微かに笑ったようだった。もしかしたら、微笑んだのかもしれない。 「将」 名前を呼ぶ、甘いテノール。 真っ赤になりすぎている耳に落とされる言葉。 「将、悪戯、次はどこにして欲しい?」 甘い甘い誘いに、さて、否を言うことは出来るだろうか。 きっとできないだろう、と、思いながら、将はゆっくりと真っ赤に染まった顔を上げた。 蕩けた微笑を浮かべた恋人の顔の輪郭が、僅かに滲む。 近づく整った顔が完全にぼやける前に、将は、ゆっくりと瞼を落とした。 軽く、触れて。 ゆっくりと、深く、落とされる口づけ。 甘いキスから解放されて、目を開けたら。 将の一番大好きな笑顔を、今年も竜也は見せてくれるだろうか。 終 |