ブルー・クリスマス〜矜持〜 こんなにも邪魔なものを、どうして今まで大事に抱えて生きてこられたのだろう、と、郭英士は重い溜息をつきながら、街を歩いていた。 すれ違いざまの囁き声。途切れ途切れに、けれど、明確に伝わる見た目に対する好意。好奇心を含んだ興味。羨望。それから同性から向けられる妬み。 ありとあらゆる感情をその身に受けながら、しかし、英士はそれらに構うことなく目的地へと足を進める。 ざわつき、煩い雑踏の中、凛と背筋を伸ばして歩く姿は、注目を集めやすい。が、向けられる注目は、英士にとっては煩わしいものでしかない。 見知らぬ人間の注目を集め、好意を向けられたところで、満たされるものはない。 すれ違う人波は、障害物。届く囁きは雑音。 拒絶より酷い無視を決め込み、ただ機械的に歩みを進めながら、ふと、思いだす。 ドイツという地に向かって以降、ただの一度の連絡もない元チームメイトのことを。 もしも。 それはとても虚しい想像。 意味のない仮定。 それでも思い描いてしまう、もしも。 もしも、英士に囁きかけているのが、彼なら。 英士を見つめているのが彼なら、この心はどれほど満たされるのだろうか、と。 きっと、今まで生きてきた中でも一番の、有頂天というものを経験するに違いない。 焦がれて、焦がれて。心から焦がれていたのに、それを認めることができず、英士は伸ばす手の先を失った。 もう掴むこともできない。 それどころか、会うということすらできなくなった。 同じチームにいた頃は、ささやかではあるけれど、チームメイトという接点があった。 親しいといえる間柄ではなかったけれど。 会話らしい会話などしたこともないけれど。 月に一度は確実に会えるという、ささやかでありながらも、確かな繋がり。 けれど、試合中の不慮の事故は、風祭将という少年から夢を奪い、英士から細い繋がりの糸さえ奪った。 「会いたいな」 英士は雑踏の中、不意に、足を止めた。 後ろから、前から歩いてくる人の肩や体が、英士に容赦なくぶつかって行く。 それを気に留めることなく英士は、再度呟く。 「会いたいな、風祭」 どうしているの、と、唯一繋がっている空を見上げる。 元気なのだろうか。怪我は完治に向かっているだろうか。 笑っているのだろうか。 「……笑ってくれていたらいい」 それは将と出会ったすべての人が、心から願っていることだ。 叶うなら、その笑顔を与えられる存在でありたかった。傍でその笑顔を見ていたかった。 手は届かなくても。 見下し、蔑んでさえいた相手に、無自覚なまま惹かれ、想うようになっていた。……過大で、それでいて小さすぎた矜持が邪魔をして、近くにいたときは認められなかった。認めることを拒んでいた。 心が幼すぎて、その矜持にしがみついて、大事なものをこの手の中からとりこぼして。 「――ドイツは遠いね、風祭」 吐き出した息は、人込みの中でも白く。 英士を通り越して行った人の中の誰かが、「今年はホワイトクリスマスになるかな?」と言った。 「天城が羨ましいと、今さらながら思うよ」 風祭、と、英士は切なく呟く。 チームメイトとして、あるいは、それを超えたところで将となにかを分かち合い、共有し、ドイツへと旅立った元チームメイトを、羨む。 きっと彼の地で、将は天城を頼っていることだろう。 将と天城の絆がどのようなものなのか、英士は知らないし、判らない。 それでも英士では築けなかった絆があることだけは判って、それに嫉妬する。 踏み出さなかったのは自分だったのだとしても。 認めていれば、良かった。 今さらながらにそう思う。 ちっぽけな矜持など、捨ててしまえば良かったのだ。そうすれば、きっと、英士は今こんな切ない気持ちを、もどかしさを、味わってなどいなかったかもしれない。 少なくとも、連絡先を知らないまま、どうしているだろうと心配する確率は、格段に減っていたに違いなかった。 「たった一言でよかったのにね」 伝える言葉は、一つしかなかった。ひとつだけで良かった。 けれど、幼かった自分は、気持ちよりも矜持を優先した。 自分にとって大切なのは、同じレベルの人間と共に高みを目指すことで、感情ではなかった。ないのだと思いたかっただけだったのかも知れない。それほどに、自分の本当の感情に目を向ける余裕がなかった。 風祭将という人間を認めること。それから、英士の感情の変化を認めることは、なにかに負けることなのだと、そんな風に、心のどこかで思っていたのかもしれなかった。 あの頃の英士も、その心も、幼すぎた。とても。 だから伝えられなかった。 「とても、会いたいよ、風祭」 空に向かって呟く。 立ち止まったままの英士に、「邪魔」と、無神経な、けれど当然の声が投げかけられているけれど、英士は構うことなく目を閉じた。 瞼の奥、別れた頃の、少年のまま成長もしていない将の残像を、思い浮かべる。 その残像に向かって、英士は、小さく言った。 「好きだよ、風祭」 聞く相手のない告白。 ちっぽけな矜持を優先するあまり、失った存在の大きさを感じている英士の、閉じた瞼に、冷たい結晶の欠片が落ちて、溶けた。 ざわついた雑踏の中、小さな子供の声が叫んだ「雪!」という言葉と、それを歓迎するような歓声と溜息が、耳の奥、ひどく印象に残った。 終 |