〜永遠の楽園〜

「アルフォンス……!?」

 知らない声に驚いたように名前を呼ばれて、青年は足を止めた。
 青年は怪訝そうに声の主を見返す。
 深い金色の髪の知らない人が、大きく目を見開いて立っていた。
 呆然として、言葉もない様子を怪訝に思いながら、青年は口を開く。
「確かに僕はアルフォンスですけど……、あの、あなたは……誰ですか?」
 今にも落ちそうな両手いっぱいの大荷物を抱えなおし、アルフォンスはことりと首を傾げた。


「アルフォンス!」
 ノックの後、ドアが開く音と同時に呼ばれて振り返った視線の先に、顔を覗かせているエドワードの姿を見つけて、アルフォンス・ハイデリヒは苦笑を零す。
 それはエドワードがアルフォンスの下宿先に訪ねてくるようになってから、すっかり見慣れた光景だった。
「こんにちは、エドワードさん」
 アルフォンスが声をかけると、エドワードが伺うように小首を傾げる。すると、ひとつに束ねられた蜂蜜色のエドワードの髪が、さらりと揺れた。
「どうぞ。入ってください」
 くすくす、とアルフォンスが笑うと、エドワードが苦笑いを浮かべて部屋に入ってきた。
「えっと、こんにちは、アルフォンス。悪いな、連日邪魔して」
「遠慮なんてしなくていいですよって、毎回言ってますよね?」
 アルフォンスがそう言うと、どこか照れた様子で頷いて、エドワードはアルフォンスと肩を並べるように立った。
 テーブルに広げられた紙を、エドワードが傍らから覗き込む。
 工科大学に在籍しているH・J・オーベルトに傾倒している学生たちの作った、液体燃料ロケットの完成予想図と設計図だ。
 たくさんの化学式や覚書、理論、意見。時には関係のない走り書き。本当にさまざまなことが余白の部分に書き記されている。
 それを見つめるエドワードの瞳は、どこか懐かしそうな色を浮かべていた。きっと、彼もなにがしかの研究をしていたことがあったのかもしれない。
 懐かしそうな横顔を見つめながら、アルフォンスは言った。
「本当に、気にしないで下さい。むしろ、大歓迎ですよ」
 空想論として誰も見向きもしない液体燃料ロケット。それも宇宙へ行くロケットの開発に興味を示す同志は、大歓迎だ。そう言って笑って、アルフォンスは手近な椅子をエドワードに勧めた。
 勧められるままに椅子に座ったエドワードに、
「なにか飲みますか?」
 アルフォンスはそう問いかける。
「ああ、じゃあ、お言葉に甘えて、なにか……温まるものを」
「外、相変わらず寒いですか?」
「ああ、すごく。今日はいつもより寒い気がする」
 答えたエドワードが、無意識にだろう、右肩に左手を置いた。
 事故で失ったという腕の傷跡が、寒さで痛むのかもしれない。そう考えていたアルフォンスは、不思議そうなエドワードの視線に気づいて我に返った。
 不躾なほど凝視してしまっていたことを、反省する。
 エドワードは義手と義足であることを、特別気にしている様子はない。それどころか、誇らしく思っているようなところがある。少なくとも、アルフォンスの目にはそう映っていた。けれど、それらを意識するように見つめられて、気分の良いはずがないだろう。
 アルフォンスはわざとらしくならないよう、さりげなさを装って視線を外した。
「飲み物を、持ってきます」
 言い置いて、部屋を出る。
 暖炉の炎で暖められていた室内から廊下に出ると、冷たい空気がアルフォンスの体を一瞬で冷やした。
 ぶるりと全身を震わせて、足早にキッチンへと急ぐ。
 キッチンを覗くと部屋を提供してくれている夫人が、気配に気づいて振り返った。
「ああ、ちょうど良かったわ、アル。いま飲み物を淹れたところよ。持ってお行きなさいな。今日はいつもより寒いから、ホットワインにしておいたわ」
 温まるわよ、と、母親のような優しい笑顔で言った夫人の手から、アルフォンスはトレイを受け取った。
 トレイの上には蜂蜜の甘い香りと、芳香なワインの香りを立ち上らせるグラスと一緒に、夫人の手作りの焼き菓子。
「ありがとうございます」
「また感想を聞かせてちょうだいね」
「はい」
 お菓子作りが趣味の夫人は、出来上がったお菓子を振舞ってくれるたびに感想を聞きたがり、求められるまま、アルフォンスは感想という名の要望を口にする。
「楽しいのは判るけれど、あまり根を詰めないのよ、ふたりとも」
「はい、気をつけます」
 茶目っ気を多分に含んだ夫人の忠告に苦笑を零しつつ、アルフォンスは素直に頷いた。
 もう一度お礼を口にして、部屋に戻る。
 軽いノックを、二度。返らない返事を気にすることなくドアを開くと、物憂げに手帳を眺めるエドワードの姿があった。
 淋しそうな横顔を、しばし見つめる。
 ふと、緩む口元。
 整った相貌が柔らか表情を作るとき。それは彼が、彼の「いつか帰る、弟がいる故郷」を思っているときだと、アルフォンスは知っていた。
 知っている、というのは、正しくないかもしれない。
 エドワードに聞いたわけはなく、アルフォンスがそうじゃないか、と、見当をつけているだけだから。
 ゆっくりとドアを閉め、テーブルに近づいた。
 トレイを置くとエドワードが顔を上げた。
 アルフォンスを見つめるエドワードの瞳が、複雑な感情を宿して揺れる。
 嬉しそうな、悲しそうな、寂しそうな。そして、なにかを懐かしみ、探すような。裏切られたような、裏切ったような。プラスとマイナスの感情。……本当になんと表現していいのか判らないほど、すべての感情が綯い交ぜになっていて、その瞳を見つけるたびにアルフォンスは自身の胸が痛むのを感じた。
 この痛みを、アルフォンスはどう処理していいのか判らない。
 おかしい、と思う。
 こんな痛みを抱え込むことは、本当は間違っている。
 出会ってまだ、間もない。
 それよりも、なによりも、同性だ。
 だけど、抑え切れないものが、否定できない……否定したくないものが確かに存在する。
 アルフォンスを通り越してエドワードが見つめる眼差しのその、先。彼が置き去りにしてきた、大切な弟。そんなものを見ないで欲しいという、我儘な欲求。
 独占欲。
 いつの間にか抱いた、感情。
 あるいは、最初から、だったのかもしれない。
「……どうぞ。僕が淹れたんじゃなくて、夫人が用意してくださったものですけど」
「ああ、ありがとう」
 膨れ上がるばかりのものを誤魔化すようにグラスを差し出すと、一瞬、エドワードが瞳を伏せた。
 それは、感情が押し殺された瞬間。
 次にエドワードの瞳が開いたときには、そこにはどんな感情も見出せない。
 見つけられるのは、誰にでも向けられる、平等の感情。
 特別ではないもの。
 ああ、また、痛む。痛みが、増して、広がる。
 どうしたって生まれる感情をどうにか押し殺し、アルフォンスはエドワードの隣の椅子に座った。
 温かな飲み物と、手作りの焼き菓子。他愛無い話と、宇宙ロケットの話。
 奥底に生まれたものを意識的に殺して、会話を続ける。
 そうするのは、きっと、決定的なものを無意識に回避してるからだ。
 思い知らされるのは、怖い。
 だって、どうしたって唯一にはなれない。
 なれないことを、知っている。
「アルフォンス?」
 窺うような声音に呼ばれて、アルフォンスは自分が思考の中に浸りこんでいたことに気づく。
 心配そうな瞳がアルフォンスの顔を覗き込んでいた。
 珍しい虹彩の、瞳。
「……琥珀……みたいだ」
 黄金色より、もっと、深くて透明感を持った色彩。
 魅入られたようにその瞳を覗きこんでいると、無意識に指先が伸びた。
 本当は、心のどこかで均衡を、壊したかったのかもしれない。
 アルフォンスだけを見て欲しかった。
 遠く離れた弟の面影をアルフォンスの中に捜すんじゃなく。求めるんじゃなく。
 だから、指先を、伸ばしたのかもしれない。
 アルフォンスの視線の先で、エドワードが驚きに目を見張る。
 綺麗な瞳に浮かぶ、感情。
 少しだけ痛みを堪えたように……怯えるように。けれど、それを上回る喜色の表情。確かな、悦び。
 それから、わずかな背徳感。
「アルフォンス……」
 拒むように。あるいは咎められるように呼ばれる名前に、アルフォンスは微かに顔を歪めた。
 一線を越えさせないよう、押し留める意図を含んだ声が、逆にアルフォンスの背中を押した。
「……アルって……そう呼んでくださいって、いつも言っているのに」
 頬の肌のすべらかな感触が、指先に伝わる。
 アルフォンスがそう言うと、エドワードの瞳が泣きそうに歪んだ。
 ゆっくりと横に振られる首の、その頼りなさ。
「悪い……それは……」
「ああ、弟さんを呼ぶときにだけ?」
 僕は、弟じゃないから。
 アルフォンスが言うと、エドワードの首がこくりと縦に振られる。
 エドワードの、特別。
 残酷な肯定をしていると、エドワードは気づいているだろうか。
 そう考える一方で、エドワードと出会ったときの経緯が、鮮やかにアルフォンスの脳裏に浮かぶ。
 工科大学の、門だった。
 構内へと急いでいたアルフォンスを呼び止めた、エドワード。
 少しだけ気重な表情で、擦れ違った人。
 本当は、それだけの、記憶にも残らない些細な邂逅で終わるはずだった人。


 誰か――教授を訪ねてきたけれど会えなかったのかな、と、少し目立つ風貌のエドワードを横目に、腕を痺れさせる荷物を抱えたアルフォンスは、仲間たちが待つ部屋へと足を速めた。
 アルフォンスの立てる足音に気づいて、歩いてくる人が僅かに目線を上げた。
 その、瞬間だった。
 アルフォンスを捉えた瞳が、驚きと、歓喜に輝いた。
 それを不思議に思う間もなく呼ばれた、名前。
 きょとん、と、見返した。
 初めて会った人だ。知らない人。なのにどうして、アルフォンスの前に立つこの人は、名前を知っているんだろう? 懐かしそうに、嬉しそうに、そしてどこか信じられない奇跡を目の当たりにしたかのように見つめるのだろう?
 押し寄せる疑問を、アルフォンスはそのままに口にした。
「確かに僕はアルフォンスですけど……、あの、あなたは……誰ですか?」
 そう訊ねたとたん、綺麗な相貌に浮かんだ絶望。落胆。
 思わず悪いことを言ってしまった気分で、
「あの……」
 と声をかけたアルフォンスが次に目にしたのは、儚い微笑だった。
 年齢にそぐわない、どこか達観した印象の笑顔。
 ひどくアルフォンスの胸をざわつかせた。
 そんな笑顔を浮かべないで欲しいと、そう思った気持ちを、そのときアルフォンスは捉え損なったけれど。
 いまなら、そのときのその思いを正しく理解している。
「すまない。弟が……いるのかと思って」
 小さく。溢れる感情を無理矢理押し込めて言われた言葉に、アルフォンスはなんとなく察しをつけた。
 まだ記憶に生々しく残っている、長く続いた大戦を思い出す。 
 亡くしたのだろう、と、見当をつけた。
「似ていますか?」
 労わるように声をかければ、微笑が深くなった。
 愛しさを隠さない微笑だな、とそんな感想を持った。
「そっくり。なにもかも……名前も同じで……違うのは瞳の色くらいかな。……本当に、ごめん」
 そう言うのに、「いえ、気にしていません」と頭を振って、不躾だろうかと思いつつ訊ねてしまった。
「弟さんは……あの、この前の大戦で?」
 思えば、かなり無神経で礼儀を欠いた質問。初対面の人間にするには踏み込みすぎた質問だった。
 けれど、そんなことを気にした風もなく、エドワードは答えてくれた。
「いや……遠い、とても遠い場所にある故郷に……」
 生きている。
 離れて、生きているんだ、と、そう言って瞳を伏せた。
 隠された感情を、アルフォンスが知る術はなかった。
 伝わるのは、その人を求める気持ち。強い気持ちだけだった。
「本当に、悪かったよ。じゃぁ……」
 そう言って立ち去ろうとした背中を、アルフォンスは呼び止めた。
 このまま別れてしまいたくない、と。咄嗟にそう思ったからだ。
 思えば、あのときにはもう、想っていた。
 陳腐な言い方をすれば、一目惚れだったのだろう。
「僕、アルフォンス・ハイデリヒって言います」
 不思議そうに瞬く瞳を、アルフォンスはじっと見つめ返した。
 綺麗な瞳だと思った。
 珍しい、虹彩。金色……琥珀色の瞳を真摯に見つめていると、ふわりと空気が緩んだ。
「オレはエドワード。エドワード・エルリック」
「エドワード・エルリック。…エドワード…さん?」
 反芻するように唇に乗せた名前に、エドワードが擽ったそうな顔をして、はにかんだ笑顔がゆっくりと広がった。
 はじめて『アルフォンス・ハイデリヒ』に向けられた笑顔だった。


 こんなにも鮮やかに。
 まるでついさっき起こった出来事のように、アルフォンスの脳裏に刻み付けられた瞬間。
 どうして。
 一線を越えようとすることを咎めるのなら、だったら、どうして呼び止めた。出会うきっかけを口にしたのかと、そう考えることは愚かだろうか。
 エドワードの切なく歪められた眉根に口唇を落としながら、アルフォンスは思う。
 確かな震えがアルフォンスの腕に伝わる。
「エドワードさん」
 呼べば、エドワードの瞳が潤んだように思えた。
「エドワード……」
 呼び捨てれば、はっとしたようにエドワードの瞳が見開かれた。
 泣き出す寸前のように歪む、貌。
 背徳。
 歓喜。
 自嘲。
 それから、諦め。
「アルフォンス」
 躊躇いがちな音の中から、拾い、見つけ出す感情。
 アルフォンスに向けられる、たったひとつのもの。
「ごめんな。お前を愛称では呼べない。オレにとってはたったひとりの、この命を捧げても後悔しないほど大事な、愛する人を呼ぶための愛称なんだ」
 残酷な告白にアルフォンスは顔を歪めた。
 醜い嫉妬が頭を擡げて、広がる。
 それが滲み出ていたのだろう、エドワードの顔が少し困ったようにアルフォンスを見つめた。
 ゆっくりと、左手がアルフォンスの頬を辿る。
 労わるような指の動きが、少し、胸に痛い。
 そんな優しさなら、いらない。
 欲しいのは、ただ穏やかで優しい愛情じゃない。
 もっと、醜くて、激しいもの。
「僕は、あなたの弟じゃないんです」
「うん……判ってる。お前はアルフォンスだ」
「あなたが好きです」
「オレも、……アルフォンスが好きだ」
 偽りを含まない言葉に、アルフォンスはどんな顔をすればいいのか判らなくなった。
 その感情は確かにアルフォンスにだけ向けられたもの。
 だけど、……やっぱり、穏やかな感情しか感じ取れない。
「アルフォンス」
 穏やかな声。 
 慈しむように唇に乗せられる、名前。
「誤解しないでくれ。身代わりだと思ったことはない。お前を、好きだよ。オレは、ちゃんとお前を好きだよ……アルフォンス」
 静かに。言い聞かせるかのように告げられる想いは、どこまでも穏やかで優しい。
 優しくて、穏やかで……不意に泣き出したくなった。
「愛してる」
 そっと、愛しさを込めた表情を浮べたエドワードが、愛しさを込めた声で言った。
「アルに――あいつに向ける想いとは違うけど、確かに、オレはアルフォンスを愛してる。欲しいと思うくらい、愛しているよ」
「ひどいや。残酷だ」
「うん。オレは、卑怯で、残酷なんだ」
 この手を、離したくないんだ。
「お前に対して、激しい愛情はこの先も生まれない。それはたったひとりにしか生まれない。けど、それでも本当に、愛してる」
『アルフォンス』にだけ、向けられる想いなんだ。
 弟と、アルフォンスにだけ生まれ、反応する感情だと言って、そっと、降ろされる瞼。
 その、意味。
 抗う術を、アルフォンスは持っていなかった。
 持っていたとしても、抗わなかった自分を知っている。
 薄く開かれた口唇に、自分のそれを重ねる。
 深く、深く。すべてを奪うように重ね合わせた口唇。
 受け止めるために開かれた、口唇。
 何度も角度を変えて、舌を絡めあう。
 互いの口端から溢れる唾液を、拭うように舐め取り、舐め取られて、強く互いの体を引き寄せた。
 溶け合えたらいい。
 このまま、境もなく溶け合ってしまえたらいい。口づけを交し合いながらアルフォンスは思った。

 ここが。
 この場所。この世界が。
 アルフォンスの腕の中が、エドワードにとって、永遠をもたらす楽園であればいいのに。

「帰らないで下さい」
 ここに。
 この腕の中に、ずっと。