「アルフォンス」 開いたドアから顔を覗かせてエドワードが呼ぶと、綺麗な空色の瞳が微笑を湛えて振り返った。 机の上に置かれたランプの光を、アルフォンスの髪が綺麗に弾いた。 ときおり、思わず見惚れるような艶やかな表情で、アルフォンスがエドワードを見つめ返すから、それが照れくさくて、くすぐったくて、どんな表情で見つめ返せばいいのか判らなくて、エドワードは曖昧な微笑を返す。 アルフォンスはそんなエドワードの気持ちを全部察しているかのように、いつも、ただ柔らかく微笑んで、受け止めてくれる。 いつの間にか――いや、想いを重ね、交し合った日から、確実に大人びた表情を浮べるようになった青年に、エドワードはゆっくりと近づく。 「エドワードさん!」 作業を止めたアルフォンスの、少しだけ低さの混じった、それでも無邪気さの残る声で名を呼ばれて、どきりと鼓動が跳ね上がる。ふと。唐突にエドワードの記憶に甦る、弟の声。 『兄さん』 記憶の中に残る声は、変声期前の声音。がらんどうの鎧に響いて、実際よりも、少し甲高く空気を震わせていた。 オレの目の前にいるアルフォンスの声に、いまのお前の声は似ているだろうか、アル。 思いながらその姿を重ね合わせようとして、だけどできなくて、エドワードはそっと苦笑を零した。 扉の向こう側――エドワードから見れば、もうこちら側になる世界――のアルフォンス。 アルフォンス・ハイデリヒという名のこの青年は、瞳の色以外は弟とそっくりな、だけど、まったくの別人。 そう、別人だ。どれだけ姿が似ていようとも、重ね合わせることはできない。そんなことをしても、無意味なだけだ。 そっと伸ばされた腕に、エドワードの体が包み込むように抱きしめられ、我に返る。 大切に、大切に抱きしめられて、それだけでエドワードの思考は攫われてしまう。 アルフォンスの存在に遠退く、アルの存在。 エドワードの中に、ゆっくり、確実に浸透する存在。 唯一ではないのに。アルじゃないのに、アルフォンスは――容易くエドワードの心を、想いを持っていってしまう。 アルとは違う強引さ。 アルへの想いが、消えたわけじゃない。消そうと思って、消せるほど生半可なものじゃない。忘れようと思って、忘れられるほど生半可なものじゃない。 だけど――――。 抱き寄せられるまま、アルフォンスの腕の中に大人しくおさまって、エドワードはそっと瞳を閉じた。 とくり、とくり。 規則正しく、穏やかな鼓動と振動が届く。 アルフォンスの腕の中にいる、それだけで、エドワードはアルを想って揺れそうになる自分の心が、穏やかな静けさを取り戻すことに、気づいている。 否定しようもなく、心が向かっている先。 「アルフォンス」 もう一度呼べば、その意図を正確に読み取ったアルフォンスの口唇が、エドワードの額や頬に、口唇にキスの雨を降らせた。 与えられる口づけを受け止めながら、エドワードは思う。 身近にいるからだとか、もう一人のアルだからだとか、アルの身代わりだとか、そんな理由で心が向かっているわけじゃない。そんなこと、考えたこともない。まして、寂しさを紛らわすためでも、埋めるためでもない。それだけは絶対に違うと、断言できる。 断言できてしまう自分の心を、エドワードは知っていた。 生まれて、積もって、溢れて。 自然に。当然の―――そうなることが当然のように。 どうしようもないほど、アルフォンスへ向かって、想いが加速する。 ブレーキなど、とっくに壊れて、使い物にならない。 愛しい。 穏やかで、優しくて。アルに抱く激しい情熱ではないけれど、胸の中に生まれた、確かな愛しさ。 もしも、いま。 いま、あの最愛の弟がエドワードの目の前にいたら。 エドワードは沈み込む思考の淵で考える。 アルフォンス・エルリックが目の前にいたとして、果たして自分は無条件に弟を選ぶだろうか? 迷うことなく、選べるのか? この温かな腕を、世界を、切り捨てて? なんの躊躇もなく? 否。 選べない。 考えるまでもない。 エドワードは自嘲を口元に浮べた。 選べるわけがないのだから。 どちらも、大事。 愛しい人にかわりない。 「なにを考えているんですか?」 エドワードを呼び戻す問いかけに、顔を上げた。 少しだけ不満そうな表情のアルフォンスに、エドワードは笑いかけ、抱きしめ返しながら、言った。 「弟のこと……アルのことを、考えていたんだ」 「……僕の腕の中にいるのに?」 少しの逡巡の後の非難めいた言葉に、「ごめん」と小さく謝って、拗ねたように尖った唇にキスを仕掛ける。 「キスで誤魔化すんですか? ひどいなぁ」 苦笑混じりにそう言って、アルフォンスが肩を竦めた。 にやりと口角を持ち上げたエドワードは、 「誤魔化してるつもりはないけど? キスしたいなって思ったから、キスしただけだ。……誤魔化されたい?」 挑むように言い放った。 今度は無言で肩を竦めたアルフォンスにもう一度笑いかけて、今度は深く口づける。 腰を抱き寄せられて、その意図を悟ったエドワードは、軽くアルフォンスの背中を叩いた。 不満そうに口づけをやめたアルフォンスの瞳を、エドワードは悪戯っぽく覗きこむ。 「調子に乗りすぎ」 「挑発したのは、エドワードさんでしょう?」 「そうだっけ?」 「そうですよ」 むっと頬を膨らませたアルフォンスに、 「そうだっけ?」 もう一度とぼけて、反論される前にエドワードは部屋を訪ねた理由を口にした。 「ああ、そうだ。夕食の準備ができたって夫人がアルフォンスを呼んでるんだ。オレ、それを伝えに来たんだった。行こう」 一瞬、きょとんとしたアルフォンスは、 「もう、そう言うことは早く言って下さい!」 手早く片づけを済ませたアルフォンスが、ランプの灯を落とした。 ランプの光源がなくなった分だけ、部屋の中が暗くなる。 ドアを開いて、エドワードは先に部屋を出た。 エドワードに続いて部屋を出てくるアルフォンスを見つめ、ふと、柔らかな色彩の瞳に目を細める。 「なんですか?」 エドワードの視線に気づいたアルフォンスが、不思議そうに歩みを止めてエドワードを見返した。 「ん、アルフォンスの瞳は、綺麗な空の色だなって」 帰りたいと、思う。強く、願う。 あの世界でエドワードは生まれて、罪を犯して、生きてきた。ずっと弟とふたり、たくさんの人たちに支えられて、犠牲を払って。 帰りたいと、いまでも、思っている。 だけど、まだ、帰る方法は見つけられない。 もしかしたら、帰れる可能性は低いんじゃないだろうか。そんな弱気なことを考える日が、少し、増えた。 それでも、そのことに以前ほど焦りを感じないのは、優しい色が傍らにあるからだ。 (アル、お前の瞳に映る空は、アルフォンスの瞳の色のように優しいか?) アルの体を。アルを取り戻すことに精一杯で、あの世界のこと、残りのホムンクルスたちやダンテのこと、すべてのことが念頭になかったから、いま、あの世界がどうなっているのか、エドワードには判断する術もない。 だから祈るように、願うように、思う。 (優しいといいな……) すべてを取り戻しているはずの弟が、あの世界で、エドワードのように安らいでいればいい。 いつか、帰れることがあったら……。そのときはエドワードの見つけた、エドワードだけの空の色を教えたい。 (お前は、嫉妬するかな、アル?) 意外に独占欲の強い弟を、エドワードは思い出す。 どちらをより強く愛しているのかなんて、エドワードには判らない。比べようもない。 ただ、精一杯、エドワードなりにアルを。アルフォンスを想うだけだ。 愛しい、と。 心から想える相手の傍ら、そこが、エドワードにとっての楽園になればいい。 楽園を得られるとき。弟のアルフォンスの傍らを望んでいるのか、アルフォンス・ハイデリヒの傍らを望んでいるのか、はっきりとした答えは出せないだろうけれど。 いまは、まだ。 真っ直ぐに、躊躇いなく向かう心。 帰りたいと、それだけを願う心。 同時に存在する心は。想いは、どんな答えをエドワードに選ばせるだろうか。 「エドワード……さん?」 意識を攫う、強い声。 正面に立つアルフォンスを、エドワードは真っ直ぐに見た。 エドワードを呼ぶ声とは裏腹に、心細そうにエドワードを見つめる空色が、不安そうに揺れている。それに安心させるように笑いかけて、「夫人が痺れを切らしているだろうから」と促した。 なにかを言いかけるように動いたアルフォンスの唇は、しかし、なにも言わない。 言わないまま頷いて、アルフォンスが部屋のドアを閉じた。 先に立って歩くアルフォンスの背中を見送るように見つめ、エドワードはそっと心のうちで囁いた。 いまは、まだ、選ぶときは訪れていない。この先も、どうなるかは判らない。だから言えるだけかもしれない。 (アルフォンス、お前を、愛してる) それだけが、確かな、真実。 END |