くりかえし、くりかえし。
 まるで壊れた蓄音機。
 くりかえし、告げる言葉。
 頑なに閉ざされた、その心。奥底に。
 くりかえし、何度でも。
 いつか届くまで。
 くりかえし。くりかえし。
 届かなくても。
 同じ言葉を、くりかえし、くりかえす。

 キミよ、疑うことなかれ

 告げる想いを、信じてくれればいい。
 それだけで、いい…………。




Birth



 色の変わり始めた空を見つめる横顔は、憂愁を帯びているくせにどこか硬質で、冷たく感じられた。
 夕日に染まる白皙の相貌。金色の髪が夕日を受けて、キラキラと光っている。
 声をかけることを躊躇わせる雰囲気に、ロイは眉根を寄せた。
 エドワードがときおり見せる状態。
 拒絶の空気を纏う同業者は、普段の豊かな感情を消して、年齢に不釣合いな表情で窓の外を見つめ続けている。
 部屋に入ってきたロイの存在に、気づいていないはずはないのに気づかぬフリをして、ロイの存在を完全無視してくださっているのだ。
 一人になりたいのなら、このまま部屋を出て行って、気が済むまで一人にしておいてやろうと、親切にもそう思ったのは、エドワードが故意にロイを無視しているのだと気づくまでのことだった。
 つまり、一瞬の間だけである。
「鋼の」
 呼びかけてもぴくりとも反応を返さない。予想通りのそれに思わず溜息をつきたくなったが、それを押し留め、ロイはもう一度呼びかけた。
 二度目の呼びかけを無視させるつもりはなかったので、声をかけると同時に肩に手を置いた。
 ぐい、と、意識を向けさせる強引さで肩を引くと、エドワードが迷惑そうな表情を隠すことなくロイを見返した。
 邪魔をされたことが不愉快極まりないのだろう。
 冷ややかな色を浮かべた透明度の高い蜂蜜色の瞳は、じっとロイを見上げた。
「なんだよ?」
 無感情の音。
 平坦な口調で問いかけ、エドワードは肩にかけられたままのロイの手を、邪険に振り払った。
「……冷たいことだな」
 エドワードの態度を気にすることなく、払われた手をひらひらとさせて、ロイは苦笑した。
 鬱陶しそうな表情のままのエドワードと肩を並べ、ロイは窓越しに眼下を見下ろした。
 厳つい鎧の肩を落とし、とぼとぼと敷地内を歩いているエドワードの弟の姿が見えた。
 ロイに与えられた執務室内で繰り広げられていた光景を、ロイは思い出していた。
 空洞の鎧の中から漏れ聞こえた、か細い鳴き声。
 聞こえるはずのない鳴き声に、執務室内にいた誰もが首を傾げる中、即座に反応を返したのはエルリック兄弟だった。
 兄はもともと吊り上がり気味の眦をさらに吊り上げ弟を睨み、鎧の弟は、慌てた様子でエドワードの怒りを含んだ瞳から巨躯を隠すように身を丸め、うろたえた声で「だって」と言った。
 言い訳を言おうとした弟の、続く言葉をぴしゃりと遮ったのは、容赦のないたった一言だった。
「捨てて来い」
 反論を許さない命令形。
 聞きようによっては冷たいだけのその言葉に、しかし、誰も異を唱えることも、取り成すこともできなかった。
 エドワードが無理に感情を抑えているのではないかと、その場にいる誰もが見当をつけたからだ。
 悲しそうに「うん」と頷いて部屋を出た弟に遅れて、エドワードが無言で部屋を出た。
 ロイは、それを追いかけてきたのだ。
 自己嫌悪に沈む姿を晒したくないエドワードが逃げ込む先など、ロイには安易に想像がつく。
 資料を言い訳に使え、なおかつ、弟の姿を見守ることのできる、普段、滅多に人の訪れない資料室。
 ちょうど正門を見下ろせる場所にある資料室の一角が、密かにエドワードの私設図書館と化しているのは、暗黙の了解だった。
「キミの兄らしい姿を、初めて拝見させていただいたよ」
 揶揄を含んでロイが言うと、
「ああ、そうかよ」
 なんとも気のない応え。
 珍しく噛み付いてこない様子に、訝しくエドワードに視線を移すと、眉間の皺をいつも以上に深くした姿があった。
 半端でなく深い自己嫌悪に陥っているらしい。それがそのまま八つ当たりを含んだ機嫌の悪さに直結している様子に、「珍しいな」とロイは内心で呟いた。
 ここまで機嫌が悪くなっている姿を見るのは、本当に珍しい。
 正門の手前で、大きな鎧が屈みこんだ。
 腕に抱いている仔猫を、触感がない鎧の掌で撫でているのだろうと、安易に想像ができた。
 ちらりと隣を伺えば、エドワードが痛みを堪えるように窓の外を見ていた。が、その瞳が不機嫌に眇められる。
「……あんなところでネコを放したら、ダメだろ」
 意味がない。言い捨てるように呟いたエドワードが、渋面を作って踵を返した。
 きっと弟を叱りに行くのだろうと予想をつけて、ロイはエドワードの腕を掴む。
 制止するように腕を掴んだロイを、怪訝そうに見返すエドワードに笑いかけてロイは言う。
「野良猫は他にもたくさんいる」
 ロイが言い放ったその一言で、言いたいことを察したらしい。エドワードが怒ったようにロイを睨みつけた。
「アルを甘やかすな」
「野生動物のテリトリーをどうこうする権限は、我々にはないよ」
 居つきたいなら居つくし、嫌なら近寄りもしないでどこか別の場所に行く。
「司令部に犬や猫が居ついても、誰も困らない、鋼の」
 野良猫が司令部のどこかに居ついてしまって、次にエルリック兄弟が司令部に訪れたとき、たとえばアルフォンスが野良猫に構ったとしても、気にすることはない。
 司令部で飼うわけではなく、野良猫が『居ついて』しまった。その猫の相手を、動物好きのアルフォンスがしている。ただそれだけのことで、別にエドワードが責任を感じることでもないのだ。
 エドワードがなにかを言う前に先手を打つと、エドワードは困惑に眉を寄せた。
 無条件に許容される。
 等価交換に縛られた子供は、どう反応を返せばいいのか戸惑っているのだろう。
 落ち着きなく視線をさ迷わせ、なんども口を開いては閉じを繰り返す。
 やがて小さく、早口に、
「ありがとな」
 と呟いた。
「どういたしまして」
 ロイが表情を緩めて返すと、エドワードの白い頬が薄っすらと染まった。
 気恥ずかしいのだろう、と、ロイは微笑ましい気分になる。
「あのネコが居ついたら、アルは嬉しいだろうな」
 ぽつりと呟いたエドワードの瞳と顔に、穏やかな感情が広がっているのを見つけ、ロイは知らず安堵の息を零した。
 さきほど見た無表情は、綺麗に消えている。
 自己嫌悪に陥っているときのエドワードには、無表情になる癖あるらしく、それが深ければ深いほど、いっそ見事な鉄面皮が出来上がるみたいだった。
 意識してそうしているわけではないらしく、感情を押さえ込むことに必死になっているあまり、知らずそうなってしまっているようだ。
 変なところで感情を押さえ込むことばかり身につけるから、妙な癖がついてしまったのだろう。
 エドワードには似合わない癖だと思って、一度それとなく指摘してみたことがあったが、エドワードは不思議そうに目を瞬かせた後で、「そうかぁ?」と不審そうに首を傾げていた。
 ロイの言い分を疑う口ぶりから、無意識なのだと推測できた。
 根無し草の自分たちに、小さな命を飼う資格はない。優しい弟にきつく言い聞かせた後の自分を、エドワードは決して見せなかった。
 見せないようにしていたのだろう。だから自分の浮かべている表情を、いつも隣にいる弟に指摘されることがなかったから、気づいていない。気づけない。
 エドワードとアルフォンスが気づいていないそれにロイが気づいたのは、偶然ではなかった。
 些細な変化ですら見分けられるほどに、ロイがエドワードを見ていたからだ。
 気分が浮上するまで姿をくらますエドワードの、纏う空気の違和感。押さえつけられたがゆえに生じる、歪み。部屋を出て行く姿がなにかおかしいと気づいたのは、あれはいつだったろうか。
 気づいてしまえば放っておけなくて、なるべく傍に居るようにしてきた。
 ひとりで抱え込んで、なにもかもを押し込んで、処理できなくなって、そのまま壊れないでいて欲しいと、ロイ自身が望むからだ。
 それはエドのためというより、エドに恋情を抱いたロイのエゴから生まれた行動だった。
「キミは……」
「ん? なんだよ?」
「鋼のは、あの猫が司令部に居ついたら嬉しくないかい?」
「……別に……」
「動物は嫌いか?」
「……好き、だけど……」
「だったら、キミもあの猫と遊んでやればいい」
 ロイがそう言うと、エドワードは複雑そうな顔になった。
 アルフォンスに「捨てろ」と言った手前、構い辛いのかもしれない。
 こんなところでも、エドワードの意地っ張りは健在で、惜しみなく発揮される。
「次に来たとき、あのネコがここにいたら、な」
「いるよ」
「断言する根拠は?」
「フュリー曹長が放っておくとは思わない」
「…………ああ、そっか。そうだよな」
 お人よしがそのまま服を着て歩いているような性格の、眼鏡をかけた青年を思い出し、エドワードは頷いた。
 窓の外に視線を戻せば、いつの間に外に出たものか、アルフォンスの傍らに件の曹長の姿がある。
 両方の手に持っているのは、きっと餌とそれを入れるための皿かなにかだろう。
 ロイは予想を裏切らない部下の姿に、可笑しそうに笑った。
 肩を揺らしながら笑っているロイを見つめ、エドワードは呆れた息をつく。
「大佐って、直属の部下に甘いよな」
「仕事のこと以外で、強いて厳しくする理由がないからな」
「アルのことは甘やかすし」
「アルフォンスは適度に甘えてくれるから、甘やかし甲斐がある」
「……だからって甘やかしすぎだろ」
「キミが甘えてくれない分、どうしてもアルフォンスを甘やかしてしまうんだよ。キミが甘えてくれたなら、ちょうどつり合いが取れて、甘やかし過ぎるということはなくなるだろうね」
 そう言うと、エドワードが言葉に詰まって俯いた。
 前髪で隠された表情は、困り果てて、歪んでいるのだろう。
「……なんで、そう言うことを言うんだ、あんたは」
 囁きに近い声音で訊ねるエドワードに、ロイは微かに眉根を跳ね上げた。
 数え切れないくらい繰り返した問答だった。
「キミこそ、まだ言われ足りないかい?」
 言いながらロイはエドワードの髪に指を絡めると、ぴくりと、エドワードの肩が揺れる。
 ぎゅっときつく閉じられた瞼に隠された瞳に浮かんだ感情を、ロイが知る術はない。
 隠されたものは、いったいどんな感情だろうか。
 思いをはせるものの、想像すらつかない。
 悪い意味での拒絶や、軽蔑の感情は抱かれていないようだが、肯定的なものがあるとも思われない。
 ロイの好意を――受け入れられない、と、拒む空気。不信。
 頑なに他者から向けられる好意を拒む理由が、ロイには理解できない。
 人体錬成を行った罪悪感。弟に対する罪悪感。それらに雁字搦めに縛られ、囚われて、元に戻るそのときまで、それらを甘受して生きて行くことに、いったいどんな意味があるのだろう?
 その先に、本当にエドワードは、幸せな未来を見ることができているのだろうか?
「言われ足りないというのなら、鋼のが満足するまで言おうか?」
「……言わなくていい」
 聞きたくないというようにエドワードが首を振るたびに、ロイの指から離れた髪が踊るように揺れる。ロイはそれを見つめていた。
 全身に力を入れて、ロイの言葉を拒絶するエドワードに、言い含めるようにロイは言った。
 なんども、何度も繰り返した言葉を、今日も繰り返す。
 繰り返すしかないと、知っているからだ。
「鋼の、私は、今すぐに私の気持ちを受け入れて欲しいと、強制しているわけではないんだ」
 まだ、その時ではないのだと、ロイは解っている。
 エドワードにはなによりも優先するべきことがあって、ほかのことに心を割くだけの余裕がない。……余裕があったとしても、自分のことを優先する気がない。
 罪悪感という名の扉は、頑なに鍵を拒む。エドワードの心を奥に隠すために、強固な砦となって、隙間もなく立ちはだかる。
 ロイの視界の中、ぎゅっと握り締められる拳。
 微かに届いた機械音。
「ただ、疑わずに信じて欲しいんだよ。知っていてほしい―――私が、キミを、好きだということを」
 告げたとたんに、エドワードの体が怯えたように震えた。
 がちがちに全身を強張らせて、ロイの視線から逃れるように、深く顔を俯かせる。
「キミが、好きだよ。鋼の」
 言って、ロイはそっとエドワードの頭を撫でた。
 ロイの掌の下で、俯き、項垂れた金色の頭が微かに振られる。
 ロイの言葉を。告げられる好意を、怯えたように拒絶する、その頑なな態度は、変化を見せない。
 変わりないやり取りに、ロイはただ小さく嘆息するだけだ。
 罪びとは愛されてはならないとでも思っているのだろうか。
――案外、そうなのかもしれない。
 潔癖なことがすべてであるように思い込む、そういう年頃だ。ましてエドワードのように真っ直ぐな気性の人間であれば、なおさら。
 自分の犯した罪を、エドワード自身が許すことがないのなら、強固な扉は開かれることがないのかもしれない。
 だが。
 だが、とロイは思った。
 ロイはそれを許すつもりはない。
 急ぎはしないが、必ず、エドワードの本心を隠す扉を開いてしまおうと決めている。
 そのために、くりかえすのだ。
 たとえエドワードが拒絶しか返さなくても。
「好きだよ」
 何度でも告げよう。
 何度だって、言おう。
「好きだよ、鋼の」
 キミが信じてくれるまで。
「好きだよ」
 くりかえす言葉の合間に、そっと、唇を金色の髪に落とした。
 太陽の匂いが、ロイの鼻腔を擽る。
「言うなよ……好きなんて、オレに言うなよ、大佐」
 泣き出しそうな声で言って、エドワードの手がロイの体を軽く押しやった。
「…………何度言われたって、オレには応えられない」
「応えて欲しいわけじゃない。ただ知っていて欲しいだけだよ。解って欲しい。疑わないで欲しいだけだ、私がキミを好きだということを」
 信じないまま、なかったことにされたくないだけだ。ロイが言うと、エドワードが困惑顔でロイを見上げた。
 ロイは柔らかな笑みを浮かべると、エドワードの額に軽く唇を落として口づけた。
「キミが好きだよ」
 もう何度目かも解らない告白を口にして、そっとエドワードを抱き寄せる。
 強張った体には気づかないフリで、くりかえす。
 たったひとつの言葉だけを。
 祈るように、思う。
 いつか、キミの心に届いてくれればいい。
 告げる想いを、いつか、信じてくれればいい。
 いまはまだ、それだけでいい。
 それだけでいいから、と、エドワードを抱きしめる腕に少しだけ力を込めて、ロイは思った。