Birth 2


 疲れた体に鞭打って、ロイは起き上がった。
 誤魔化しようもなく疲弊した肉体は、無茶を強いる持ち主に抗議するかのように、緩慢な動きしかしてくれない。
 舌打ちをしつつ、寝乱れた髪を掻きあげる。
 全身を支配する倦怠感が苛立たしくて、仕方ない。
 ああ、もう、まったく! 動けというのだ!
 主の命令に従わない器に内心で毒づいて、のろのろと体を動かしてベッドを降り、満足に命令をきかない体を引きずるようにしてバスルームに向かった。
 温かいシャワーか、冷たいシャワー。どちらでもいい。とにかく倦怠感を払拭できれば、幾分気分もすっきりするだろう。
 思いながら、ロイはコックを捻った。
 勢い良く降り注ぐ冷水に、ひやりと全身が竦んだのは一瞬。
 体を冷やす冷たさに、次第にクリアになる意識。
 倦怠感も、遠のく。
 冷たい水ではっきりした意識に満足すると、湯に切り替えた。
 冷えた体が、今度は温かな湯に包まれる。
 知らず、零れた吐息は安堵を含んだもの。
 気が緩んだ証拠だ。
 温かなものに触れると、自然と緊張が解けるのは、安心を得てしまうからだろう、と、自嘲気味に思う。
 体が十分温まると、ロイはシャワーを止めてバスルームを出た。
 体を拭い、ローブを羽織る。
 雫を落とす髪をいささか乱暴に拭いながらリビングに足を踏み入れ、カーテンを引き忘れたために、清涼な朝の光に満ちた室内の眩しさに、反射的に目を細める。
 綺麗過ぎる、と咄嗟に思ったのは、ここ最近、殺伐とした空気の中に身を置いていたからに他ならない。
 昨日逮捕したテロリストたち――組織名はなんといったか――に関する報告書が、今日の午前中には仕上がってくる。
 それに目を通し、サイン。部下たちが作成した書類と、ロイが作成した書類を纏めて中央の軍法会議所に送り、逮捕者の移送準備を手配し、それの分の書類を作成し、移送班につける部下を選定、将軍に提出する書類も作成しなければならない。
 判っているだけの仕事を思い描きながら、ロイはうんざりと溜息をついた。
 サボりたい。
 心の底から、サボってしまいたい、と思う。思うが、それができないことは、十二分に判っていた。
 本日サボリを強行してしまえば、ロイに未来は――と言うか、命はない。
 断言できる。
 明日の朝一番、出勤と同時に、不本意ながら二階級特進をすることになる。
 嬉しくもありがたくも、まして頼んだつもりもないテロリストたちからの執拗なお誘い――くどいようだが、散々相手をさせられたが組織名は忘れた――に、心底、ロイは疲弊していた。相手をすることに飽きていたとも言う。
 ほぼ連日、神出鬼没のテロリストたちと攻防を繰り返し、休日返上、休憩返上で軍部に詰め、対策を取り、市街に出ては作戦を遂行し、を繰り返して、氷山の一角とはいえ、やっと逮捕に漕ぎ着けたのが昨日の夕方。夜と言っても差し支えない時間だった。
 誰もが疲れて、ひどい顔をしていた。その中でもロイの表情はよほど険悪なものだったのだろう。もしかしたら相当煮詰まっていたのかもしれない。
 派手さはないが、巧妙な動きで実働部隊は翻弄されていたのだ。
 さすが、元盗賊連中。
 思わず褒め称えたいくらいに、逃げ足は素早く、行動も早く。何組にも分けられていたせいか、かく乱も絶妙に巧かった。
 誇張でもなんでもなく、翻弄され続けた日々だった。
 なるほど、一本に纏まっている組織は、一筋縄ではいかないな。逆に勉強させられた、とロイは嘯いたものだった。
 その言動か、ロイの表情か、もしくはその両方に、だったのかは判らなかったが、ホークアイ中尉が眉を顰めつつ、事後処理は明日でもかまわないのではないですか、と、ロイに向かって進言した。
 本来なら、それは許されない進言だった。取調べと調書の作成、報告書。もしまだ仲間が付近に潜伏しているなら、残党の逮捕、拘束。迅速な対処が必要だ。が、久々にロイと共に指揮を執っていた将軍が「みんな疲れているようだから、そうしよう」と呑気に言って、ホークアイ中尉の進言が聞き入れられた。
 東方司令部だからこそ許される行為だ。
 これが中央の狸たちの耳に入れば、将軍の取り成しがあったとしても、減俸間違いなし。
 職務放棄だからなー、と思いながら、ロイは欠伸を噛み殺したものだった。
 とにもかくにも将軍の鶴の一声に、作戦に参加していた者たちの唇から安堵の吐息が零れたのは、当然だった。
 疲れきった身体も精神も、とにかく休息を求めていた。
 逮捕後の処理は、とかく面倒な作業が多い。
 報告書と言う名の書類作成は、ひどく気力を奪う。好きではないから、余計にそう思うのかもしれない。
 拘束したテロリストたちを、とりあえず司令部に移送して、すべては明日以降、と今回の作戦に参加した者全員が、久々――ほぼ一週間ぶり――に、自宅の、あるいは寮の寝台で体を休めることを許された。
 休息を進言してくれた副官の厚意をサボリで報いれば、彼女の容赦ない弾丸がロイを狙うことは明々白々(ついでに他の部下たちの喧々囂々。文句の輪唱。別にこれは無視すればいいだけか。でも煩いのはいやだ。鬱陶しいから)。
 恐ろしい、と認識するより先に、体が震えて冷や汗が流れた。
 ぶるり、と体を震わせたロイは、用意したコーヒーを口に含む。
 恐怖に竦みあがった思考が、少し、落ち着いた。
 観念して出勤しよう。そうしよう。それに、久々に会えるのだ。
 この一週間、まともに話もできなかった。顔を見ることもなかった兄弟を思い浮かべる。
 思い浮かべただけで、自然とロイの口元が緩む。
 気分までもが、上昇した。
 いそいそと軍服に着替え、出勤の準備を整える。
 早く、会いたい。
 会って、補給しよう。
 足りなかった、あの子供の存在を。
 磨耗した心に、あの不器用な子供の存在は一番の特効薬だ。
 カップを洗うのもそこそこに、ロイは官舎を後にした。


 慌しい午前中が過ぎ、少しだけ余裕を取り戻した司令部内を、ロイは急ぎ足で歩いていた。
 向かう先は資料室の、一室。
 ここ最近は、ずっとそこに篭っているようだと、内勤の下士官が教えてくれた。
 今度は、いったいどんな文献を持ち込んだのやら。
 苦笑混じりに思いながら、ロイはドアをノックする。
 返事が返らないことは承知済みだが、一応の礼儀だ。
 案の定、返事は返らず、相変わらずだなと苦笑を深めて、ロイはノブを回した。
 電灯がついていても薄暗い印象が拭えない室内をざっと見回し、窓の近くの床に、直に座り込んでいる子供を見つけた。
 ぶつぶつと書物の内容を呟きながら、傍らのノートに走り書きをしている。
 器用なものだ、と、ロイは呆れるやら感心するやら、だ。
 エドワードの視線が本から離れることはない。
 ぱらり。
 ぺらり。
 かりかり。
 紙を捲る音、書き記す音。それから呼吸音だけがすべての世界。
 入り込む余地もない。
 それは少しだけロイの気分を下降させるものだが、気にしていたら、底なし沼の底を探す旅に出るようなものだ。
 集中力をいかんなく発揮している最中のエドワードに、周囲と人を認識しろと言うほうが間違っている。――のだが、今日はそんなこと、言っていられない。
 まだまだ、仕事は山積だ。
 本来なら、本日の休憩時間も返上しなくてはいけないくらい、未処理の業務がロイを待ち構えている。そこを口八丁手八丁で抜け出してきたのだ。
 感情を制御できる彼女の瞳が、制御不能なほどに剣呑なものになるまでには、なにがあっても戻らなくてはいけない。
 中尉の不機嫌に顰められた眉根を思い出し、ロイは体を震わせた。
 残り時間は、思っている以上に少ない。
「鋼の」
 呼びかけ、歩み寄る。
 書物に没頭するエドワードの意識は、ちらりともロイに向けられることがない。
 苦笑して、ロイはエドワードの傍らに屈みこんだ。
 真剣な横顔を見つめる。
 厳しい眼差しで。ときおり、感心したように、呆れたように文字を追う瞳の色は、甘そうな色彩。
 以前、エドワードが国家錬金術師になったばかりの頃くらいに、珍しさもあって、からかい半分に蜂蜜のような色合いだと言ったら、複雑な顔で黙り込まれた覚えがある。
 気に障ったのだろうかと思って、話題にしないよう気をつけているが、珍しい虹彩の瞳に、ロイはつい目を奪われる。
 ふ、と、エドワードの瞳が瞬きを繰り返した。
 ぱち、ぱち、と数回またたきをくりかえし、本からゆっくりと視線を上げる。
 集中力が途切れたなと、苦笑して、ロイは立ち上がった。
「鋼の」
 驚かさないように気を使いながら呼びかけると、幼い仕草でエドワードがロイを見上げた。
「大佐?」
 きょとんとロイを見上げる無防備な仕草に、ロイは知らず目元を緩めた。
 作られていない表情を見るのは、結構、貴重だ。
 エドワードは、なかなか、警戒心を解かない。
 解いていると見せかけて、一線を引いている――というか、引かれたままだ。
 無防備な表情はすぐに消えて、対軍人――それなりに気心知れた軍人――用の顔で、エドワードはロイを見つめた。
 少し迷惑そうな表情であることは、この際、きっぱりと無視することに決める。
「あんた、ここでなにやって……ああ、そっか。テロリスト、逮捕できたんだってな。おめでとう。ついでにご苦労さん」
「ありがとう。キミに労ってもらえると、疲れも吹き飛ぶ気分だ。無理をして会いに来て良かったと、心から思うよ」
 労いの言葉を貰って、意外な展開だと軽く目を見張ったあと、ロイは嬉しさを隠さずに、にこにこと笑って言った。とたんにエドワードの眉根が困ったように、八の字に寄せられる。
「無理してまで会いに来るな! 大人しく仕事をしてろ! ついでにそう言うことを言うなって、毎回言っているだろっ! いい加減、オレは言い飽きたぞ!!」
「あいにく、私はキミの声を聞きたいんだ。それが悪口雑言だろうが、罵詈雑言だろうが、聞き飽きることがない。諦めてくれ」
 できればロイの気持ちに応える言葉なら、嬉しいけれど、とは、内心でだけ呟いて、ロイはもう一度屈んだ。
 エドワードの視線に、自分の視線をぴたりと合わせると、怯んだようにエドワードの肩が震えて、逃げるように視線が泳いだ。
「鋼の」
「いやだ、聞きたくない」
 固く拒む言葉を口にして、エドワードが首を振る。
 ぱさぱさと乾いた音を立てて、エドワードの前髪がすべらかな頬を打った。
 拒否をするエドワードの言葉を、聞き入れてやりたいと思う。思うけれど、それはできない。したくない。
 エドワードの願いを聞き入れてしまったら、全部をなかったことにされてしまう。
 嘘や冗談にされてしまう。
 今だって、信じきってくれていないと言うのに。
 ロイの言葉にエドワードが追い詰められた気持ちになっているのは、薄々気づいている。
 悪いと思う。
 痛ましいと思う。
 背負わなくていいものを、背負わしている自覚は十分にある。
 けれど、いまは、信じて欲しいのだ。
 ただ、信じてくれたら、いいのだ。
 気持ちは、まだ、望まない。
 想いを返して欲しいとは、まだ、望まない。
「鋼の、好きだよ」
 そっと手を伸ばし、小さな体を抱きしめる。
 ロイの腕の中で、エドワードの体が頼りなく震える。
「……言うなって、言ってるだろ」
 か細い声で、それでもしっかりと悪態をつくエドワードの背を、宥めるように軽く叩いた。
 そして歪められた顔を覗き込む。
「キミはそう言うけれど」
「なんだよ」
「言わないとキミは嘘や冗談だと思い込むし、信じないし」
「だって……信じられるかよ」
 女好きで有名な大佐が、なんだって男の、まだガキのオレを好きだなんて言うんだ? 冗談や嘘だと思うほうが自然だろう。
 顔を顰めて言い募るエドワードに、「そうなんだが」と肩を竦めて同意しつつ、ロイは言った。
「からかっているわけでもなく、本気で鋼のが好きなんだよ。キミが信じてくれるまで、根気良く、何度でも私は言うよ」
 でないとキミはあっさりと、弟のためだからと命を掛けてしまいそうで。それが怖い。
 心のどこにも、ロイのことを留めることなく消えてしまいそうで、それが怖い。
 口には出さず、ロイは心の中でそう続けた。
 けれど、ロイの想いを信じたところで、エドワードが弟のためにすべてを投げ出すのは、容易に想像がつくことだ。
 だが、と、ロイは思う。
 少しでも躊躇って欲しい。
 躊躇うことを、願う。
 弟以外の、エドワードを思う人たちの痛みだとか、悲しみだとか、そういうことを心のどこかに留めて欲しい。
 ロイの、エドワードに告げる想いをきっかけに、弟のためだけにエドワードのすべてがあるわけじゃないことを知って欲しい。
 この気持ちに嫉妬が絡んでないとは、嘘でも言うことはできないけれど。
「信じてくれ。キミが、好きだよ」
 ほんの少しでいいから、信じて。ロイがそう言うと、蜂蜜色の瞳が困惑に揺れた。