思いがけない裏切りに、戸惑う以外の、いったいなにができただろう。

あなたは知らない

 気持ち良さそうに。
 疲労の残る顔色。けれど案外穏やかな寝顔を見つめて、ロイは口元を綻ばせた。
 いつもは三つ編みに結われている髪が、乱れて、シーツに広がっている。
 その一房を指に絡め取り、弄ぶ。
 柔らかい感触は、女性のそれには劣るものの、手触りが良い。欲を言えば、もう少し手入れに気を配ればいいのに、というところだろうか。
 陽に晒されて少し傷んだ感触が、蜂蜜色とも琥珀ともいえる綺麗な金色の髪の輝きを、半減させているように思えて仕方がない。
 惜しい、と、ロイに思わせるのだ。
 それを口にしたところで、「女の人じゃないんだから」と呆れた口調で一蹴されて、取り合ってもらえないだろう。
 かすかな呻き声と共に、エドワードの体が反転する。
 指先から、するりと逃げる髪。
 ロイの瞳に映る、露わになった白い背中。
 ロイは目を細めた。
 かつて翼があった名残だと言われる、肩甲骨。そこに指先を伸ばして、辿る。
 伝わる、骨の感触。
 いつそんな話をしたのか覚えていないが、エドワードが自嘲を込めて言ったことがあった。
 エドワードのために用意された翼は、世界の逆鱗に触れて取り上げられてしまった。だからもう二度と、優しく安穏とした世界に飛び立てない。
 そう言った少年の、ほんの少し大人びた表情が悲しく思えて「そんなことはない」と、口にしかけたロイは、しかし、結局、その言葉を口にすることなく飲み込んだ。
 やんわりとした拒絶を感じ取った気がしたからだ。
 同情も、慰めも、エドワードは必要としていない。ロイはそのことを知っていた。
「……ん、大佐?」
 寝起きの舌足らずな口調が、不思議そうにロイを呼ぶ。
 くるりと反転した体が、温もりを求めるように擦り寄ってくるのを抱きしめた。
 こういった無意識の行動が、エドワードがまだ子供なのだとロイに思い出させる。
「起こしてしまったか?」
 情事の残火が燻っているだろう肌を指先で辿りながら、ロイは囁くように訊ねた。
 完全に覚醒した瞳が、射抜くようにロイを見つめる。
 くすぐったそうに身を捩ったエドワードが、悪戯をしかける手を軽く叩いて払いのけて、
「さんざんしたくせに、まだ足りないのか?」
 呆れた口調を隠しもしないで溜息をついた。
 自分から擦り寄ってきたくせに、とは、心の中で呟くに止める。
 久々の再会だ。味気のない言い合いは、興が殺がれる。
 そんなのはごめんだな、と、まだ酔いの残った思考で思う。
 どうせ楽しむなら、ロイの気に入る空気がいい。
 甘ったるくなりすぎず、ドライになりすぎず。遊戯感覚の駆け引きを楽しむような、そんな空気がいい。
「だって、久しぶりじゃないか」
「オレとするのは久しぶり、だろ?」
 にやり。エドワードの唇が揶揄を含んで吊り上げられた。
 責めるわけでも、嫉妬を含んでもいないその口調に、ロイは微かに眉根を寄せる。
 体を重ねるけれど、二人の間に交し合う『想い』が存在しないと実感するのは、こんなときだ。
 特別な好意を寄せているわけではないけれど、少しだけ淋しいと感じてしまうのは、身勝手な言い分でしかない。だけどベッドを共にしているときくらい、嘘でもそういうフリをして欲しいと思ってしまう。
「いま私の腕の中にいるのは、鋼のだろう?」
「それが?」
「だったら、こんなときくらい……」
「ああ、恋人のフリをしろって?」
 面白そうに眉根を跳ね上げて、聡い子供はそう言った。
 するり、と、しなやかな筋肉のついた腕と、機械鎧の腕がロイの首に回された。
 可笑しそうな色は隠しきれないまま、甘く瞳を煌かせて囁く子供の唇の赤さが、艶かしくロイの目に映る。
「なぁ、オレ以外、抱くなよ?」
 聞いたこともない甘く切ない声が、なぜかロイの鼓動を跳ね上げさせた。
 どくりと、高鳴った鼓動に思わず目を見張るのと、エドワードが噴出すのは同時だった。
 可笑しそうに肩を震わせて、エドワードは笑う。
 その姿をロイは憮然と見返した。
「笑いすぎだろう、鋼の」
 いくらなんでもそれはないんじゃないか。そう思って言うと、「悪い、悪い」と全然そう思っていない口調で謝りながら、エドワードが目尻に滲んだ涙を拭った。
「だって、あまりにも似合わないからさ」
 オレたちそういう甘い関係じゃないだろ? と、さらりと言われて、ロイは溜息をつきつつ「そうだな」と頷いた。
 確かに、エドワードの言うとおりだ。
 けれど、でも、こんなときくらい。やはりそう思ってしまう。
 いまだ小さく笑い声を洩らしている唇が不意に憎たらしく思えて、ロイは、深いキスでエドワードの唇を塞いだ。
 官能を呼び覚ます口づけ。
 最初、抵抗を示すように逃げ惑っていたエドワードの舌が、しばらくすると欲情を隠すことなくロイの舌に絡
められた。

 無防備な横顔。楽しそうな表情。
 そんな顔は知らない。
 知る機会を、一度だって、もらえなかった。
 伸ばそうとした指先を、躊躇わせた。
 そうする以外の行為は、許されない気がした。


 少しずつ。
 違和感なく、少しずつ、エドワードが中央に来る期間が開いている。
 前にエドワードの会ったのは、いつだったろう?
 半年近く会っていなかったような気がする。
 提出された報告書を読みながら、ロイは偉そうな態度で座る少年を、ちらりと見やった。
 ロイの貸したファイルに注がれる視線が、ロイに気づくことはない。
 報告書を読むのを中断して、ロイはそっとエドワードを観察した。
 特に変わったところがあるようには思えなかった。――もちろん、ロイが気づける範囲内で、という限定付きだが。
 あからさまにロイを避けるような行動はしない。
 ロイに対して鬱陶しそうな顔をするのはいつものことだし、憎まれ口だっていつもだ。
 文献だとか、資料だとか。興味のあるものを読んでいるときに返事がないことだって、いつものことなので気にする必要はない。
 長期間、顔を会わせないことだって、別に今に始まったことじゃない。
 それなのに、どうしてだろう。避けられている。距離を置かれている、と、そう感じてしまうのは。
 気のせいだ、そんなわけがない。そう思えば思うほど、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、違和感が強くなる。
 なにかが、違う。
 ボタンをひとつ掛け間違えたような。
 生活パターンのひとつの順番を間違えたときのような、些細なズレ。
 気づかなければ気にならない、そんな程度の。けれど、心に引っかかるズレ。
「大佐」
 不意に呼びかけられて、ロイは眼を瞬いた。
 一瞬、誰に声をかけられたのかと思ったのだ。
 一呼吸分の時間をおいて、ああ、エドワードに呼ばれたのだと、気づく。
 文献に集中していないのは珍しいな、と、思考の隅で思いながら、ロイは改めてエドワードを見返した。
「オレに用事でもあんのか? 穴が開くほど見られてちゃ、集中できないだろ」
 ファイルに視線を向けたまま、エドワードが言った。
「すまない。用があるわけじゃないんだが……」
「じゃあ、なんだよ?」
 問われて、ロイは迷った。
 自分の感じている違和感を。エドワードに対して抱いたそれを、口にしてもいいだろうか、と。
 数瞬迷って、案外、口にしたほうがすっきりするだろうと結論付けて、ロイは言った。
「なんとなく、鋼の、キミの様子が変な気がしてね。なにかあったのか?」
 ロイが言うと、驚いたようにエドワードが顔を上げた。
 驚いたエドワードに、ロイも驚きながら続ける。
「どこがどうと、はっきりは言えないんだが……。どうもいつもと違う気がして仕方がない。だから見ていたんだが、気に障ったか?」
「――いや、気にしてない。あと、何かあったわけでもないから。平気だぜ」
 答えたエドワードが、どことなく困惑したように視線を彷徨わせる。
 それを見つめていたロイは、僅かに首を傾げた。
 エドワードの仕草が、琴線に触れた。
 違和感……の、片鱗だろうか?
 そう考えたとき。
「……あっ!」
 ロイは些細なズレの正体に気づいて、声を上げた。
 ロイの大声にぎょっとしたエドワードが、眉を顰める。
「なんだよ、大佐。急に大声出して。脅かすなよ」
「ああ、すまない……その、ちょっと……気になっていたことの答えが判って」
 ロイが言うと、迷惑そうに「あ、そ」と呟いたエドワードは、再びファイルに目を通しはじめた。
 エドワードの様子に、ロイは確信する。同時に抱く疑問。
 どうして。
 問いかけようとして、けれど、言葉を飲み込む。
「どうして目を合わせない」
 そう問いかけたとしても、エドワードは答えないだろう。
 そして、ロイの問いかけを肯定も否定もせず、ファイルを読むことを理由にはぐらかす。
 重ねて問えば、「気のせいじゃないのか」とからかうように笑って、一蹴されるだけだ。
 容易に想像がつく。
 そっと溜息を落とし、ロイも報告書に目を落とした。
 視線を落とす、その一瞬に、エドワードと視線が交わったような気がしたが、確かめるタイミングはなかった。

 西日の光を受けた書類が、淡く赤橙色に染まったことに気づいて、ロイは時間を忘れて集中していた自分に苦笑を零した。
 固まった体を解そうとして、ふと動きを止める。
 目の端に映った、鮮やかな琥珀色。
「鋼の?」
 まだファイルを読み終えていなかったのか。そう言えば、珍しく集中していなかったと思いながら視線を移してみれば、辛そうな姿勢でエドワードが転寝をしていた。
 テーブルに無造作に置かれたファイルは、すでに読み終えてしまったのか、まだ途中なのかロイには判断ができなかったが、閉じられていた。
 狭いソファに、体を丸めるようにして眠っている姿に、思わず表情が緩んだ。
 エドワードがロイの前で無防備な姿を晒すことは、ほとんどない。
 とくに、軍司令部の中では。
 よほど疲れているのか、それとも気を許してくれた証拠か。後者であれば良いと思うが、それはありえない。特に今日のエドワードの態度を思えば、気を許してくれているなど、皆無に近いんじゃないかと思いながら立ち上がり、ロイは足音と気配を殺してエドワードに近づいた。
 規則正しい寝息が、睡眠の深さを伺わせる。
「まったく……風邪を引いてしまうぞ」
 ソファの背凭れにかけられたエドワードのコートを取り、眠るエドワードにかけてやる。
 頬にかかった前髪が、エドワードの寝顔を隠している。
 そっと手を伸ばしてそれを払いのけ、ロイは小さく息をついた。
 エドワードは、本当は、ロイをどう思っているのだろうか。
 そしてロイ自身は、エドワードをどう思っているのだろう。
 ロイとエドワードは、気が向けば抱きしめあう。けれど、そこに特別な感情はお互いなくて、甘い関係でもなく。嫉妬も束縛もないドライ過ぎるほどドライな関係だ。
 お互いの性欲を解消するための、後腐れがなく、割り切った関係だと言ってしまっていいだろう。
 セックスフレンド。
 たぶん、一番しっくりくる言葉はそれだと思う。
 思う一方で、ロイは、最近それが物足りないような気がして仕方がない。
 必要最低限の甘さの欠片もない、それが、ロイを不安にさせる。
 抱くことを許してくれているのだから、嫌われてはいないだろう。そう思う。けれど、好かれているとも思えない。特に今日のような態度を取られると、本当は嫌われているんじゃないかと思ってしまうのだ。
 考え出すと、判らなくなる。
 そもそも、どうして。……いつからロイとエドワードは抱きしめあうようになったのだったか……。
 きっかけさえ曖昧で、ロイは思い出せない。
 プライドの高いエドワードが、ロイに体を許す理由さえ判らない。
 性欲の解消。気持ちがいいから。好奇心。
 思いつく限りの理由を並べてみても、どれもが正解で、不正解な気がする。
 そもそも、自分は、なにか大事なことを忘れてしまっていないだろうか?
 ロイがそう考えたときだった。
「ぅ……ん」
 小さな唸り声とともに、エドワードが身じろいだ。
 起きたのかと思って顔を覗き込んだが、目覚めた様子はなく、寝やすい体制に体を動かし、すやすやと気持ち良さそうに寝息を洩らしている。
 せっかく払いのけた髪がまた頬にかかって、擽ったそうだ。
 思わず苦笑が零れた。
 幼さの残る寝顔を久しぶりに見ようかと膝をついて、ついでだからと手を伸ばし、頬にかかる髪を払いのけようとした。そのとき、だった。
「…ア…ル?」
 小さく、けれど、はっきりとした音で、エドワードが弟を呼ぶ。
 呼んで、そっと手を差し出した。
 求めるように差し伸ばされた左手が、ロイの軍服を掴む。
「アル、……お前、どこに……行って……? オレの傍から、いなくなるな……よ」
 ぎゅっと強く掴まれる軍服の上着に、皺が寄った。
 ロイはそれを呆然と見つめる。
 舌足らずな、覚醒しきっていない声。そして懇願するような言葉。きっと、アルフォンスがいなくなった夢を見たのだろう。だから間違えているのだ。
 傍にある人の気配。だが、夢現に混濁したエドワードの意識は、弟とロイを間違えている。
 本来ならば、間違えるはずがないのに。
 きゅっと軍服を掴む手に込められる力。自分のほうにロイを――エドワードの意識ではアルフォンスを引き寄せるように、そして、自らも擦り寄るように近づいて。
 ロイの視線の先で、ふわりと。
 ありふれた例えをするなら、大輪の花が綻ぶように。柔らかく、それでいて華やぎ、安心しきった笑みをエドワードが浮かべた。
 無条件に向けられる、甘えを含んだ笑み。
 その瞬間に生まれた気持ちを、ロイは、どう処理して良いのか判らなかった。
 否定も、肯定も、瞬時にはできなかったのだ。
 生まれた瞬間に渦巻き、広がった感情に名を与える。
 そんなことしかできなかった……。


 求め続ければキリがない。
 届いていないと判っていても望んでしまう。求めてしまう。
 ……願って、しまう。
 どうか。
 気まぐれでいいから。
 どうか、気まぐれの間だけ。その刹那だけでいいから、その心をくれないだろうか。
 忘れられてしまった言葉を、その間だけ、真実にかえて。
 だって、何も知らない。
 覚えていないから、あなたは、なにも知らない。
 戯れに投げかけた言葉も。
 無意識に犯したであろう、小さな裏切りさえ。
 貴方は知らない。
 心の中に閉じ込めて、封印をしてしまった、真実を。