ずるい。
 ずるい、ずるい、ずるい。卑怯だ。
 なにも。なにひとつ、知らないくせに。
 どれだけ、……どんなにあなたを好きかなんて、知らないくせに。
 引きとめようとする声が。
「好き」と言ってくれる声が。
 触れている指先が。
 もう、どうでもいい、とそんな心を生み出す。
 本当が欲しい。偽りじゃない心。
 戯れではなく、本気の言葉。
 躊躇わずに、この指先を伸ばして。この手に、掴ませて。捕まえさせて。
他の誰でもないあなたを。
 願うのは、そんなことばかりだった。
 怖くて、本心を訊くことができなくて。嘘と虚勢と誤魔化しで成り立っていると判っていても、それでも失いたくなくて、曖昧な関係のままにしていた。
 ずるいのは、自分も同じだ。
 願うばかりで、たった一歩を踏み出しもしなかった。
 酔った勢いだとか、冗談だったとか。戯れだったとか。言葉ではっきりと肯定されることが、どうしても、怖かった。
 本気だった。
 どうしようもなく、本気で、好きで。酔っ払いっていると判っていても言わずにはいられなくて、告げた想いだった。
 相手が酔っ払っているから。そして、自分も多少酔っていたからこそ、言えた本当だったのかもしれない。
 でも、もう、そんなことはどうでもいいと思ってしまう。
 あなたは知らないままでいい。
 なにも知らずにいて。
 肩に触れる掌の温かさ。
 掠れる、音。
 その、微かな震え。
 切なく見つめてくれる、瞳。まっすぐな眼差し。告げられた言葉が本気だと判る、真摯さ。
 それだけで、もう、十分なのかもしれない。
 これ以上を望むのは、欲張りすぎなのかもしれない。
 もしかしたら、と、そう思ってしまう未練が、悲しい。
 悲しくて、滑稽だ。
 最後に貰った『本当』は、きっと、これからの支えになる。
 いつかまた、誰かを想えるようになるときの。
 いまは、まだ、臆病になってしまうだろうけれど。

 さあ、幕を下ろそう。
 そして、夢は終わる。


「なぁ、大佐」
 表情とは裏腹に優しい声音。
 残酷な言葉を、この優しい音が紡ぐのだ。
 そっと、慎重に、エドワードの機械鎧の掌がロイの左手に重ねられた。
 強い力ではなかった。
 それなのに、どういうわけか、抗えない強制力を持っていた。
 左手の次は、右手だった。
 丁寧に、ゆっくりと、ロイの手から離れてゆく温もり。
 固い感触も遠ざかる。
 近づくのは終焉の時か。
 真っ直ぐに。
 焦がれて望んだエドワードの瞳が、静かにロイを見つめる。
 エドワードの瞳は、二度と、逸らされることはないだろう。そのかわり、もう二度と、切なく、甘く、ロイを見つめることはないのだろう。
 ロイを見上げる瞳を見つめ返し、いまさら、思う。
 切なく、狂おしく、どうしようもなく、好きだと思う。
 本当に、いまさらだ。
「大佐がいまオレを好きだと思うのは、それはきっと勘違いだ。本気のはずがない。オレが大佐から離れてしまおうとしているからだ。性欲処理に最適なオレを、惜しむからだ。そうだろう?」
 頷いて欲しいと、エドワードの瞳が言っていた。
 ロイは、軽く唇を噛み締める。
 違う。そうじゃない。性欲処理だとか、惜しんでいるからとか、そうじゃない。勘違いで「好きだ」と言っているわけじゃない。
 ロイの想いを信じないと。なかったことにしようとしているエドワードに、それを信じてもらうにはどう言えばいいのだろう。
 エドワードの言葉に頷くことはできない。どれだけ望まれても、それだけは絶対にしてはならない。
 頷けば、本当に、ここですべてが終わってしまう。
 ロイの手で、終わらせてしまうことになる。
 そんなこと、認められるわけがないのだ。
 エドワードの言うように、望むように、終わらせてしまって良いと思っているのなら、最初から好きだと言うものか。
 だんだんと腹が立ってきて、昇華できない苛立ちを音に紛れさせて吐き出すことに決めた。
 ロイのいままでのことを思えば、エドワードは理不尽なことを言うな、と言うかもしれないが、そんなこと構うものか。
 ロイは開き直ることに決めた。
 拗れて、平行線のままの今の状況。身勝手はお互い様だ。
 エドワードはロイの言葉を聞き入れないし、ロイはエドワードの言い分を聞き入れる気がない。
 こうなってしまえば、開き直ったもの勝ち、という気がしてくる。
「そうだな、私はキミを手放すのが惜しい。だが、惜しんで、なにが悪い!?」
 叫ぶようにロイが言うと、一瞬呆気に取られたエドワードが、皮肉げに唇を吊り上げた。
 勘違いを深める言い方だと、ロイは十分に承知していた。だが、他に言い様がなかった。思い浮かばなかったのだ。
 ロイの言葉に傷ついたような、それでいて満足したような表情を浮べたエドワードが、半歩、歩幅をずらした。
 タイミングを見計らって、ここから出て行く気なのだと、ロイは悟る。
 出て行かせるものか。
 思いながら、ロイは両手を伸ばした。
 エドワードの手に外されたロイの掌にも、指先にも、エドワードの体温は残っていない。けれど、それがなんだというのだ。
 残っていないなら、また、感じればいいだけだ。この手の中に、囲ってしまえばいい。
 それだけのことだ。
 逃げるというなら、追いかける。追いかけて、掴まえて。信じるまで想いのすべてを語って聞かせればいい。
 必要なら、最悪、閉じ込めてでも。
 ロイの手が伸ばされるのを見て、エドワードの瞳が大きく見張られた。
 息を飲み、怯えたように揺れる表情に構わず、ロイはエドワードを抱きすくめた。
 驚いて暴れることも忘れている体を、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
 目の前にある金色の髪に口づけを何度も落とし、その合間にロイは言った。
「惜しんで当然だろう? 私は鋼のが好きだし、キミもまだ私を好きだろう? 互いに想い合っていると判って。擦れ違うことなく、互いの想いが重なったのに、どうしてキミを諦めなければならない?」
「……大佐の、自分勝手な言い分だ。開き直るなよ」
 眉根を寄せて言われただろう言葉に、ロイは即座に言い返した。
「開き直ってなにが悪いんだ? 開き直って、自分勝手な言い分を押し通さない限り、鋼のは私の言葉を聞き入れないじゃないか」
 二度と信じないと、はっきりとした意志で告げられた言葉を覆させるには、開き直って、強引になるしかない。
 そこまでしても、エドワードはロイの言葉を受け入れない。受け入れていないではないか。
 本気で、どこかに閉じ込めてやろうか。
 そんな物騒なことをロイは考えた。
「オレ、言ったよな? 何度言われても、もう二度と信じないって」
「言われたな。それで、どうして私がキミを諦めなければいけない?」
 重ねて問いかけると、エドワードが言葉に詰まったように唇を閉ざした。
「鋼の」
 呼びかけて、ロイは体を折り曲げた。
 エドワードの顔を覗き込み、額に、鼻の頭に、頬に口づける。
 身を引こうとするのを押さえつけるようにして、ロイは唇にキスをした。
 甘く、激しく。優しく。
 奪うように、労わるように、キスを繰り返す。
 深いキス。
 啄ばむだけのキス。
 悪戯に、耳朶にもキスを仕掛けて、エドワードの腰を抱き寄せた。
 零れて落ちる甘い吐息。
 条件反射かもしれないけれど、ロイのキスに応じるエドワードの唇。
 誘うように絡められる舌。
 口端から零れる唾液も気にならないくらい、深いキスを交わして。
 キスから解放したときには、エドワードはぐったりとロイに身を任せてしまっていた。
 上下に揺れる、いまだ薄い印象の拭えない肩を片手で抱き寄せ、言った。
「鋼の。キミが信じようと信じまいと、私はキミが好きだ。いいか? 私が、キミを好きなんだ。キミの意志など、もう、関係ない。覚悟したまえ。逃す気はないから」
 ロイがそう言うと、腕の中でエドワードの体が震えた。
 少しの沈黙の後、エドワードの体から、不必要な力がすべて抜けた。
 すべてを預けるように、エドワードがロイに凭れかかる。
 ロイは驚きながらも、凭れかかってくる体を受け止めた。
 受け止めたエドワードの体は、ロイが覚えていたより……いや、思っていたよりも、細く感じた。
 もしかしたら、少し痩せたのかもしれない。
「も……いい。知らねぇよ。勝手にしろよ」
 ぽつりとエドワードが言った。
「鋼の?」
「勝手にしろって言った」
「……それは、……私の恋人として傍に居続ける、と、そういうことだと解釈するが?」
「だから、勝手にしろってそう言ってる」
 こつん、と、ロイの胸元に預けられる頭。
 そっと、躊躇うように背中に回された手に、ロイは思わず目を見張ってしまった。
 正直、予想していなかった展開だった。
 エドワードの頑固さを、知っている。知っているからこそ、彼が一度決めたことを翻すなど、ロイの予想した答えの中にはなかった。
 あったのは、期待だけだ。
 それも、かなり確率の低い期待だった。
 ロイが深く安堵の息を吐き出すのと同時に、エドワードもそっと吐息をついたようだった。
 安堵の吐息か、諦めの溜息か、判断に迷うそれに、しかし、ロイは気づかない振りをした。
 いまはどちらでもいい。
 いい加減だと怒られるかもしれないが、ロイはそう思った。
 この手を振り払い、この腕の中から逃げ出されなかっただけでも、幸運だ。
 エドワードの吐息の理由など、瑣末なことだと思える。……尤も、諦めの吐息であるならば、エドワードの信頼と心を取り戻すために、ロイ自身が思っている以上の努力が、必要になるわけだが。
 エドワードの真意は、相変わらず、ロイには判らない。
 ラストチャンスを与えられたのか、言葉どおりに勝手にしろと思っているだけなのか、あるいはどうでもいいと投げやりな気分でいるのか……。
「大佐」
 静かな声に呼びかけられて、ロイはエドワードを見下ろした。
 身長差がありすぎるせいで、あいにく、エドワードのつむじしか見えない。
 エドワードも顔を上げないままなので、ロイにはエドワードの顔が見えなかった。
 どんな表情をしているのか判らないことが、少しだけ、ロイの不安を掻き立てた。
 ロイの胸に顔を埋める形のエドワードの声は、少しだけくぐもってロイの耳に届いた。
「大佐はオレを好きだって言うけど……」
 躊躇うように、一度切られた言葉の続きは、すぐにロイの耳に届いた。
「知らないだろ。オレがどれだけ大佐のことを好きか、……知らないだろう?」
「鋼の」
「大佐があの日のことを忘れてしまったって知っても、他の誰かと過ごしていても、オレを抱くときに酒を飲んで、全部酒のせいにしても。どんなに卑怯でも狡くても、それでも変わらなかったオレの気持ちを、あんたは知らないだろう?」
 非難するでもなく語られる言葉に、ロイは返す言葉を持たなかった。
 エドワードの指摘どおり、ロイは、知らない。
 気づきもしなかった。知ろうともしなかった。
 耳に痛い言葉ばかりだ。
「大佐の声や言葉。ちょっとした仕草や態度に、どれくらいオレが――オレの心臓が、心が、反応しているか。そんなこと、知らないだろ?」
「ああ、そうだな。知らない……な。私はなにも知ろうとしていなかったから、なにも知らない」
 ロイが頷くと、エドワードが笑った気配がした。
 少し呆れた、そんな気配だった。
「だから、鋼の」
「なんだよ?」
「私はなにも知らなかったから……だから、これからいろいろなことを、キミのことを、私に教えて欲しい。キミが私に対して思っていたこと。嫌だったこと、嬉しかったことを」
「ヤだね」
「鋼の?」
 即答で拒否されて、ロイは慌ててエドワードの顔を覗き込んだ。
 ロイが良く知っている表情で。小憎たらしい、と言いたくなる生意気な表情で、エドワードがロイを見上げた。
 生き生きとした瞳には、悪戯っぽい輝きが宿っていた。
 知らず安堵の息をつきながら、ロイはエドワードの瞳と表情に魅入ってしまいそうになった。――が、そんな場合ではないことを思い出す。
 拒否をした理由を問い質さなければ。
 ロイがそう思いながら口を開こうとしたとき、それを遮るタイミングで、エドワードが言葉を続けた。
「大佐には、教えない」
「ずいぶん意地悪なことを言うな」
「別に意地悪のつもりはねぇよ。ただ、……大佐は知らなくいい。知らないままでいいって、そう思っているからさ。問いかけておいて、知らなくていいって言うのもおかしいけど」
「私が、知りたいんだ。そう言っても教えてはくれないつもりかい?」
「教えない。それに全部、過去のことだ。終わったことだろ? だから、知らなくていい。知りたいなら、これからの……たったいまからのことを知って、覚えていてくれよ。もう忘れるのも、酒のせいにするのもナシな?」
 ロイの犯した愚かな間違いを、すべて水に流す言い方に、ロイは「しかし」と反論しようとした。だが、エドワードは静かに首を振って、それを止める。
「大佐、仕切り直しをしようぜ」
「鋼の?」
「オレにも非はあるんだ。大佐が忘れたこと。酒の力に依存していたこと。判っていて、オレはそれを咎めなかった。黙っていた。だから、ずるいのはオレも一緒だからさ」
「いや、しかし……」
 それは、言わなかったのではなく、言えなかったのではないのか。
 そう言おうとしたロイは、しかし、なにも言えないままに口を噤んだ。
 ロイになにも言わさないつもりなのだろう。エドワードが強い口調で繰りかえした。
「だから、さ、仕切り直ししようって! さっきまでのお互いの行動も、言葉も、全部水に流す! なかったことにする」
「鋼の……」
 わざとらしいくらいに明るい声に、ロイは戸惑うことしかできない。
 本当は、そんな簡単に、何もなかったことにしていいはずがない。
 エドワードはロイを甘やかしすぎではないだろうか。
 困った様子を隠すことなく呼べば、エドワードが大人びた表情で笑った。
 すべてを受け入れて、許容した笑顔だった。
「オレ、大佐が好きだ」
 不意打ちの告白に、ロイは軽く目を見張った。
 言葉もなくエドワードを見つめると、エドワードが不満そうに顔を歪めた。
 軽く睨みつけられると同時に、
「大佐、返事は?」
 返事を催促される。
 呆気に取られたのは、一瞬だった。
「なるほど」
 小さく呟いて、納得する。
 本当に、最初から仕切り直すつもりなのだと悟り、ロイは表情を引き締めた。
 不機嫌そうなエドワードの表情が、ロイの顔を見て、少し緊張したものに変わった。
「大佐?」
「私も、鋼のが好きだよ。だから、私の恋人として、これから付き合ってくれるかい?」
「もちろん」
 ロイの言葉に、エドワードが嬉しそうに笑った。
「これからもよろしく」
「こちらこそ、よろしく」
 悪戯っぽく言われた言葉に、同じように返したロイは、そっとエドワードの唇に口づけた。


「好き」って。
 そんな言葉じゃ、本当は足りないくらいの想いが、ある。
 恋なんて、そんな優しくて、甘い感情だけじゃないものが、胸の中にある。
 恋じゃないこの想いに名前をつけるなら、きっとたったひとつしかないんだと思う。
 激しい想いを、だけど、言葉にはしない。それだけは、絶対にしないと決めている。
 大佐が思うより、オレは大佐が好きで。大佐は自分が思っているほど、まだ、
オレを好きじゃないだろうから。
 それに、もしかしたら。
 否。いつか、きっと、オレは大佐の傍を離れることを選んで、アルを元に戻すだろう。
 そうする自分がいることを、オレは知っている。
 だから、言わない。言葉にはしないから、きっと、あなたは知らないまま。
 あなたに抱く、恋よりも激しい感情。
 ずっと、知らないままでいて。





                            END