3 淡い色の霧が晴れたとたん、アルフォンスは瞬きも、呼吸も、その瞬間忘れていた。 意識も、視線も。なにもかもが、ただ一点に釘づけになった。 喘ぐような呼吸を繰り返した後に、やっと、呟きを零すことができた。 「兄さん……」 アルフォンスの最後の記憶の中の兄は、まだ十一歳で、幼い、悪戯っ子そのままの笑顔が似合う、元気な子供だったのに。 アルフォンスの眼前に佇む人は、まるで印象が違う。 儚い空気を纏った青年。 それでも、間違えるはずがない、と、アルフォンスは思う。 そうだ。間違いない。 ずっと探し続けていた、兄だ。 行方不明になっていた、エドワード・エルリック。アルフォンスの大切な、大切な、家族。 愛しくて仕方がない人。唯一の。 「兄さん!」 声の限りに叫んだ。 けれど、アルフォンスの声に気づかないのか、エドワードはアルフォンスのほうを見てくれない。 どうして気づいてくれない、と、苛立ちも露わにもう一度叫ぼうとしたアルフォンスは、自分の目の前に見えない壁があることに気づいた。 エドワードとアルフォンスを隔てるもの。 焦燥に支配されたアルフォンスの目の前で、エドワードはきょろきょろと周囲を見回していたが、やがて、なにかを見つけたらしい。エドワードの瞳が驚愕に見開かれた。 驚いた顔が、ゆっくりと泣き出しそうなものに変わる。 けれど、それも一瞬のことだった。 泣き出しそうだった表情は、すぐに、安堵を含んだ優しい微笑に変わっていった。 エドワードの唇が動く。 その唇が呼んだ名に、アルフォンスは軽く目を見張った。 『アルフォンス』と――――間違いなく動いた唇。 けれど、エドワードはアルフォンスに気づいてくれていない。アルフォンスの名を呼ぶ理由が、わからない。 混乱して、アルフォンスはエドワードの視線の先を追いかけた。 そして、大きく目を見開く。 自分が成長したら、きっとあんな感じになるんじゃないかと思うような人物が、エドワードの前に立っていた。 エドワードの視線の先で、その人物も驚いたような顔をしていた。 アルフォンスは、エドワードと、エドワードの知り合いらしい人物を凝視した。 親しげな様子に、焦燥を覚える。 近づきたいけれど、近づくことはできない。 見えない壁は、アルフォンスの進路を阻んだままだ。 しかし、それはエドワードと、もう一人の人物も同様らしかった。 アルフォンスと同じように、見えない壁に手をついている。 ふと、エドワードの知り合いらしい青年が、視線をずらした。アルフォンスの視線に気づいたのかもしれない。 視線が合う。 そして、エドワードを見つけたとき以上に驚いた顔で、エドワードの知り合いらしき人物は、アルフォンスを見つめた。 アルフォンスは、自分を見つめる青い瞳を見返す。 自然と眼差しはきつくなった。 エドワードの傍にいていいのは、あなたじゃない! 叫び出したい気持ちで、アルフォンスは思う。 エドワードの傍らは、いつだって、アルフォンスのものだ。他の誰にも、その場所を譲るつもりなどない。 嫉妬をこめて、睨み付けるように青年を見つめた。 睨み付けられる理由がわからないせいか、戸惑いと困惑を浮べた青年は、ただじっとアルフォンスを見返している。 そんな知り合いの様子を怪訝に思ったのか、アルフォンスの視界の端で、エドワードがゆっくりと動いた。 怪訝そうな横顔がゆっくりとアルフォンスのほうを向き、息を飲んだのがわかった。 「アル」と、動いた唇。 ふらり、とエドワードが足を踏み出して、アルフォンスに近づこうとする。 けれど、やはり、エドワードも何かに阻まれたように足を止めた。 泣き出す寸前のように歪んだ、エドワードの顔。 綺麗な顔が台無しだよ、と、こっそり思いつつ、けれど、エドワードがそんな顔をしているのは自分に会えたからだと、嬉しくなる。 「兄さん!」 届かないとわかっていて、それでもアルフォンスは叫んだ。 何年ぶりに会うんだろう。あの、綺麗で、愛しい人に。 ずっと、ずっと、気が狂う寸前の精神で求め続けていた。 エドワードの不在に、心も、精神も、気持ちも。なにもかもが枯渇しはじめていた。 アルフォンスを潤す、たったひとりの存在。 (ああ、邪魔だな) 目の前の見えない壁に、アルフォンスは苛立った。 姿が見えて、ちょっと手を伸ばせば届きそうなところに、エドワードがいるのに。 求める人がいるのに、アルフォンスとエドワードを阻むものがある。 厳しく眉根を寄せて、アルフォンスは目を凝らした。 見えない壁。障害物。 「これ、どうにかならないかなぁ」 どこかに隙間はないだろうかと目を凝らすものの、なにも見出せない。 苛々が募った。 焦燥が、アルフォンスを支配する。 いまエドワードを掴まえないと、絶対に後悔する、と、強迫観念にも似た思いが湧き上がってくる。 「ああ、もう!」 がん、と、見えない壁を叩いたアルフォンスは、唇を噛んだ。 どうにかできないだろうか。 そう思ったときだった。 「扉がないなら作るまで!」 唯我独尊的発言が脳裏に閃いた。 誰が言った言葉だろう……、と考えるより先に、アルフォンスは手を打ち合わせていた。 そうだ。作ればいい。 エドワードに通じる道を、自分が作ればいいのだ。 見えない壁があっても意味はない。 そこに錬成できる物質があるのなら、錬成すればいいのだ。 見えないだけで物質は確かに存在しているのだから、錬成は可能だろう。 それに、ずいぶん、現実離れしているから、本当はアルフォンスが見ている夢なのかもしれない。 夢だとしたら、なんでもありだ。 (でも、これが本当に夢なら、とても切ない夢だよ。……兄さん) 姿が見えるだけで、声も届かない。 手も届かない。 たった数メートルの距離。それだけしか離れていないのに、声が聞けない。触れられない。取り戻せない。 こんなの生殺しじゃないか、と、アルフォンスは毒づいた。 ばん、と目の前の壁に手をつくと、壁の向こうでエドワードも同じことを考えていたらしく、手をついていた。 エドワードと視線が合って、笑みを交し合った。 兄弟揃って、考えることは同じだったらしい。 両側で起こる錬成反応。 静電気のような光が走り、うねり、それは渦を巻いた。 大きくなった光は、最大にまで膨れ上がり、膨張しすぎた風船のように割れた。 周囲と同化するように、あるいは飲み込むように、光は溢れて。 眩しすぎるほどの光に周囲は包まれた。 光に飲み込まれながら見たエドワードの苦笑とも、自嘲ともとれる笑みが、ひどく印象的だった。 |