淡い色の霧が晴れたとたん、アルフォンスは瞬きも、呼吸も、その瞬間忘れていた。
 意識も、視線も。なにもかもが、ただ一点に釘づけになった。
 喘ぐような呼吸を繰り返した後に、やっと、呟きを零すことができた。
「兄さん……」
 アルフォンスの最後の記憶の中の兄は、まだ十一歳で、幼い、悪戯っ子そのままの笑顔が似合う、元気な子供だったのに。
 アルフォンスの眼前に佇む人は、まるで印象が違う。
 儚い空気を纏った青年。
 それでも、間違えるはずがない、と、アルフォンスは思う。
 そうだ。間違いない。
 ずっと探し続けていた、兄だ。
 行方不明になっていた、エドワード・エルリック。アルフォンスの大切な、大切な、家族。
 愛しくて仕方がない人。唯一の。
「兄さん!」
 声の限りに叫んだ。
 けれど、アルフォンスの声に気づかないのか、エドワードはアルフォンスのほうを見てくれない。
 どうして気づいてくれない、と、苛立ちも露わにもう一度叫ぼうとしたアルフォンスは、自分の目の前に見えない壁があることに気づいた。
 エドワードとアルフォンスを隔てるもの。
 焦燥に支配されたアルフォンスの目の前で、エドワードはきょろきょろと周囲を見回していたが、やがて、なにかを見つけたらしい。エドワードの瞳が驚愕に見開かれた。
 驚いた顔が、ゆっくりと泣き出しそうなものに変わる。
 けれど、それも一瞬のことだった。
 泣き出しそうだった表情は、すぐに、安堵を含んだ優しい微笑に変わっていった。
 エドワードの唇が動く。
 その唇が呼んだ名に、アルフォンスは軽く目を見張った。
『アルフォンス』と――――間違いなく動いた唇。
 けれど、エドワードはアルフォンスに気づいてくれていない。アルフォンスの名を呼ぶ理由が、わからない。
 混乱して、アルフォンスはエドワードの視線の先を追いかけた。
 そして、大きく目を見開く。
 自分が成長したら、きっとあんな感じになるんじゃないかと思うような人物が、エドワードの前に立っていた。
 エドワードの視線の先で、その人物も驚いたような顔をしていた。
 アルフォンスは、エドワードと、エドワードの知り合いらしい人物を凝視した。
 親しげな様子に、焦燥を覚える。
 近づきたいけれど、近づくことはできない。
 見えない壁は、アルフォンスの進路を阻んだままだ。
 しかし、それはエドワードと、もう一人の人物も同様らしかった。
 アルフォンスと同じように、見えない壁に手をついている。
 ふと、エドワードの知り合いらしい青年が、視線をずらした。アルフォンスの視線に気づいたのかもしれない。
 視線が合う。
 そして、エドワードを見つけたとき以上に驚いた顔で、エドワードの知り合いらしき人物は、アルフォンスを見つめた。
 アルフォンスは、自分を見つめる青い瞳を見返す。
 自然と眼差しはきつくなった。
 エドワードの傍にいていいのは、あなたじゃない!
 叫び出したい気持ちで、アルフォンスは思う。
 エドワードの傍らは、いつだって、アルフォンスのものだ。他の誰にも、その場所を譲るつもりなどない。
 嫉妬をこめて、睨み付けるように青年を見つめた。
 睨み付けられる理由がわからないせいか、戸惑いと困惑を浮べた青年は、ただじっとアルフォンスを見返している。
 そんな知り合いの様子を怪訝に思ったのか、アルフォンスの視界の端で、エドワードがゆっくりと動いた。
 怪訝そうな横顔がゆっくりとアルフォンスのほうを向き、息を飲んだのがわかった。
「アル」と、動いた唇。
 ふらり、とエドワードが足を踏み出して、アルフォンスに近づこうとする。
 けれど、やはり、エドワードも何かに阻まれたように足を止めた。
 泣き出す寸前のように歪んだ、エドワードの顔。
 綺麗な顔が台無しだよ、と、こっそり思いつつ、けれど、エドワードがそんな顔をしているのは自分に会えたからだと、嬉しくなる。
「兄さん!」
 届かないとわかっていて、それでもアルフォンスは叫んだ。
 何年ぶりに会うんだろう。あの、綺麗で、愛しい人に。
 ずっと、ずっと、気が狂う寸前の精神で求め続けていた。
 エドワードの不在に、心も、精神も、気持ちも。なにもかもが枯渇しはじめていた。
 アルフォンスを潤す、たったひとりの存在。
(ああ、邪魔だな)
 目の前の見えない壁に、アルフォンスは苛立った。
 姿が見えて、ちょっと手を伸ばせば届きそうなところに、エドワードがいるのに。
 求める人がいるのに、アルフォンスとエドワードを阻むものがある。
 厳しく眉根を寄せて、アルフォンスは目を凝らした。
 見えない壁。障害物。
「これ、どうにかならないかなぁ」
 どこかに隙間はないだろうかと目を凝らすものの、なにも見出せない。
 苛々が募った。
 焦燥が、アルフォンスを支配する。
 いまエドワードを掴まえないと、絶対に後悔する、と、強迫観念にも似た思いが湧き上がってくる。
「ああ、もう!」
 がん、と、見えない壁を叩いたアルフォンスは、唇を噛んだ。
 どうにかできないだろうか。
 そう思ったときだった。

「扉がないなら作るまで!」

 唯我独尊的発言が脳裏に閃いた。
 誰が言った言葉だろう……、と考えるより先に、アルフォンスは手を打ち合わせていた。
 そうだ。作ればいい。
 エドワードに通じる道を、自分が作ればいいのだ。
 見えない壁があっても意味はない。
 そこに錬成できる物質があるのなら、錬成すればいいのだ。
 見えないだけで物質は確かに存在しているのだから、錬成は可能だろう。
 それに、ずいぶん、現実離れしているから、本当はアルフォンスが見ている夢なのかもしれない。
 夢だとしたら、なんでもありだ。
(でも、これが本当に夢なら、とても切ない夢だよ。……兄さん)
 姿が見えるだけで、声も届かない。
 手も届かない。
 たった数メートルの距離。それだけしか離れていないのに、声が聞けない。触れられない。取り戻せない。
 こんなの生殺しじゃないか、と、アルフォンスは毒づいた。
 ばん、と目の前の壁に手をつくと、壁の向こうでエドワードも同じことを考えていたらしく、手をついていた。
 エドワードと視線が合って、笑みを交し合った。
 兄弟揃って、考えることは同じだったらしい。
 両側で起こる錬成反応。
 静電気のような光が走り、うねり、それは渦を巻いた。
 大きくなった光は、最大にまで膨れ上がり、膨張しすぎた風船のように割れた。
 周囲と同化するように、あるいは飲み込むように、光は溢れて。
 眩しすぎるほどの光に周囲は包まれた。
 光に飲み込まれながら見たエドワードの苦笑とも、自嘲ともとれる笑みが、ひどく印象的だった。