呼吸すら忘れて、エドワードはアルフォンスを見つめた。
 春の空のような瞳は、嘘を言っているようには思えないほど真剣だった。
 ごくりと喉を鳴らして、エドワードは震えそうな唇を動かす。
「アルに……弟に会ったって……?」
 俄かには信じられないはずの言葉を、しかし、エドワードは笑い飛ばせないと思った。
 笑い飛ばせるはずがないことを、エドワードは良く知っていた。
 アルフォンスがこくりと頷き、真剣な眼差しで見返してくる。
「ええ、会いましたよ。僕はエドワードさんの弟の顔を知らないけれど、すぐに判りました。鮮やかな空気が、エドワードさんにとてもよく似ていた」
 静かな声音は、しかし、緊張を孕んでいると思った。
 硬い声。
 警戒と不安を内包した音。
 なのに、どうしてだろう。
 アルフォンスの声に自嘲が混じっているように、思える。仕方がないと諦めている響きが、混じっているように思われる。
 複雑な感情を、無理に押し殺したように……。
「アルフォンス?」
 怪訝そうに顔を覗き込もうとすると、厭うように視線が外された。
 エドワードはあからさまな拒絶に虚をつかれたものの、すぐにムッとした顔つきでアルフォンスを軽く睨みつけた。
「アルフォンス! 話があるって言ったのは、お前だろう!?」
 態度が悪いんじゃないのか、と続けようとした言葉は、静か過ぎるアルフォンスの声に遮られた。
「エドワードさんも会いましたよね。弟さんに。だって、あなたもあの場所に居た」
 どくん、と、エドワードの心臓が嫌な音を立てた。
 異常なほど喉が渇いて、声が喉に張り付いてしまって、出ないような気がした。
 それでも無理に声帯を震わせると、喉の奥がひりひりと痛んだ。
 おまけに、出た声ときたら、自分の声じゃないみたいだった。
「……お前の、夢の話だろう?」
 掠れた声でそう言うと、エドワードに視線を向けたアルフォンスが、なんとも言えない表情で微笑んだ。
「そうです。僕の夢の話です」 
 アルフォンスが答えた。
「――でも、エドワードさんは、弟さんのいる方向に向かって歩いて行って、途中で見えない壁のようなものに行く手を遮られ、立ち止まった。そして、あなたと弟さんは、同時に両手を打ち鳴らして、その手を壁についた」
 説明しながら、ぱん、と、アルフォンスが両手を合わせた。
 その甲高い音に、動作に、エドワードの肩が自然と跳ねる。
 耳慣れない音。馴染んだ動作。
 夢の中、確かにその動作を、エドワードは見た。
 アルフォンスは続ける。
 淡々と語るアルフォンスの表情は、人形のように冷たく見えた。
「あなたと弟さんが手をつくのと同時に、そこから光が溢れて、肥大した光に僕の視界は覆われて、真っ白になって……そこで夢は途切れてしまったけれど」
 ねぇ、エドワードさん、と呼びかけられて、エドワードはアルフォンスを見つめた。
 夢の話。アルフォンスの。
 でも、その話は、エドワードの夢の話でもある。
 少し視点は違うけれど――当たり前だ。アルフォンスの視点とエドワードの視点が同じはずがない――、エドワードも見た夢だ。
 エドワードの体は、小刻みに震え続けている。
 アルフォンスの話を聞いているあいだ中、ずっと、エドワードの震えは止まらなかった。
 偶然、同じ夢を見た。それだけの話だ。
 アルフォンスの瞳が、震えるエドワードの手をちらりと見たけれど、それだけだった。
 安心を与えてくれるはずの体温は、エドワードの手には触れてくれない。
 さっきは触れてくれたのに。
 意地悪をしないでくれよ。安心させてくれよ。ただの偶然だって。
 重い空気を払拭する軽い口調で言いたくて。けれど、言えない。
 声がでない。体が動かない。
 自分で自分の体を、思うようにできない。
 もどかしさと焦燥を感じつつ、エドワードはアルフォンスを見つめ続けた。
 エドワードの様子に気づいているのか、いないのか。アルフォンスは淡々と語る。
「弟さんはあなたと向かい合っていた僕に気づいて、僕を睨みつけていた。僕たちは夢の中で、確かに互いを認識していた。あの夢の中で、確かに、会っていた。エドワードさんは、こんなリアルな夢を、本当にただの夢だと思いますか?」
 問いかける声は静かすぎて、エドワードは無意識に思った。
 まるで、アルフォンスに責められているようだ、と。
 アルフォンスがエドワードを責める理由がないように、エドワードにも責められる理由がない。
 それなのにそう思ってしまうのは、きっと、エドワードの心が狡いからなのだろう。
「エドワードさん?」
 黙ったまま口を開かないエドワードを促すように、アルフォンスが名を呼んだ。
 名前を呼ばれて、エドワードは唇を動かした。
 喉の渇きは一層ひどくなっていて、まともな声がでるとは到底思えなかったけれど、答えない限りは解放されないだろうと思った。
 エドワードは口を開いた。
 思っていたよりもマシな声がでて、ほっとする。
「アルフォンス」
 無言のまま見返す瞳に、いつもの優しい感情は浮かんでいない。
 怖いなと思った。
 当たり前のように向けられていた優しさを、当たり前のように受け取っていたんだと知る。
 他人と一線を引いて接していたつもりだったけれど、やはりエドワードの心は、無意識に、他人の――というより、アルフォンスの優しさに、自分でも思っていた以上に依存していたらしい。
 自分が生まれた世界で、常に弟の優しさに甘えていたのと同じ感覚で。
(ああ、そうだった)
 苦く心の中で呟いた。
 独りになるのを嫌って恐れていたのは、エドワードだ。
 思い出す、犯した禁忌。罪。
 独りが嫌で、怖くて、いつだって少しずつなにかを間違ってしまうのは、エドワードだ。
 弟も、アルフォンスも周囲もそれに付き合わされて、振り回される……。優しいから。
 これ以上、その優しさに甘えるだけの嘘はつけない、と思った。
「その夢……、オレも見た。同じ内容の夢だけど、ただの偶然だと思う。夢に過ぎないって、オレはそう思う」
「何故です?」
「何故もなにも……どこにもいないんだぜ、オレの弟は」
 アルフォンス・エルリックはエドワードの傍にいない。痛みばかりをもたらす現実。それがなによりの証拠だ。
 それに。
「それに、オレが、ここにいる」
 エドワードの肉体は、門の内側にあるままだ。
 帰れていない。
 エドワードは、まだ、ここにいる。錬金術の使えない世界に。
 言外に示した意味を、アルフォンスは汲み取ったようだった。
 少し呆れたように言う。
「まったく同じ夢を、三人同時に見たって言いたいんですか?」
「そういうこともあるんじゃないのか?」
 弟のアルフォンスが同じ夢を見たかどうかは、判らないけれど。
 アルフォンスが、大きな溜息をついた。
「ロケットを造って、宇宙に行くことを目指していた人とは思えない口ぶりだなぁ」
「悪かったな」
「偶然にしろ、同じ夢を見たんですよ? あれが正夢で、弟さんに会えるっていう可能性があるとは思わないんですか?」
「弟に? オレはお前ほどロマンチストじゃない」
 エドワードは苦笑した。
 門はない。
 こちらでは錬金術が使えないから、門が開くことはない。だからエドワードには帰る術はない。
 それを説明しても、アルフォンスにはわからないだろう。
 この世界の誰に説明しても、わからない。
 この世界で錬金術は衰退した。発展しなかった。
 だから、機械工学に望みを託した。錬金術にのめりこんだとき同様、それに夢中になった。
 けれど―――。
 夢や希望は、宇宙に出ても帰る道がないと気づいたときに、粉々に砕かれた。
「エドワードさん」
 いつもの優しさを取り戻した声が、そっと、エドワードを呼んだ。
 温かな手が、エドワードの左手に触れる。
「そんな泣き出しそうな顔をしないで下さい」
「泣いてねぇよ」
「泣いているとは言ってませんよ。泣きそうな顔を……ああ、だからそうじゃなくて。エドワードさん、きっと、必ず、弟さんに会えますよ。夢の中じゃなくて、現実に会えますから」
 必ず、と、もう一度念を押すようにアルフォンスが言った。
 エドワードは顔を顰める。
「その根拠を聞いてもいいか、アルフォンス?」
「根拠、ですか?」
「オレが弟に会えるって断言する理由は? オレとお前が同じ、リアルな夢を見たからか?」
「それもありますけど」
「けど?」
「僕の勘、かな?」
「勘…………」
 勘、ねぇ。
 口の中で呟いて、エドワードは目を細めた。
 じろりとアルフォンスを睨みつけ、掴まれた手を取り戻す。
「お前の勘って、そんなに当たったことあったか?」
「ありません」
 即答。
 エドワードは左手でアルフォンスの頭を軽く叩くと、「痛いなぁ」と、言葉のわりにたいして痛がっている様子でもないアルフォンスに背を向けた。
 振り返らないまま、エドワードは言った。
「変な気を使ってないで、さっさと朝飯を食えよ」
「別に気を使ったわけじゃないんですけど」
「だったら、非現実的なことを言っていないで、さっさと飯を食えって。出かけるんだろう、今日も」
「いえ、今日は……」
「珍しいな」
 エドワードは驚いて、アルフォンスを振り返った。
 ロケットに夢中なままの同居人は、ここ最近、連日仲間たちと小型ロケットの開発に夢中だった。
 まさに寝食を忘れて、ロケット開発に打ち込んでいたから、てっきり今日も出かけるのだと思っていたのに。
「さすがに何日も泊りが続いたり、帰りが遅くなったりで生活が不規則になったから、今日は休みにしようかってみんなで」
「ふうん。まあ、たまにはロケットのことを忘れて、ゆっくりするのもいいかもな。あぁ、でも、雨が降ったら困るな……」
 わざとらしく眉根を寄せたエドワードに、アルフォンスが苦笑を浮かべた。
「ひどい言い草だなぁ。雨なんて降りませんよ。外はいい天気なんでしょう?」
 窓を覆うカーテン越しに、太陽の光が透けている。
 それを見て言ったアルフォンスに、エドワードは頷いた。
「外は快晴。だから心配してるんだろ。突然天気が崩れたら、困るじゃないか」
「本当にひどいな」
 悲しそうな顔で言ったアルフォンスに、しかし、エドワードは容赦なく言った。
「わざとらしく傷ついた振りをしていないで、さっさと飯を食いに来い。片付かないだろ」
「ご心配なく。自分で片付けますよ」
 言いながら、アルフォンスが立ち上がった。
 エドワードより頭一つ分高いアルフォンスを見上げて、エドワードは目を細めた。
 アルフォンス――弟に似ていると思ったけれど。思ったこともあったけれど、エドワードが思っているほど、弟のアルフォンスとアルフォンスは似ていないように思える。
 初めて、本当はエドワードが思っているよりも似ていないんじゃないかと思い、実感した。
(……それが当たり前だよな。もとが別人なんだから)
 どんなにそっくりな人間がこの世界にたくさんいたって、同じ人間じゃない。
 それを、この二年間で身を持って体験してきた。
 どうやら自分は、それらをちゃんと理解していなかったようだけれど。
 エドワードの脳裏に、夢の中で会った弟の姿が甦る。
 思っていたよりも幼い姿だった。エドワードと一歳違いとは思えない顔立ちだったように思う。
 だからよけいに、似ていないと思うのかもしれない。――いや、それだけでなく。鎧姿のアルフォンスの印象が消しきれなくて。
 禁忌を犯した日からの四年間は、無我夢中で駆け抜けた日々だったけれど、かけがえのない日々だった。
 アルフォンスの体を元に戻すこと。それだけを考えて旅を続けていたけれど、あの鎧姿であるときも、彼は――弟は、間違いなくアルフォンス・エルリックだった。
「……アル」
 どうしようもなく、アルフォンスに会いたくなった。
 頭では無理だと理解していても、気持ちが暴走する。
 夢でアルフォンスの姿を見たりしたからだ。
 かつてのエドワードの姿に似ていたのは、きっと、いまのアルフォンスの姿を知らないから、無意識に旅を続けていた頃の自分の姿を重ね合わせたのだろう。
 幼い印象は、エドワードの中で、肉体を持っていたアルフォンスの姿が十歳だったからだ。
 人間の脳は、本当に、勝手なイメージを作り上げるんだと苦笑してしまう。
 アルフォンスを見上げていた視線を下げて、エドワードは軽く唇を噛んだ。
(アル。アル。アル)
 あの愛しい弟は肉体を取り戻して、当たり前の、ふつうの幸せな生活を送っているだろうか。
 あの、優しい故郷で。
 優しい、もうひとつの家族の下で。
 どうして、オレは、お前の傍にいないんだろう。
 望んだ笑顔が、傍らにない。
 一番の望みだった、それ。
 改めてそれを思い出せば、心が押しつぶされてしまうような感覚に襲われた。
 苦しくて、息ができない。
 辛くて、息ができない。
(お前がいないだけで、こんなにもオレは弱いよ)
「アルフォンス……」
 思わず、愛称ではなく、名前が口をついた。
 エドワードの頭上で、かすかな溜息。
 はっと、顔を上げると、言いあらわせないほど複雑な表情をしたアルフォンスと、目が合った。
 エドワードと目が合った瞬間、アルフォンスの表情は変化した。
 慈愛に満ちた表情とでもいうのだろうか。
 なにもかもを許容するように、深く、優しいもの。
 泣きたくなる。
 アルフォンスの向けてくれる好意を、エドワードは知っている。
 それに心が揺らいでしまう自分がいることを、知っている。
 弟とは違うアルフォンスの優しさに、無意識に――あるいは確信して――甘えてしまっていることにも、気づいてしまった。
 ダメだと。それではいけないんだと解っていても、この異郷の地で。
 知り合いに似た人たちがたくさんいるこの場所で、気が狂いそうな後悔や懺悔や、たくさんの感情が生まれるばかりのこの場所で、『独り』だと思い知るのは辛くて、痛い。
 伸ばされる手に、縋りつくように手を伸ばしてしまう弱さを、弟は責めるだろうか。
 かつての自分に許さなかった行為を、簡単に許してしまっている、この弱さを―――
「エドワードさん」
 アルフォンスの呼びかけは、エドワードを気遣うように柔らかかった。

『兄さん』

 フラッシュバックする、声。
 同じ声じゃないのに。
 徹夜を重ねて、無理をしてばかりのエドワードを窘め、心配する弟の、鎧に篭った声を思い出した。
 そうとう弱っているんだと、心の中で自嘲した。
「気分転換に、一緒に出かけませんか?」
「え、でも、大丈夫なのか?」
 体が丈夫だと言えないアルフォンスを気遣うように訊ねたエドワードに、アルフォンスは笑った。
「大丈夫ですよ。最近は気候も安定しているから、そんなに体に負担はかからないんです」
「でも、最近はずっと、無理をしてたじゃないか。ゆっくり体を休めたほうが……」
「それは遠まわしに、僕と出かけたくないって断っているんですか?」
「そうじゃない!」
 アルフォンスの切り返しに、エドワードは慌てて首を振った。
「じゃあ、久しぶりにゆっくり街を散歩しましょう」
「……本当に、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ」
 アルフォンスが頷いた。
「それにこのまま家にいたって、エドワードさんも夢のことを考え続けてしまうだけでしょう? 僕だって、きっと、いろいろと考えてしまう。夢のことや、それ以外のことをね。そのほうがずっと体に良くないと思うんですよ。ホラ、病は気からって言うじゃないですか」
「わかったよ」
 仕方なく、エドワードは頷いた。
 こういう強引なところは、弟の強引さに似ている気がする。
 それとも、案外、エドワードがそうさせているのかもしれない。
 思い返せばエドワードの周囲には、お節介好きの、強引な人間が多かったように思う。
 そう言ったとしたら、きっと、四方八方から「自分のことを棚に上げるな!」と反論されてしまいそうだが……。
 この世界に限らず、あの、生まれ故郷のある世界でも。
 エドワードは懐かしい人たちの顔を思い浮かべて、そっと、笑った。
「アルフォンスの準備が済んだら、街に行こうぜ。アルフォンスと出かけるのは、久しぶりだよな」
 さっさと準備しろよ。そう言いおいて、エドワードはアルフォンスの部屋を後にした。