ぼんやりと、周囲を見渡した。
 よく知った場所なのに、どうしても、違和感が拭い去れない。
 のどかな、田舎の風景。
 リゼンブールの……、緑に囲まれた故郷の景色。
「ここ、リゼンブール……だよね?」
 声に出して言ってしまったのは、どうしても、空気が違うと思ってしまうからだ。
 ここは、どこだろう。
 そんな疑問が湧き出て仕方がない。
 まるで見知らぬ土地にいるようだ、と、意識のどこかが告げる。
 アルフォンスは、ぐるりと周囲を見回した。
 なにもない、けれど、空気と景色の綺麗な故郷。
 過去にあった内戦の傷跡も、すっかり癒えたように、この東部辺境の地の空気は呑気だ。
 この景色を目に映しただけで、いつでも自然と肩の力が抜けるのだけれど、今日はどうしても、しっくりこない気分が纏わりつく。
 空気が肌に馴染まない。
 そわそわと落ち着かない気持ちを抱えながら、アルフォンスは家への道を辿る。
 久しぶりの帰郷だった。
 師匠にもう一度錬金術を習いはじめた傍ら、兄を探す旅にも出るようになってから、多くても半月に一度。少なくても一月に一度は戻るようにしている。
 今回は、遠い地まで足を伸ばしたから、ほぼ一月ぶりの帰郷だ。
 あの気の強い、けれど泣き虫で心配性の幼馴染みは、少し怒った口ぶりでアルフォンスを迎えてくれることだろう。
 そう考えるだけで、アルフォンスの口元は緩む。
 けれど、結果報告をした後の彼女の表情を想像したとたん、アルフォンスの気分は沈んだ。
 もう特別な感情を、彼女に抱いてはいないけれど、彼女が悲しんだり泣いたりしている顔を見るのは、やっぱり嫌だった。
「ウィンリィ、がっかりするだろうなぁ」
 エドワードの行方は、依然、不明のままだ。
 何度セントラルに足を運んでも、エドワードが姿を消したと思われる場所は、議会と軍の決定で封鎖されてしまい、足を踏み入れることもできない。許可も取れない。
 なにも覚えていない自分が、情けなかった。
 どうして、忘れたりできたのか、自分で自分を罵りたい。
 一番、大事な人なのに。
「等価交換だろう」と、師匠をはじめ、エドワードとアルフォンスに関わった人たちは、口を揃えて言った。
 アルフォンスも、たぶん、そうだろうなと思う。
 思うけれど、納得ができない。
 禁忌を犯したらしい日からの四年間。
 エドワードと旅をした、時間。出会った人たちとの記憶。等価で失ったもの。
 それは解る。したくはないけれど、納得できる――けれど、では、なぜ、エドワードまで失わなくてはならなかったのか。それが、アルフォンスには解らない。
 四年間という、長いのか短いのか解らない時間を、その間の記憶を等価で差し出して体を取り戻せたのなら、エドワードを失って得たものはなんだろう?
 大切な人との、四年間。その記憶。エドワード自身。
 等価以上のものを、アルフォンスは差し出したことにならないだろうか。
 そして得たのが、元の体。それだけ。
「兄さん……」
 どこにいるんだよ。馬鹿兄。
 毒づいて、アルフォンスは視線を落とした。
 汚れた靴先が、目に映る。
 今朝、見た夢を、アルフォンスは思い出した。
 夢と言い切るにはリアルすぎた気がしたけれど、目を覚まして、見回した視線の先のどこにも、もちろんエドワードの姿はなかった。
 夢の中で思ったとおり、切ない気持ちだけが残っていて、アルフォンスは少しだけ泣いた。
 生きていると信じている。必ず会えると信じている。
 大切な人を、この手の中に取り戻すのだと決めている。
 でも、エドワードの居場所も、手がかりも、取り戻す手段も、なにもない。
「どこにいるの、兄さん」
 思うだけで胸が痛くなる。切なくなる。
 もう何回くり返したのかも判らない問いかけを、また、くり返す。
 少しずつ蓄積されるのは、絶望だ。
 もう、エドワードには会えないのではないかという、考えたくもない絶望。
 誰も口に出して言わないけれど。言わないようにしているけれど、もしも、エドワードが自分の意思で姿を消したのなら、どんなに探しても会えないような気がする。
 大雑把で、猪突猛進型で、考えなしの行動が多いエドワードだったけれど、母やアルフォンス、ウィンリィたち、身近な、一番大事な周囲の人間を傷つけないための嘘や行動。それだけは本当に、呆れるくらい徹底していた。
 ずっと、騙され続けた。嘘を吐き通された。そんなことが何度かあった。
 大事な人のためなら、自分を傷つけても。犠牲にすることになっても、その人たちを守る。
 エドワードは、そういう一面を持っていた。
 不器用な優しさを持った人。
 その優しさに、ずっと守られてきた。
「でも、兄さん」
 アルフォンスは、遠い場所にいるだろうエドワードに、訴えるように言葉を紡いだ。
 これも、何度も何度もくり返した言葉だ。
 もしもエドワードが、自分の意思で姿を消したというのなら。
「兄さんがいなくならなきゃいけない理由なんて、どこにもないじゃないか……」
 なにが怖かったの? 断罪されること? それともボクに会うことが?
 会えたら、聞いてみたいとアルフォンスは思う。
 アルフォンスの記憶にはまったく残っていない、鎧に魂を定着されていた時間。
 ウィンリィたちにその話を聞いたとき、アルフォンスは正直驚いた。
 確かに驚いたけれど、感謝の念しか思い浮かばなかった。
 嬉しかった。
 右手を犠牲にしてまで、アルフォンスをこの世界に繋ぎとめてくれたこと。望んでくれたこと。
 当たり前だけれど、鎧の姿にされたことに対する恨みや憎しみは、生まれなかった。
 ただ、純粋に、嬉しかった。
 エドワードは、アルフォンスを必要としてくれたのだ。
 もしも、エドワードが姿を消した理由がそれなら。
 等価交換など関係なく、自ら姿を消したというのなら、エドワードはずいぶんアルフォンスを見くびっていることになる。
 信じてくれていなかったことになる。
 なにも。確かに、なにひとつ、アルフォンスは覚えていないけれど、断言できる。
 鎧に魂を定着されたことで、エドワードを恨んだことも、憎んだこともない。そして自分は、それを言葉にしてエドワードに伝え続けたはずだ。
 それこそ、何百回、何千回と。
「帰ってきてよ、兄さん」
 アルフォンスの隣に。
 この、腕の中に。
 そうしたら、もう絶対。二度とはなさない。はなれない。
「……兄さん」
 呼んでも答える声はない。
 それは判っている。判っていても、呼んでしまう。求めてしまう。
 会いたいのに、会えない。
 抱きしめたいのに、抱きしめられない。
 想いだけが大きくなって、とっくに限界を超えている。
 禁忌だと。そもそも兄に抱く感情じゃない。おかしいと判っていても、制御できない感情――想いは行き場をなくしてしまって、どうにかなってしまいそうだった。
 惰性で動かしていた足を、アルフォンスは止めた。
 そろそろ、ウィンリィの家へと続く道と、かつて自分たちが住んでいた家へと続く分かれ道だ。
 俯いていた顔を上げて、アルフォンスは分かれ道を睨むように見つめた。
 深い呼吸をくり返す。
 迷うように足先に視線を落とし、唇を軽く噛み締める。
 エドワードがいなくなってから。
 ここに帰ってくるたびにくり返してきた、儀式めいたこと。
 アルフォンスは軽く溜息をついた。
 本当は、どんなに迷っても仕方がないことだと判っている。
 かつて暮らしていた家は、エドワードとふたりで決めて、焼いてしまったらしいから、なにも残っていない。
 あるのは、燃えた家の残骸だけだ。
 そして、そこに、エドワードがいるわけがない。
 自分から姿を消したなら、誰に見咎められるかわからない故郷に足を踏み入れるようなことはしないだろう。
 リゼンブールのほとんどの住人が顔見知りで、禁忌を犯した(らしい)その後のエドワードとアルフォンスのことも知っていて、いま現在、エドワードが行方不明であることも、みんなが知っている。
 誰に姿を見られても、必ず、アルフォンスの耳にその情報が入ることを、エドワードは良く判っているだろう。
 だから、きっと、焼け跡には足を向けないはずだ。
 そう理解しているのに、つい、分かれ道で足を止めてしまうのは、僅かながらも期待をしているからだ。
 もしかしたら、この先に、エドワードがいるんじゃないか。
 焼いた家の前に佇んで、アルフォンスを待っていてくれているんじゃないか。
 そう思うのは、エドワードが、自分の意思で姿を消したのだと信じたくないからだ。
 そうは思いたくないからだ。
 望んで姿を消したわけではないのなら、エドワードが最初に足を向けるのは、焼いた家だとアルフォンスには判る。
 判るから、逡巡を繰り返してしまうのだ。
 望みや期待や祈りの後に、必ずと言っていいくらいの確率で訪れることの多い絶望を、知りたくなくて。
 もう、知りたくなくて。
 アルフォンスはのろのろと顔を上げた。
 懐かしい家へと続く、坂道。
 この道を、何回、エドワードとふたりで駆け抜けただろう。
 もう、二度と、エドワードと歩くことはないのだろうか。
 今日見た夢が、もし――考えたくないけれど、どこか遠くにいるエドワードからの「別れ」のメッセージだったとしたら。
 さよなら、だったら。
 それを受け取っていたのだとしたら。
 ああ、だけど。
「……そんな勝手なこと、許さないからね、兄さん」
 呟いて、アルフォンスは拳を握った。
 そんなつもりでいたとしたら、絶対に見つけ出して、ぶん殴ってやる!
 不穏なことを考えつつ、アルフォンスは足を踏み出した。
 愛しく、優しく、温かな思い出を想起させる場所へと。