「おかしいな?」
 思わず口に出して呟いたアルフォンスは、あれ? と首を傾げた。
 足を止めて、周囲を見回し、もう一度首を傾げる。
 いま歩いている道は、前からあった道だろうか?
 そんな疑問が、ふと湧き上がったのだ。
 もちろん、いきなり道が出来上がるわけじゃないから、以前からあった道に決まっている。
 そう思うのだけれど、この道がどこに続いている道だったのか、アルフォンスはまったく思い出せない。
 郊外に続いているのだろうと推測はできるけれど、この先にある場所が判らない。
 公園……だった、だろうか?
 そう考えたけれど、すぐにそれを否定した。
 この方角に公園はなかった。それは確かだ。なのに、自分たちが向かっている方向に何があったのか、アルフォンスは思い出すことができない。
 うまく思考が働かない。
 そもそも、ここは本当に自分の知っている街だろうか? ミュンヘン、なのだろうか?
 ここは、どこだ?
 そんな疑問が湧きあがる。
 そして、打ち消せない。
 見慣れた街並み。
 建物の位置、整備された道、街路樹。
 見知った街だ。
 ミュンヘン以外の、いったい、どこだと言うのだろう。
 そう思うのに、消えない違和感。
 もう一度周囲を見回し、アルフォンスはずいぶん先に行ってしまっているエドワードを、足早に追いかけた。
 視界に入る建物を、それとなく確認する。
 なにも、どこも変わっていないような気がする。
 でもこの街の空気が、馴染みのないものに思えて仕方がない。
 ちょうど建物の群れが途切れたところで、エドワードに追いついた。
 目の前に広がる、緑に溢れた世界。
 眩暈が、した。
 郊外は、確かに、たくさんの緑の景色が残っている。
 一歩、街を出れば、広がるのは空気の綺麗な自然。
 だけど、目の前に広がる自然。この景色を、アルフォンスは知らないと思った。
 こんなに鮮やかな緑の景色を、アルフォンスは知らない。
 似通っているけれど、違和感を覚えてしまうくらいには、違うんだと思う光景。
 けれど、そう感じてしまう自分が間違っているような気もする。
 エドワードと肩を並べ、呼びかける。
「エドワードさん」
「なんだよ?」
「変なことを聞きますけど、僕たちは、いま、どこに向かって歩いているんですか?」
 そう問いかけると、エドワードが呆れた顔をした。
「どこって、適当に歩いてるんだから、目的地なんてないだろ」
 不思議そうに言われて、アルフォンスは、ああ、聞きかたが悪かったんだなと思いながら、エドワードは違和感を覚えていないのだと知る。
 確かにそうだ。エドワードの言うとおり、今日は目的地を決めないで散歩をすることにした。
 行き当たりばったりで歩いてみると、意外に、それまで気づかなかったものに気づいたりできて、面白いんだ。
 エドワードが悪戯っぽい笑みを浮かべて言って、アルフォンスもその提案に乗った。
 だから適当にぶらぶらと、普段は入り込まない路地を歩いたり、滅多に歩かない道を歩いて、今まで気づかなかった細い路地だとか、抜け道を通ったりもしたけれど。
 さすがに、よく使う店の周囲の道は覚えている。
 抜け道も、裏道も、大通りも。
 こんな道は、なかった。
 アルフォンスは思い出した。
 そうだ。こんな道はなかった。
 緑の景色が広がる場所に、この道は繋がっていなかった。
 大通りや他の道を抜ければ、たしかに郊外に出られたけれど。
「ねぇ、エドワードさん。たしかあの店はこの通りの、一番端にあったお店じゃなかったですか? 大通りにある大きな店が、ちょうどこの通りを塞ぐような建ちかたで。だからこの通りは突き当たりになっていたはずだったと思うんですけど」
 アルフォンスがそう言うと、言われて初めて気づいたように、エドワードが目を見開いた。
 そして、アルフォンスが指し示す方向を、勢いよく振り返る。
 数メートル後方に見えている看板は、馴染みの店の看板。
「アルフォンス……」
「僕に聞かないで下さい。僕にもさっぱりわからない」
「この道、確かに、昨日までは行き止まりだったんだぜ……?」
 呆然と言いながら、エドワードがアルフォンスを振り返った。
 困惑しきったエドワードの視線を受けたアルフォンスも、途方に暮れる。
 ふたりで顔を見合わせ、通りを、店の看板を、何度も確認した。
 しかし、何度、確認しても状況が変わるはずがなくて。
 揃って溜息を吐き出した。
 ここは、どこだろう。
 ミュンヘンであって、ミュンヘンでないところ?
 そんな馬鹿なことを、アルフォンスは思わず考えてしまった。
 すべての思考を放棄して、アルフォンスはエドワードに聞いた。
「どうしましょうか?」
「どうって……」
 アルフォンスの問いかけに、一瞬、非難するように眉を顰めたけれど、エドワードは考え込むように視線を巡らせた。
 それまで足を向けていた道を、じっと見つめている。
 少しだけ強張った表情。横顔。
 その姿を黙って見つめながら、アルフォンスは、きっと、彼はこのまま先に進むだろうと考えた。
 その考えを読んだようなタイミングで、エドワードが振り返る。
「このまま先に進んでみよう」
 やっぱり、と思いながらアルフォンスは頷いた。
 再び歩きだしたアルフォンスは、ふと背後を振り返った。
 街に変化はない。
 この、なかったはずの道ができた以外の変化は、見つけられなかった。
 もしかしたら、もっとよく観察して、注意深く探せば見つけられるのかもしれないが、アルフォンスはそれを実行しようとは思わなかった。
 そんなことをしても現実は変わらず、打ちのめされるばかりだろう。そう思ったからだ。
 ここは、本当に、ミュンヘンで。だけど、アルフォンスの知っているミュンヘンではない場所なのかもしれない。
 だとしたら、おそらく、きっと……。
 アルフォンスは細く溜息を洩らした。
 ゆっくりと振り返った先に、エドワードの背中が見える。
 長い髪が、背中で揺れている。
 それを見るともなく見つめていたアルフォンスは、気がつけば遠く――アルフォンスにとっては夢の世界――を見つめるエドワードの姿を、思い出した。
 その行為の意味。エドワードの気持ち。それらが初めて、なんとなく判ったような気がした。
 アルフォンスは歩き出す。
 前を歩くエドワードの背中を、ただ、じっと見つめた。
 きっと。いや、絶対に、彼も同じことを考えているんだろう。
 そう確信しながら。

 郊外に出て、どれくらいの距離を歩いただろうか。
 舗装も整備もされていない道と、両側の視界に広がる緑や牧草地は、延々と続いていた。
 空を見上げれば、青い空に、ぽっかりと白い雲が流れている。
 呑気な光景だなぁ。
 そんな感想を抱きつつ歩いていたアルフォンスは、エドワードの表情が複雑なものになっていることに気づいた。
 隣を歩く横顔をちらちらと気にしつつ、どうしたのかと問いかけるタイミングを窺ってみるものの、なかなかそれがつかめない。
 エドワードはエドワードで、アルフォンスの存在など忘れたように、周囲を注意深く見回している。
「エドワードさん?」
 不意にエドワードが歩みを止め、なにをそんなに驚いているのかと思うほど、大きく目を見開いていた。
 アルフォンスの声が聞こえていないのか、エドワードは「嘘だ」と呟いた。
「エドワードさん、どうかしたんですか?」
 エドワードの顔を覗き込もうとしたアルフォンスは、突然、エドワードに腕を掴まれた。
 強い、力だった。
 まるで締め付けるように力を込められて、掴まれた手首が痛みを訴えたけれど、アルフォンスは抗議の声を上げることさえできなかった。
 エドワードの表情は、強張っていた。
 怯えているようにも見えた。
 泣きたいのかもしれない、そんな風にも思えた。
 どう表現すれば適切なのか、アルフォンスにも判らないほど、エドワードの表情は複雑なものだった。
「アルフォンス……」
 呆然とした声に呼ばれて、「なんですか?」とアルフォンスは問い返した。
 頼りなく、エドワードがアルフォンスを見上げた。
 迷子の子供のように、途方に暮れた顔。
 夕食までに帰れなくて、叱られることを怖がっている子供のような顔をしている。
 それを見て、アルフォンスは確信した。
 不思議と気持ちは落ち着いていた。
 視線を落とす。
 手首を掴んでいるエドワードの左手が、震えていることに気づいたからだ。
 いつもどこか飄々とした、怖いもの知らずのエドワードの態度が怯えているような、怖がっているような態度だから、逆に、アルフォンスが落ち着いていられるのかもしれない。
 もう一度エドワードに視線を戻し、それから、アルフォンスは微笑を浮べた。
 エドワードが困惑したように見つめ返してくる。
「行きましょう」
 左手で、エドワードの手をあやすように軽く叩いて、アルフォンスは歩き出した。

 やがてふたりは、分かれ道に辿り着いた。