7 右か、左か。 問いかけるように見つめる瞳を、エドワードはちゃんと見返すことができなかった。 青い瞳は、優しい。 エドワードに対する気遣いが伝わってくる。 そのアルフォンスの優しい気遣いが、エドワードを追い詰めていた。 鼓動は嫌になるほど速い。 息が詰まりそうなほど。 ずっと、願っていた。望んでいた。 帰ること。 けれど、こんなにも怖い。 帰ってこられたのかもしれない。その可能性があるだけだというのに。 突然のできごとに、すっかり足が竦んで、体は不必要に強ばって、動かない。 気持ちを落ち着けようと深呼吸をしても。何回それをくり返しても、効果はなかった。 少し目線を落とせば、とっさに掴んだままだったアルフォンスの手首と、それを掴んでいる自分の手が見えた。 それに不必要にかかっている力を、思った。 エドワードが掴んでいる箇所は、きっと、痣になっているだろう。 二、三日は消えないに違いない。 埒もないことをぼんやりと考えつつ、緩慢な思考でエドワードは力を緩めないといけないと思った。 きっと、ずっと痛かったはずなのに、アルフォンスはなにも言わなかった。 ほんの少し指先を緩めるだけで、指先に込めていた力は、簡単に抜けた。 ほっとして、エドワードは体の力や、足の力も抜こうとした。それなのに、上手くいかない。 呆気なく指の力は抜けたのに、エドワードの意に反して、足の力が抜けない。動かない。 いや、違う。 エドワードは苦く顔を歪めて、否定した。 違う、そうじゃない。 動かないんじゃない。動かせないのだ。 嬉しいのに。 帰ってこられたのかもしれないのに。 この、目の前に広がる道を、エドワードは良く覚えている。忘れるわけがない。 何度も、何度も、見上げた。優しい笑顔。 いつでも手を繋いでくれた。 (母さん……) 優しくて、きれいで、自慢の母親だった。大好きな人だった。 その人と、アルと、エドワードと。三人でこの道を何度も歩いた。 ウィンリィや、学校の友人たちとも、この道を走り抜けたことがある。 ダブリスから戻ってきて、まっすぐ、アルとふたりでこの道を走り抜けた。 この道を、現実から目を背けるためだけに振り返ることはないと心に決めて、機械鎧の手足をつけて下ったことも、昨日のように覚えている。 そして。もう二度と、この道を。故郷の景色を目にすることはないと絶望したのは、そんなに遠い日のことではなかったけれど。 「エドワードさん」 静かな呼びかけに、エドワードはのろのろと視線を動かした。 「僕、ここで待っていましょうか?」 「え?」 「僕が一緒じゃないほうがいいんじゃないかと思って」 なぜそう思うのだろうかと考えて、エドワードは苦笑した。 アルフォンスに背中を押してもらってばかりで、まだなにひとつ自分では決めていない。 決断を、選ぶものを、決めてもらおうと心のどこかで思っている。 そんな自分の甘えに、エドワードは気づいた。 「……オレ、もしかしなくても頼りすぎてるか?」 「いえ。そんなことはないです。でも……」 「でも、オレが、お前が戻ろうと切り出すのを待っている……ように見える、か?」 「いえ――――ええ、そうですね。そんな風にも見えます」 一端は否定したものの、それを翻してきっぱりと頷いたアルフォンスに、エドワードは顔を顰めた。 こんなときのアルフォンスは、情け容赦がない。 エドワードの逃げ道を、簡単に、当たり前のように塞いでしまう。 そして優しく穏やかな眼差しは、エドワードの決断の遅さに呆れているようだった。 まあ、でも、いつだって肝心なときには優柔不断だからと、諦めてもいるようだけれど。 「エドワードさんの自由ですよ」 突き放した言い方で、アルフォンスが言った。 エドワードは苦笑する。 アルフォンスの言うとおりだ。 このまま進むのも、引き返すのも、エドワードの自由だ。 けれど、結果を先送りにするだけで、状況が変わらないことをエドワードは判っていた。 昨日までとは違う場所。 ここは、ミュンヘンとリゼンブールが交わってしまった世界だ。あるいは、もとから同じ場所に存在している世界。 どうしてそんな世界に自分たちがいるのか。 そうなった原因を、エドワードはなんとなく察している。きっと、アルフォンスも察しているだろう。 そして、たぶん。 エドワードは目を閉じた。 気づいているのなら、弟も。アルフォンス・エルリックも気づいている。 あの、夢。 三人が邂逅した、あの夢の場が、きっとこの場所に繋がっていた。 なんの力が作用して、三人同時に、あの夢の中にいたのか。エドワードには判らない。 アルフォンスにも、アルにも判らないだろう。 阻むように立ちはだかっていた、目の前の壁。 見えない壁の向こうにいた、弟のアルフォンス。 手を伸ばして、触れて、抱きしめたかった。 ずっと求めていた体温を、感じたかった。確かめたかった。 もう、あの鋼鉄の冷たい鎧じゃないこと。魂だけの存在じゃないこと。 自分を犠牲にすることにためらいを感じないほど、愛しい弟。 鎧に反響しない声で、「兄さん」と呼ばれたかった。「アル」と呼びたかった。 触れたい。触れたい。触れたい。 ただ、それだけだった。 アル。アルフォンス。お前に、いま、触れたいんだ。 溢れる感情を、思いを、堰きとめる意思は必要なかった。 とっさに打ち合わせた両手。壁についた、掌。 錬金術が使えないなんてことは、エドワードの頭の中から吹き飛んでいた。 二種類の残響の中で溢れた光。目を焼くような光の洪水は、けれど、包み込むように暖かかった。 誰かの声を、聞いたような気もした。 エドワードがアルフォンス――弟の名か、友人の名か。そのどちらとも――を呼んだ声だったのかもしれないし、どちらかに呼ばれた声だったのかもしれない。 声そのものが、もしかしたら、錯覚だったのかもしれない。 ゆっくりと、エドワードは瞳を開いた。 迷ってどうする。怖がってどうする。 望みは、たったひとつだった。 あの日から、いつだって、それだけを願って、望んで。 思い出せ。なんのために。誰のために、国家試験を受け、軍の狗になり、『鋼の錬金術師』という二つ名を背負ったのか。 この手の中に、もう、銀時計はない。 それでも、一度背負ったことのある銘――その名は、深く、強く、エドワードの中に刻まれている。 どこにいたって、永遠に、その名を忘れることはない。 鎖であり、戒めであったその名は、同時に、誇りでもあった。 鋼鉄の体にした弟と共に過ごした時間を、鋼の名を持つ自分が過ごしていたのだ。 望みは、いつだってたったひとつだ。 (お前の笑った顔が見たいんだ) まだ対価を支払えというのなら、いくらでも。何度でも。この身体を、命を犠牲にしてでも。 「アルフォンス」 強い声で呼びかけると、アルフォンスが少しだけ。本当に一瞬だけ、淋しそうな顔をした――気がした。 「アルフォンス、この先に、オレが生まれて、育った家があった……」 エドワードは、すいっと、義手の右手で分かれ道の一方を指差した。 |